エリザベス 女王 マスク。 エリザベス女王は13歳で恋に落ちた。結婚生活70年を写真で振り返る

エリザベス女王が毎日食べているもの

エリザベス 女王 マスク

シャンパンを楽しむ女王エリザベス2世。 ワインは好みではない。 PA 今日はロイヤルウエディング。 たくさんの招待客が素晴らしいメニューを楽しむことだろう。 ところで、エリザベス女王は毎日、豪華な食事を楽しんでいると思うかもしれない。 だが実際はそうとも限らない。 によると、王室料理長のマーク・フラナガン(Mark Flanagan)氏は週に2度、女王にメニュー案を提出、女王は気に入ったものにはチェックを入れ、それ以外は線で消す。 かつて王室のシェフを務めていたダレン・マグレイディ(Darren McGrady)氏は、女王は「、生きるために食べている。 食べることが大好きで、一日中で食について語っていられるフィリップ殿下とは対照的」と語った。 「女王陛下が1人で食事をされるときは、とても節制されている。 デンプンは避けるのが決まり」と同氏。 エリザベス女王は、2018年2月に。 女王が普段どんなものを食べているのか。 朝の紅茶とビスケット、糖質を抑えたランチ、毎晩のシャンパンから好物のチョコレートまで、詳しく見てみよう。

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エリザベス女王が毎日食べているもの

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1952年 -• 1952年 -• 1952年 -• 1952年 -• 1962年 -• 1966年 -• 1973年 -• 1974年 -• 1975年 -• 1978年 -• 1978年 -• 1979年 -• 1979年 -• 1981年 -• 1981年 -• 1983年 - 全名 エリザベス・アレクサンドラ・メアリー・ウィンザー Elizabeth Alexandra Mary Windsor 出生 1926-04-21 (94歳) 、、 配偶者 子女 王家 王朝 王室歌 (イギリス国歌と同一) 父親 母親 宗教 称号: 女王 敬称 Her Majesty the Queen• ・ ・ ・ エリザベス2世(エリザベス2せい、: Elizabeth II、 - )は、(イギリス)を含む、16か国の()のであり、とのである。 また、の ()。 としてはの第4代女王である。 の王としては、 エリザベス1世 (エリザベス1せい、: Elizabeth I)。 実名は、 エリザベス・アレクサンドラ・メアリー・ウィンザー(: Elizabeth Alexandra Mary Windsor)。 に(国王)に即位してに加盟する独立国家たる7か国、すなわち、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国()、、、、、、の(国王)になる。 連合王国女王のに属するおよびの数はからまでに独立あるいはに移行したりしたため、少しずつ減少していった。 現在の今日においては、(現在まで存続している)前述の4か国(、、、)に加え、、、、、、、、、、、、がエリザベス2世女王を君主としている。 こうしてエリザベス2世は、合計16か国の君主を兼ねている。 またなど、上記の国とをとる国や、その他の国・地域の中にも女王を元首としているところが存在する。 またにおいては統合の象徴である ()と規定されている。 、たるを抜いて、 イギリス史上最高齢の君主になった。 には国王のが90歳で崩御したことにより、88歳(当時)で 存命する在位中の君主の中で世界最高齢になった。 2015年には、在位期間が63年と216日となり、同じくヴィクトリア女王を抜いて イギリス史上最長在位の君主となった。 2016年10月13日には(国王)の崩御により、2020年4月21日現在(94歳)、 存命の君主では世界第1位の長期在位君主となった。 人物 [ ] 、父方の祖父国王治世下のイギリス、ので、王子と同妃の第1子・長女として誕生し、宮廷内で大養育された。 、父のアルバート王子が、彼の兄であるのを受けて、ジョージ6世としてイギリス国王に即位すると、エリザベス王女は(権第1位)となった。 また、中にに属してに携わるようになった。 には、と結婚。 、父の国王ジョージ6世が崩御し、(旧法)に基づいて、25歳という若年にして「エリザベス2世(Elizabeth II)」として(君主)に即位した。 なお、夫()のフィリップは共同君主・共同統治者ではない。 に執り行われた自分のは史上初めてされた。 ()や、との間の相互訪問など、多くの歴史的な訪問および会見をこなしただけでなく、 ()やカナダ憲法における ()のように、下での重大な改正を自身の治世で目の当たりにしてきた。 このほか、個人的な出来事としては、4人の子女(3男1女)の出産と結婚、および孫と曾孫の誕生、 ()(立太子礼)、そして自身の ()()、 ()()、 ()()、それぞれのを経験した。 2016年4月21日に90歳の誕生日を迎えた女王であるが、公務に対する姿勢は衰えない。 彼女が2015年度に常時の住居であるやなどの宮殿や居城で接遇した人数は、9万6000人に及ぶ。 イギリスでは年度ごとの者には、女王(国王)が一人ひとりにやを手渡すことが慣例となっている。 近年では長男のや孫の一人であるもこれを担うようになってはいるが、それでも彼女がこなす公務は年間200件を越える。 また、やの充実、やの振興、やの保護、やなどの団体の会長や総裁を務めている。 関係する団体は、イギリス本国だけではなく、、、など構成国をはじめ16か国にまたがり、2016年8月時点で648団体にのぼる。 来歴 [ ] 生い立ち [ ] 、3歳のエリザベス王女 1929年4月29日号表紙より 午前2時40分()、市内の地区17番地に所在する母方の祖父の家において、アルバート(後の)と妃との間に、第一子・長女として生まれる。 出産はであった。 父アルバートは、国王と妃の次男で、母はの第14代の末女である。 同年に、内のプライベート・チャペルで、 ()の ()によってが施された。 祖父ジョージ5世は孫娘エリザベスを溺愛しており、に自身が大病を患った際も、「彼女が定期的に見舞いに訪れたことが、病気の回復を早めるのに一役買った」と言われている。 、4歳の時に、妹が誕生した。 当時は、「が保証されるの女子には、は不必要」という時代であった。 しかし祖母王妃の方針により、姉妹そろって宮廷内で教育を施された。 教育は、 ()によって、、、、を中心に行われた。 クロフォードが後に記した伝記によれば、「エリザベス王女は、この頃からやなどの好きで、規律正しく責任感の強い性格であった」とある。 また後に彼女の治世となって最初のとなるも、当時2歳だったエリザベス王女に接して「子供ながら、驚くほど威厳と沈思のある態度だった」と回想している。 祖母、妹と共に。 (王太后の右側の少女) 出生時における正式な称号は、 Her Royal Highness Princess Elizabeth of York( エリザベス・オブ・ヨーク王女殿下)であり、伯父の、父のヨーク公アルバートに次いで、第3位のにあった。 エリザベスの誕生は世間の関心を集めたが、当時は、まだ若くて独身だった王太子のエドワードへのが期待されており、彼女の即位を予想する者はいなかった。 1月、祖父ジョージ5世国王の崩御を受けて伯父にあたるが即位する。 しかし彼は、イギリスと対立しつつあった、とりわけに親近感があるような態度をとり、経験を有する人女性のとの結婚をほのめかした。 これにより、らが彼に退位を迫り、同年12月に退位する(この一件は「王冠を賭けた恋」として知られる)。 そして、エドワード8世の弟でエリザベス王女の父であるヨーク公が即位して、国王ジョージ6世となる。 これを受けて、イギリス国王の長女(第1子)で王位継承権者第1位となったエリザベス王女は国王王妃夫妻となった両親と妹のマーガレット王女と一家とともにに移住し、 Her Royal Highness Princess Elizabeth(エリザベス王女殿下)のを与えられた上で、王位のとなる。 当時のイギリスの王位継承法上、男子優先長子相続制であったこの時点で、「もしもエリザベスとマーガレット王女姉妹に弟が存在していたならば、その弟が即ち次期国王となり、彼女は推定相続人として女王に即位することを逃していたであろう」と考えられる。 この間、しばしば首都も「」の対象となり、ロンドンに居住する多数のがしていった。 国王夫妻の子供であるエリザベスとマ-ガレット王女姉妹についても、「より安全なへと疎開させること」が政府から提案されたものの、母エリザベス王妃が「私の子供たちは私のもとを離れません。 また、私は国王陛下のもとを離れません。 そして、国王陛下はロンドンをお離れになりません」と述べて、これを拒否した。 結局、両姉妹は1939年のまで、ので過ごすことになり、その後はのに戦時住居として移転した。 さらに2月から5月まで、ウィンザーの ()に滞在した後、へ移り住み、以後による空襲の脅威が減少するまで5年近くを過ごすこととなった。 ウィンザー城滞在時には、軍用衣類向けのを生成する毛糸を調達していたクイーン・ウール・ファンド(Queen Wool Fund)を支援するために、に家族や友人たちを招待して、職員の子女たちとともに、を上演したこともあった。 この滞在中の、14歳のエリザベスはのを通じて初めてを行い 、 「私たちの勇敢なの助けとなるために、私たちが出来ることはすべて試みていますし、私たちが共有する戦争の危険や悲しみに耐えようと努力しています。 私たち一人一人が、終いには万事上手くいくことを確信しています。 」 We are trying to do all we can to help our gallant sailors, soldiers, and airmen, and we are trying, too, to bear our share of the danger and sadness of war. We know, every one of us, that in the end all will be well. と述べた。 これ以後、次期王位継承者として少しずつに携わるようになる。 にのとなり、大戦中も国民と共ににあたった。 、16歳の時に、エリザベス王女は初めての単独での公務において、名誉連隊長としてを訪問した。 以降も各地への訪問および激励を重ねた。 18歳の誕生日を迎えると、法律が改正されて、父王が公務を執行できない場合や国内に不在である場合(例えば、7月のイタリア訪問時)に、彼女が5人の ()のうちの1人として行動できるようになった。 2月には、に入隊し、名誉第二として、女性軍人として「エリザベス・ウインザー」の名および『230873』のにおいて 、のや管理などに従事したほか、のを取得し、軍用の運転なども行った。 それまでの女性王族は、などにおいて「」が与えられたとしても、名誉職としての地位に過ぎないというケースが慣例だったが、枢軸国によるへの上陸の危機()という非常事態を受けて、次期イギリス女王になることがほぼ確定されていたエリザベス王女はその慣例を打ち破り、他の学生たちと同等のを受け、に従軍する初めてのケースとなった。 エリザベス王女は、王族である自身が一般の兵士とほぼ全く同等のをされることを非常に喜び、これらの経験をもとに、「自分の子供たち(3男1女)も宮廷で教育させるより、一般国民の子女たちと同等の学校に通わせることを決意した」という。 でのが終結した、(現・、V-Day)には、「の街中で戦勝を祝福する一般市民の中に、妹と共に匿名で混じって、真夜中まで勝利の喜びを分かち合った」という。 におけるイギリスの勝利後の4月には、両親の国王夫妻に付き添って初めて外遊し、妹のマーガレット王女と一家4人でを訪問した。 外遊中、にて21歳の誕生日()を迎えた際には、に向けたラジオ演説の中で、エリザベス王女は次のような誓いを交わした。 「私は、私の全生涯を、たとえそれが長かろうと短かろうと、あなた方と我々の全てが属するところの偉大な、威厳ある国家に捧げる決意であることを、あなた方の前に宣言いたします。 」 I declare before you all that my whole life whether it be long or short shall be devoted to your service and the service of our great imperial family to which we all belong. 結婚 [ ] 将来の夫となるおよび王子(フィリップ)とは、7月にで出会い、一目惚れして以降、を始めることとなる。 また、これ以前にもとの二度にわたり面会している。 なお、夫婦である二人は国王のとを通して遠戚関係にある。 フィリップとともに() に正式にが発表されたが 、婚約に至るまでの経緯は決して順風満帆とは言えなかった。 その要因は、フィリップがから亡命した現役の士官であり、資産を所有していなかったこと、生まれであることのほか、フィリップの姉がとの関係を持ったドイツ系貴族と結婚していたこと等にある。 なお、これに先立つ同年2月にフィリップはイギリスにした。 帰化した際、イギリスにおける軍務を継続するために母の実家の家名である「マウントバッテン」( Mountbatten、「 Battenberg」を英語化したもの)を姓として選択した。 またこれに伴いフィリップは、ギリシアからへの改宗を行い、さらに形だけとなっていたギリシャ王子及びデンマークの王子の地位を放棄することを宣言した。 同年ににて、かねてから交際を続けていたフィリップとを挙げた( ())。 結婚後の数ヶ月間を当時イギリス領だったで過ごした。 夫妻は世界中から2500個の結婚祝い品を受け取った。 戦後のイギリスにあっては、婚礼に招待するに際して、当時存命していた3人の姉を含めて、フィリップ(エディンバラ公)のドイツとの関係は受け入れ難いものだった。 また、(かつての国王)も招待されなかった。 エリザベスは、結婚した翌年のに第一子・長男を出産し、には第二子・長女となるが誕生した。 父ジョージ6世国王の崩御、女王即位 [ ] 夫フィリップ王配と長男チャールズ、長女アンと共に(1957年10月撮影のエリザベス2世英女王一家) 生来病弱であった父ジョージ6世の健康状態はに入り悪化し、翌未明、療養を兼ねてやを楽しむ為に訪れていたサンドリンガム御用邸で、就寝中ににより、崩御(死去)した(56歳没)。 エリザベス王女は夫のフィリップとともに、英国にはおらずと公式訪問の途上、滞在中であった。 これを受けて、(旧法)に基づいてそれまでのエリザベス王女(Princess Elizabeth)が王位を継承し、女王に即位して「 エリザベス2世女王」( Queen Elizabeth II)となり、同名の母エリザベス王妃は「エリザベス」(Queen mother Elizabeth)となる。 翌には、世界各国の元首級の賓客らを招待してで ()を行い、この模様はイギリス連邦内だけでなく世界各国に当時の最新である白黒により中継された。 これには日本のからも、の名代として(当時)が参列した。 女王時代 [ ] 夫の 以降、公務引退。 以来半世紀以上に亘ってイギリス女王の座にある。 、第三子・次男出産。 、第四子(末子)・三男出産。 日本へは(昭和50年)に1度のみ、フィリップ王配と夫妻で訪問している(5月7日-12日)。 その際は、当時のをはじめとも交流を重ねた。 5月7日夜に昭和天皇主催のでの宮中晩餐会に出席し、8日にはNHK()を訪問、大河ドラマ「」の収録を見学した。 9日には都心でパレードをして東京都民の歓迎に応えた。 女王はこの後、やを訪問し、12日に離日した。 にはを公式訪問、と会談、「に計画しているイギリス訪問を歓迎する」と述べた。 イギリスの元首にしての最高権威がローマ教皇を公式訪問したのは、1534年にがイギリス国教会を作って以来これが初めてであり、これが1982年5月28日のヨハネ・パウロ2世のイギリス訪問とローマ・カトリックとイギリス国教会との和解への布石となる(ただし、にがバチカンを訪問したことはある)。 、義理娘であったがフランスのパリで交通事故により36歳で死去した際( )、義母であった女王自身の意思の下でのイギリス王室の冷ややかな対応が批判を浴び、同年にテレビ放送を通じて哀悼のメッセージを送り、長男チャールズ王太子との離婚以降、英王室から敬遠されていたダイアナ元王太子妃の名誉回復を行い、王室の信頼回復に努めた。 自身の在位半世紀を迎えたには、の妹の逝去(71歳没)、の母の崩御(101歳没)と、同一年に肉親との死別が2回も続いた。 、4日目()には、以来33年ぶりに、大会を観戦した。 、長女(第2子)アン王女の長男に、自身の初曾孫にあたる女児が誕生し、曾祖母となった。 、の祖父による訪問以来、100年ぶりにとしてを公式訪問している。 1911年当時はイギリスの(の一部)であったため、独立後としては初の訪問である。 に90歳を迎え、高齢のため公務の一部を徐々に自身の長男であるに引き継ぐようにはなっているものの、現在も精力的に公務を行っている。 に当時96歳となった夫のフィリップ王配が単独の公務から引退したが、エリザベス2世女王自身は引退する意向はなく、今後も当分は公務を継続するとされている。 同年11月20日に成婚70周年を迎え、これは60周年の時と同様、として初である。 称号 [ ] を初訪問した際にと並ぶエリザベス2世() イギリスにおける称号および呼称 [ ] エリザベス2世は、イギリスを含め16の国家の女王・元首であり、それぞれの国で異なる正式称号を所有している。 そのうち、イギリスにおける正式称号は以下のものである。 Her Majesty Elizabeth the Second, By the Grace of God of the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland and of Her Other Realms and Territories Queen, Head of the Commonwealth, Defender of the Faith. 直訳『 ()、ならびにその他のおよび領域の女王、 ()、であるエリザベス2世陛下』(かみのおんちょうによる、グレートブリテンおよびほくぶアイルランドれんごうおうこくならびにそのたのレルムおよびりょういきのじょおう、コモンウェルスのちょう、しんこうのようごしゃであるエリザベスにせいへいか) 「」は、元来はに反対したに対し、から授与された称号である。 のにより首長の称号となった。 「レルム(英:Realms)」にはという意味があるが、ここではを指す。 領域は王室属領および海外領土を指す。 また「(英:Commonwealth)」には複数の意味があるが、ここでは「」を指す。 イギリスにおける称号および呼称の変遷 [ ]• エリザベス・オブ・ヨーク王女殿下( Her Royal Highness Princess Elizabeth of York)• エリザベス王女殿下( Her Royal Highness The Princess Elizabeth)• エジンバラ公爵夫人エリザベス王女殿下( Her Royal Highness The Princess Elizabeth, Duchess of Edinburgh)• 女王陛下( Her Majesty The Queen)• 神の恩寵によるグレートブリテン、アイルランドおよびイギリス海外自治領の女王、信仰の擁護者( By the Grace of God, of Great Britain, Ireland and the British Dominions beyond the Seas Queen, Defender of the Faith)• - 現在• 女王陛下( Her Majesty The Queen)• 神の恩寵によるグレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国およびその他のレルムと領土の女王、コモンウェルスの長、信仰の擁護者( By the Grace of God, of the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland and of Her other Realms and Territories Queen, Head of the Commonwealth, Defender of the Faith) イギリス国内での非公式な称号 [ ] イギリスの君主は王冠と統合された爵位の潜在的な保持者である。 現在でも「 ()」を相続し、イギリスの内閣にはが存在する。 このため関連する行事等でという呼称が用いられることもある。 イギリス以外の称号 [ ] イギリス連邦 [ ] 紋章入りのカナダの旗 エリザベス2世は、イギリス連邦に加盟する諸国のうち、彼女を元首とする国の元首であり、国王となる。 正式称号はイギリスにおける正式称号と国名が異なる程度であるが、「信仰の擁護者」についてはカナダとニュージーランドのみが採用している。 英連邦王国を構成する国は、それぞれ独自の意見を持っている主権国家であり、ときにはそれらの国が政治・経済問題で対立することもある。 エリザベス2世はこの場合対立する2つの君主であるという立場になる。 ただし、いずれの国も国家であり、当該国の国法に定められた当該国の政治的手続きに従う必要があるため、エリザベス2世自身の政治的判断が求められることはない。 実際にイギリス以外の国の元首として公務に携わることもある。 その国に滞在している場合は本人が直接行動する場合が多いが、直接本人が行動できない場合は代理人を通じて行動することもある。 公務中の地位については、カナダの公務の場合はカナダ女王、オーストラリアの公務の場合はオーストラリア女王、パプアニューギニアの公務の場合はパプアニューギニア女王というように、対象国に合わせて変動する。 このような女王の公務のあり方の実例として、過去のの開会宣言を挙げることができる。 近代オリンピックの開会宣言はによって「開催国の国家元首がこれを行う」と定められている。 エリザベス2世女王を国家元首に戴く諸国の中では、下表の通りととで計6回のオリンピックが、その在位中に開催されている。 うち、女王の名において行われた開会宣言は計3回あり、本人が直接開会宣言を行ったのは2回、女王のフィリップが女王の(代理人)として開会を宣言したのが1回を数え、イギリス女王、カナダ女王、オーストラリア女王の称号が用いられている。 その他の大会は、事実上の国家元首である総督が自らの名のもとに開会を宣言している。 エリザベス2世在位中のオリンピック開催年表 西暦 季 オリンピック 開催国 開会宣言 夏 オーストラリア女王の名代として夫のが宣言代行。 夏 カナダ女王としてエリザベス2世が宣言。 冬 として ()総督が宣言代行。 夏 として総督が宣言代行。 冬 カナダ総督として総督が宣言代行。 夏 としてエリザベス2世が宣言。 また、、、においての各国の最高司令官であり(ただしあくまで名目上。 実質上最高司令権を有するのは、政府の長たる首相)、英連邦諸国における複数のの位を所持する。 王室属領における称号 [ ] は、内にあるがイギリス政府の統治権下にはなく、イギリスの君主が保持する別の主権によって統治されている。 においては「 ()たる女王(Queen, Lord of Man)」 と呼ばれている。 (、)においては「たる女王(Duck of Normandy,Our Queen)」となる。 人物 [ ] 女王と競馬 [ ] 詳細は「」を参照 近代発祥の地であるイギリスにおいては、競馬を庇護・発展させる君主がしばしば現れている。 エリザベス2世も競馬の熱心なである。 イギリス史上初めて、スポーツ団体に勅許を与えてジョッキークラブの決定に法的基盤を付与したのはエリザベス2世である。 この結果、200年以上にわたって「先例」でしかなかったジョッキークラブの裁定には法的な根拠が認められることになり、権威と権限が大幅に強化されることになった。 また、ニューマーケットにを移したのもエリザベス2世である。 エリザベス2世は馬主・生産者として大きな成功を収めている。 両親の名を冠したの優勝馬のほか、4頭の優勝馬など、所有馬には数々のステークス優勝馬がいる()。 1954年と1957年にはイギリスのリーディングオーナー(所有馬の獲得賞金額首位)となった。 在位中にこのタイトルを複数回獲得した君主は史上にエリザベス2世のみである。 所有馬に騎乗するが着用するは、紫色の胴部に金ボタンと刺繍をあしらい、袖色は赤。 帽子は黒のベルベット地、頭頂部に金モールをあしらったものを使用している。 イギリスにおける牡馬・牝馬のクラシック競走のうち、のみ所有馬の優勝がない。 2011年には所有馬のカールトンハウスが1番人気となり、85歳にして初のダービー優勝馬所有なるかと競馬界を超えて広くイギリス社会の注目を集めた。 女王自身もでレースを天覧したが、落鉄のアクシデントなどもあり3着に終わった。 2013年6月、英王室自ら開催するにおいて、所有馬のエスティメイトがに優勝し36年ぶりにGIを制覇した。 ロイヤルアスコット開催時には、毎年宮殿からでへ向かうのが慣例である。 ロイヤルアスコット開催のレースにおける優勝馬の関係者は、エリザベス2世などが出席するイギリス王室主催の茶会に招かれる。 イギリスの「」、の「」、の「」、イギリスのであったの「」など、エリザベス2世の名を冠したが世界各地に存在している。 主な所有馬 [ ]• Aureole() - ジョージ6世が生産し、1954年、などに優勝。 種牡馬としても1960年、1961年にイギリスのとなる。 Carrozza(カロッツァ)- 1957年に優勝。 馬主としてクラシック競走初優勝。 Almeria(アルメリア)- 1957年などに優勝。 Above Suspicion(アバーヴサスピション)- 1959年に優勝。 Pall Mall (ポールモール)- 1958年に優勝。 Canisbay(キャニスベイ) - 1965年に優勝。 Hopefull Venture(ホープフルヴェンチャー)- 1968年などに優勝。 オリオールの子。 Highclere()- 1974年、(フランスオークス)に優勝。 日本ではの曽祖母として知られる。 Height of Fashion()- ハイクレアの子。 1981-1982年に3つの重賞競走に勝利。 、などの母。 Dunfermline(ダンファームライン) - 1977年、に優勝。 後者でを破る。 国民へのビデオメッセージ [ ]• 祖父から、代々の国王がBBCラジオで放送していたクリスマスメッセージを、に初めてBBCテレビでした。 現在はBBCが事前録画し、毎年の()になどで、英連邦王国国外にもテレビ放送されている。 朝に放送されたクリスマスメッセージのビデオ(録画:同年)では、「 私たちを分断するものより、結び付ける者のほうがたくさんある」、「 違う考え方を持つ人同士が互いを尊重することが大事だ」と強調した。 これは当時、政権が(EU)と合意した(イギリスのEU離脱)協定を巡ってイギリス議会が紛糾していたが、国家元首として女王は政治問題については中立の立場を保っているものの、イギリスが直面する国家にとって重要な課題を意識したとされた(結果的に、政権下のに、イギリスは正式にEUから離脱した)。 また、「長寿は人を賢くすると信じる文化もあります。 私もそう思いたい」とも話し、の誕生に触れ、「この知恵には、人生におけるやっかいな矛盾を認めることも入るかもしれません。 例えば、 人間には善意を求める大きな気持ちと悪意を持つ能力があります」、さらに女王は4月に行われた首脳会談に触れ、連邦の力は「 愛の絆と、より良い平和な世界で暮らしたいという共通の願いにあります」と話した。 そして、「 どれほど深刻な違いがあっても、相手を尊重し、同じ人間として接することは常に、より良い理解への有効な一歩です」と話しその上で、「何年もの間、さまざまな変化を見てきましたが、 私にとって信仰と家族と友情は、ただ不変のよりどころというだけでなく、 個人的な安らぎと安心の源でした」と、女王は自らのへの強い信仰心を強調した。 のクリスマスメッセージのビデオでは、背景にヘンリー王子夫妻の写真が無いことが特に注目され、「国民や王子夫妻に対して何らかのメッセージを送っているのではないか」との憶測を呼んだ。 結果的に、翌の年明け早々、王子夫妻の王室離脱(同年付での)が発表された。 その他、エリザベス2世女王のイレギュラーなテレビ放送によるビデオメッセージとしては、1回目がの勃発に際して、2回目がのの死に際して、3回目がの母の死に際して、4回目がの自身の即位60周年に際してがある。 、の感染拡大(COVID-19)の局面にて、国民に慰撫と激励のメッセージを送るとともに、最前線で立ち向かう従事者たちに謝意を表した。 クリスマス以外にビデオメッセージを送ることは稀であり、即位後5回目の出来事であった。 メッセージの最後は、中の国民的な応援歌、の『 We will meet again』を引用し、「 より良い日は巡ってくる。 また会いましょう」と締めくくった。 エピソード [ ] 公用車のベントレー・ステートリムジン• の即位50周年記念に、イギリスの自動車製造者協会からが公用車として進呈された。 愛犬家であり、少女時代に先代国王の父ジョージ6世が遊び相手として与えたことから、現在もを飼っている。 その他にレトリーバーも飼っている。 国内旅行時には、可能な限り愛犬達を同伴する。 2012年のロンドンオリンピックの開会式のために『幸福と栄光を』という短編映画でジェームズ・ボンドと共演したが、このときも愛犬たちも出演している。 「クイーン・エリザベス」というが、即位の年であるに出された。 在位50年の記念の年であるには「ジュビリー・セレブレーション」、在位60年の記念の年であるには「ロイヤル・ジュビリー」というバラが贈られている。 かつて(日本の年間)の時代に自身の祖父国王が、(皇太子明仁親王の父親である)昭和天皇の(その当時の明仁親王とほぼ同じ年頃に)折に歓迎し、日英の皇室王室間交流が始まった話などを振り返り、(で敵対した)戦後の日英関係の友好親善に尽力したとされる。 女王自身が「時代に合わない」として、を最後に、女王主催の()は行われなくなった。 替わりに、のが行われている。 (製作『ダイヤモンド・クイーン~王室の存亡と近代化~』)• 1975年(昭和50年)5月7日-12日に夫妻で日本を訪問した際、都内のでと面会した。 黒柳はインタビューで「『(エリザベス女王:)どんなお仕事なの? 』『(黒柳:)女王さまのテレビ中継です』『(エリザベス女王:)お仕事うまくいった? 』『(黒柳:)ええ、女王さまがうまくやってくださったので』みたいなやりとりで、女王さまは大笑いしてティアラと胸もとのダイヤモンドと真珠の飾りが揺れて燦然として、私は『(黒柳:)こんなの見たことない、美術館にあるのと同じだ』と思って口を開けて見てたんですけどね。 私みたいにどんどん話しかける人がいなかったので、5分の予定が20分になっちゃって。 女王様はたくさんお笑いになりました」と当時のことを振り返った。 には、住居であるからので、でオリンピックスタジアム上空まで移動し、ので地上に降下し、貴賓席に姿を表す、という「サプライズ演出」がなされた(実際に飛び降りたのは無論女王本人ではなく、ゲイリー・コネリーというプロのスタントマン )。 この演出のために監督とによって『幸福と栄光を』というが制作されたが、女王の召喚を請けて、の女王の私室をボンドが訪れる場面では、女王本人が出演。 その際に、私室内での出演のみならず、室での動画撮影を許可している。 女王在位60年、007シリーズ50周年の節目の年に、ジェームズ・ボンドとエリザベス女王が共演する『』が現実のものとなった。 2013年4月、これらの功績により、から、名誉賞を授与された。 、園遊会においてのの訪英に際して、外交使節団の振る舞いが大変無礼であったと発言、さらにルーシー・ドーシー警視長に「運が悪かったですね」と労いの言葉を掛け、駐中国イギリスに対しても中華人民共和国側の対応が「酷く失礼でした」と述べていたことがBBCの取材で明らかとなり、女王の異例の発言として注目を集めた。 中華人民共和国ではBBCワールドニュースが、この女王発言について報道する場面で、急にテレビ画面と音声を切断する報道検閲が行われた。 イギリス王室は「女王の私的な会話にはコメントしない。 としての訪問は大成功だった」とする声明を出した。 の ()報道官は「誰がその映像を流したのか、当事者に聞くべきだ」と定例で不快感と苛立ちを示した。 エリザベス2世女王は普段の食事は自ら節制していたが、一方で「好き」で、「特にチョコレートクッキーはあるだけ食べてしまうので、サービスする人間は注意していた」という。 子女 [ ] 夫のエディンバラ公爵フィリップ王配との間には、3男1女を出産し4人の子女がいる。 は2020年1月1日現在。 続柄 名前 生年月日 没年月日 備考 第1王子 () 存命中(71歳) 王位継承順位第1位( )。 1981年にと結婚。 1996年に離婚。 2005年にと再婚。 子女:2男(2人) 第1王女 () 存命中(69歳) 王位継承順位第14位。 1973年にと結婚。 1992年に離婚し、同年にと再婚。 子女:1男1女(2人) 第2王子 (第3子・次男) 存命中(60歳) 王位継承順位第8位。 1986年にと結婚。 1996年に離婚。 子女:2女(2人) 第3王子 (第4子・三男) 存命中(56歳) 王位継承順位第11位。 1999年にと結婚。 子女:1男1女(2人) 租税回避地での資産運用 [ ] 、エリザベス2世英女王の個人資産のうち約15億円が(租税回避地)で運用されていたことが明らかになった。 規制当局に処罰されたり、税金滞納で破産申請したりしたやの企業が含まれていた。 関連作品 [ ] 映画 [ ] 2006年の『』では、エリザベス2世女王を(日本語吹替版:)が演じた。 2010年のイギリス映画『』では、幼少期のエリザベス王女を子役のフレイア・ウィルソン(日本語吹替版:)が演じた。 2015年のイギリス映画『』では、(日本語吹替版:)がエリザベス王女役を演じた。 2016年のの『』(原作者はイギリス児童文学作家、監督:)では、(日本語吹替版:)がイギリス女王エリザベス2世役を演じた。 2019年のの『』は、女王の愛犬ロイヤルコーギーをモデルとしている。 系譜 [ ] エリザベス2世の系譜• ()とされる5月末から6月初め頃と実際の女王誕生日が異なることについては、当該項目を参照。 スペインのを撃破した処女王は、の女王ではあってもスコットランドの女王ではなく、スコットランドでエリザベスを女王として戴くのはエリザベス2世が初めてである。 現在でもスコットランドは王国であり、連合王国を構成する4王国(イングランド、、スコットランド、)の一つなのであって、(主権国家ではなくとも)決してイギリスの一地方ではない。 でを務めたのは、父方の祖父ジョージ5世、父方の祖母王妃、母方の祖父ストラスモア伯爵、父方の曾祖叔父、父方の叔母、母方の伯母エルフィンストーン男爵夫人メアリー。 このため戦後に王位に即位して以降も、公務外のプライベートでは王室所有のを自ら運転することが度々あった。 エリザベスはその運転歴において、小はのから、のようなスポーツカー、大は高級のまで、多くののを握っている。 出典 [ ]• 2015年1月26日. 2016年10月30日閲覧。 YOMIURI ONLINE 読売新聞社. 2015年9月9日. 2015年9月10日閲覧。 [ ]• 46 「ヨーロッパ王室における『譲位』の現状」君塚直隆 関東学院大学教授• Hoey, p. Brandreth, p. 103• Pimlott, p. Lacey, p. 56; Nicolson, p. 433; Pimlott, pp. 14—16• Crawford, p. 26; Pimlott, p. 20; Shawcross, p. Brandreth, p. 124; Lacey, pp. 62—63; Pimlott, pp. 24, 69• Brandreth, pp. 108—110• Brandreth, p. 105; Lacey, p. 81; Shawcross, pp. 21—22• Bond, p. 8; Lacey, p. 76; Pimlott, p. Lacey, pp. 97—98• Assheton, Ralph 18 December 1936. The Times: 10. Marr, pp. 78, 85; Pimlott, pp. 71—73• Royal Household. 2009年7月28日閲覧。 Crawford, pp. 104—114; Pimlott, pp. 56—57• Crawford, pp. 114—119; Pimlott, p. BBC 1940年10月13日. 2020年4月17日閲覧。 The Royal Family Channel, the official channel of the British Monarchy. 2009年1月20日. 2020年4月17日閲覧。 Royal Household. 2010年4月20日閲覧。 Pimlott, p. 1945年3月6日。 2010年6月5日閲覧。 Bradford, p. 45; Lacey, p. 148; Marr, p. 100; Pimlott, p. イギリス王室公式サイト 1947年4月21日. 2020年4月17日閲覧。 2020年4月17日閲覧。 Bond, p. 10; Brandreth, pp. 132—136, 166—169; Lacey, pp. 119, 126, 135• Brandreth, pp. 132—139; Lacey, pp. 124—125; Pimlott, p. Heald, p. Edwards, Phil 2000年10月31日. 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エリザベス2世

エリザベス 女王 マスク

1952年 -• 1952年 -• 1952年 -• 1952年 -• 1962年 -• 1966年 -• 1973年 -• 1974年 -• 1975年 -• 1978年 -• 1978年 -• 1979年 -• 1979年 -• 1981年 -• 1981年 -• 1983年 - 全名 エリザベス・アレクサンドラ・メアリー・ウィンザー Elizabeth Alexandra Mary Windsor 出生 1926-04-21 (94歳) 、、 配偶者 子女 王家 王朝 王室歌 (イギリス国歌と同一) 父親 母親 宗教 称号: 女王 敬称 Her Majesty the Queen• ・ ・ ・ エリザベス2世(エリザベス2せい、: Elizabeth II、 - )は、(イギリス)を含む、16か国の()のであり、とのである。 また、の ()。 としてはの第4代女王である。 の王としては、 エリザベス1世 (エリザベス1せい、: Elizabeth I)。 実名は、 エリザベス・アレクサンドラ・メアリー・ウィンザー(: Elizabeth Alexandra Mary Windsor)。 に(国王)に即位してに加盟する独立国家たる7か国、すなわち、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国()、、、、、、の(国王)になる。 連合王国女王のに属するおよびの数はからまでに独立あるいはに移行したりしたため、少しずつ減少していった。 現在の今日においては、(現在まで存続している)前述の4か国(、、、)に加え、、、、、、、、、、、、がエリザベス2世女王を君主としている。 こうしてエリザベス2世は、合計16か国の君主を兼ねている。 またなど、上記の国とをとる国や、その他の国・地域の中にも女王を元首としているところが存在する。 またにおいては統合の象徴である ()と規定されている。 、たるを抜いて、 イギリス史上最高齢の君主になった。 には国王のが90歳で崩御したことにより、88歳(当時)で 存命する在位中の君主の中で世界最高齢になった。 2015年には、在位期間が63年と216日となり、同じくヴィクトリア女王を抜いて イギリス史上最長在位の君主となった。 2016年10月13日には(国王)の崩御により、2020年4月21日現在(94歳)、 存命の君主では世界第1位の長期在位君主となった。 人物 [ ] 、父方の祖父国王治世下のイギリス、ので、王子と同妃の第1子・長女として誕生し、宮廷内で大養育された。 、父のアルバート王子が、彼の兄であるのを受けて、ジョージ6世としてイギリス国王に即位すると、エリザベス王女は(権第1位)となった。 また、中にに属してに携わるようになった。 には、と結婚。 、父の国王ジョージ6世が崩御し、(旧法)に基づいて、25歳という若年にして「エリザベス2世(Elizabeth II)」として(君主)に即位した。 なお、夫()のフィリップは共同君主・共同統治者ではない。 に執り行われた自分のは史上初めてされた。 ()や、との間の相互訪問など、多くの歴史的な訪問および会見をこなしただけでなく、 ()やカナダ憲法における ()のように、下での重大な改正を自身の治世で目の当たりにしてきた。 このほか、個人的な出来事としては、4人の子女(3男1女)の出産と結婚、および孫と曾孫の誕生、 ()(立太子礼)、そして自身の ()()、 ()()、 ()()、それぞれのを経験した。 2016年4月21日に90歳の誕生日を迎えた女王であるが、公務に対する姿勢は衰えない。 彼女が2015年度に常時の住居であるやなどの宮殿や居城で接遇した人数は、9万6000人に及ぶ。 イギリスでは年度ごとの者には、女王(国王)が一人ひとりにやを手渡すことが慣例となっている。 近年では長男のや孫の一人であるもこれを担うようになってはいるが、それでも彼女がこなす公務は年間200件を越える。 また、やの充実、やの振興、やの保護、やなどの団体の会長や総裁を務めている。 関係する団体は、イギリス本国だけではなく、、、など構成国をはじめ16か国にまたがり、2016年8月時点で648団体にのぼる。 来歴 [ ] 生い立ち [ ] 、3歳のエリザベス王女 1929年4月29日号表紙より 午前2時40分()、市内の地区17番地に所在する母方の祖父の家において、アルバート(後の)と妃との間に、第一子・長女として生まれる。 出産はであった。 父アルバートは、国王と妃の次男で、母はの第14代の末女である。 同年に、内のプライベート・チャペルで、 ()の ()によってが施された。 祖父ジョージ5世は孫娘エリザベスを溺愛しており、に自身が大病を患った際も、「彼女が定期的に見舞いに訪れたことが、病気の回復を早めるのに一役買った」と言われている。 、4歳の時に、妹が誕生した。 当時は、「が保証されるの女子には、は不必要」という時代であった。 しかし祖母王妃の方針により、姉妹そろって宮廷内で教育を施された。 教育は、 ()によって、、、、を中心に行われた。 クロフォードが後に記した伝記によれば、「エリザベス王女は、この頃からやなどの好きで、規律正しく責任感の強い性格であった」とある。 また後に彼女の治世となって最初のとなるも、当時2歳だったエリザベス王女に接して「子供ながら、驚くほど威厳と沈思のある態度だった」と回想している。 祖母、妹と共に。 (王太后の右側の少女) 出生時における正式な称号は、 Her Royal Highness Princess Elizabeth of York( エリザベス・オブ・ヨーク王女殿下)であり、伯父の、父のヨーク公アルバートに次いで、第3位のにあった。 エリザベスの誕生は世間の関心を集めたが、当時は、まだ若くて独身だった王太子のエドワードへのが期待されており、彼女の即位を予想する者はいなかった。 1月、祖父ジョージ5世国王の崩御を受けて伯父にあたるが即位する。 しかし彼は、イギリスと対立しつつあった、とりわけに親近感があるような態度をとり、経験を有する人女性のとの結婚をほのめかした。 これにより、らが彼に退位を迫り、同年12月に退位する(この一件は「王冠を賭けた恋」として知られる)。 そして、エドワード8世の弟でエリザベス王女の父であるヨーク公が即位して、国王ジョージ6世となる。 これを受けて、イギリス国王の長女(第1子)で王位継承権者第1位となったエリザベス王女は国王王妃夫妻となった両親と妹のマーガレット王女と一家とともにに移住し、 Her Royal Highness Princess Elizabeth(エリザベス王女殿下)のを与えられた上で、王位のとなる。 当時のイギリスの王位継承法上、男子優先長子相続制であったこの時点で、「もしもエリザベスとマーガレット王女姉妹に弟が存在していたならば、その弟が即ち次期国王となり、彼女は推定相続人として女王に即位することを逃していたであろう」と考えられる。 この間、しばしば首都も「」の対象となり、ロンドンに居住する多数のがしていった。 国王夫妻の子供であるエリザベスとマ-ガレット王女姉妹についても、「より安全なへと疎開させること」が政府から提案されたものの、母エリザベス王妃が「私の子供たちは私のもとを離れません。 また、私は国王陛下のもとを離れません。 そして、国王陛下はロンドンをお離れになりません」と述べて、これを拒否した。 結局、両姉妹は1939年のまで、ので過ごすことになり、その後はのに戦時住居として移転した。 さらに2月から5月まで、ウィンザーの ()に滞在した後、へ移り住み、以後による空襲の脅威が減少するまで5年近くを過ごすこととなった。 ウィンザー城滞在時には、軍用衣類向けのを生成する毛糸を調達していたクイーン・ウール・ファンド(Queen Wool Fund)を支援するために、に家族や友人たちを招待して、職員の子女たちとともに、を上演したこともあった。 この滞在中の、14歳のエリザベスはのを通じて初めてを行い 、 「私たちの勇敢なの助けとなるために、私たちが出来ることはすべて試みていますし、私たちが共有する戦争の危険や悲しみに耐えようと努力しています。 私たち一人一人が、終いには万事上手くいくことを確信しています。 」 We are trying to do all we can to help our gallant sailors, soldiers, and airmen, and we are trying, too, to bear our share of the danger and sadness of war. We know, every one of us, that in the end all will be well. と述べた。 これ以後、次期王位継承者として少しずつに携わるようになる。 にのとなり、大戦中も国民と共ににあたった。 、16歳の時に、エリザベス王女は初めての単独での公務において、名誉連隊長としてを訪問した。 以降も各地への訪問および激励を重ねた。 18歳の誕生日を迎えると、法律が改正されて、父王が公務を執行できない場合や国内に不在である場合(例えば、7月のイタリア訪問時)に、彼女が5人の ()のうちの1人として行動できるようになった。 2月には、に入隊し、名誉第二として、女性軍人として「エリザベス・ウインザー」の名および『230873』のにおいて 、のや管理などに従事したほか、のを取得し、軍用の運転なども行った。 それまでの女性王族は、などにおいて「」が与えられたとしても、名誉職としての地位に過ぎないというケースが慣例だったが、枢軸国によるへの上陸の危機()という非常事態を受けて、次期イギリス女王になることがほぼ確定されていたエリザベス王女はその慣例を打ち破り、他の学生たちと同等のを受け、に従軍する初めてのケースとなった。 エリザベス王女は、王族である自身が一般の兵士とほぼ全く同等のをされることを非常に喜び、これらの経験をもとに、「自分の子供たち(3男1女)も宮廷で教育させるより、一般国民の子女たちと同等の学校に通わせることを決意した」という。 でのが終結した、(現・、V-Day)には、「の街中で戦勝を祝福する一般市民の中に、妹と共に匿名で混じって、真夜中まで勝利の喜びを分かち合った」という。 におけるイギリスの勝利後の4月には、両親の国王夫妻に付き添って初めて外遊し、妹のマーガレット王女と一家4人でを訪問した。 外遊中、にて21歳の誕生日()を迎えた際には、に向けたラジオ演説の中で、エリザベス王女は次のような誓いを交わした。 「私は、私の全生涯を、たとえそれが長かろうと短かろうと、あなた方と我々の全てが属するところの偉大な、威厳ある国家に捧げる決意であることを、あなた方の前に宣言いたします。 」 I declare before you all that my whole life whether it be long or short shall be devoted to your service and the service of our great imperial family to which we all belong. 結婚 [ ] 将来の夫となるおよび王子(フィリップ)とは、7月にで出会い、一目惚れして以降、を始めることとなる。 また、これ以前にもとの二度にわたり面会している。 なお、夫婦である二人は国王のとを通して遠戚関係にある。 フィリップとともに() に正式にが発表されたが 、婚約に至るまでの経緯は決して順風満帆とは言えなかった。 その要因は、フィリップがから亡命した現役の士官であり、資産を所有していなかったこと、生まれであることのほか、フィリップの姉がとの関係を持ったドイツ系貴族と結婚していたこと等にある。 なお、これに先立つ同年2月にフィリップはイギリスにした。 帰化した際、イギリスにおける軍務を継続するために母の実家の家名である「マウントバッテン」( Mountbatten、「 Battenberg」を英語化したもの)を姓として選択した。 またこれに伴いフィリップは、ギリシアからへの改宗を行い、さらに形だけとなっていたギリシャ王子及びデンマークの王子の地位を放棄することを宣言した。 同年ににて、かねてから交際を続けていたフィリップとを挙げた( ())。 結婚後の数ヶ月間を当時イギリス領だったで過ごした。 夫妻は世界中から2500個の結婚祝い品を受け取った。 戦後のイギリスにあっては、婚礼に招待するに際して、当時存命していた3人の姉を含めて、フィリップ(エディンバラ公)のドイツとの関係は受け入れ難いものだった。 また、(かつての国王)も招待されなかった。 エリザベスは、結婚した翌年のに第一子・長男を出産し、には第二子・長女となるが誕生した。 父ジョージ6世国王の崩御、女王即位 [ ] 夫フィリップ王配と長男チャールズ、長女アンと共に(1957年10月撮影のエリザベス2世英女王一家) 生来病弱であった父ジョージ6世の健康状態はに入り悪化し、翌未明、療養を兼ねてやを楽しむ為に訪れていたサンドリンガム御用邸で、就寝中ににより、崩御(死去)した(56歳没)。 エリザベス王女は夫のフィリップとともに、英国にはおらずと公式訪問の途上、滞在中であった。 これを受けて、(旧法)に基づいてそれまでのエリザベス王女(Princess Elizabeth)が王位を継承し、女王に即位して「 エリザベス2世女王」( Queen Elizabeth II)となり、同名の母エリザベス王妃は「エリザベス」(Queen mother Elizabeth)となる。 翌には、世界各国の元首級の賓客らを招待してで ()を行い、この模様はイギリス連邦内だけでなく世界各国に当時の最新である白黒により中継された。 これには日本のからも、の名代として(当時)が参列した。 女王時代 [ ] 夫の 以降、公務引退。 以来半世紀以上に亘ってイギリス女王の座にある。 、第三子・次男出産。 、第四子(末子)・三男出産。 日本へは(昭和50年)に1度のみ、フィリップ王配と夫妻で訪問している(5月7日-12日)。 その際は、当時のをはじめとも交流を重ねた。 5月7日夜に昭和天皇主催のでの宮中晩餐会に出席し、8日にはNHK()を訪問、大河ドラマ「」の収録を見学した。 9日には都心でパレードをして東京都民の歓迎に応えた。 女王はこの後、やを訪問し、12日に離日した。 にはを公式訪問、と会談、「に計画しているイギリス訪問を歓迎する」と述べた。 イギリスの元首にしての最高権威がローマ教皇を公式訪問したのは、1534年にがイギリス国教会を作って以来これが初めてであり、これが1982年5月28日のヨハネ・パウロ2世のイギリス訪問とローマ・カトリックとイギリス国教会との和解への布石となる(ただし、にがバチカンを訪問したことはある)。 、義理娘であったがフランスのパリで交通事故により36歳で死去した際( )、義母であった女王自身の意思の下でのイギリス王室の冷ややかな対応が批判を浴び、同年にテレビ放送を通じて哀悼のメッセージを送り、長男チャールズ王太子との離婚以降、英王室から敬遠されていたダイアナ元王太子妃の名誉回復を行い、王室の信頼回復に努めた。 自身の在位半世紀を迎えたには、の妹の逝去(71歳没)、の母の崩御(101歳没)と、同一年に肉親との死別が2回も続いた。 、4日目()には、以来33年ぶりに、大会を観戦した。 、長女(第2子)アン王女の長男に、自身の初曾孫にあたる女児が誕生し、曾祖母となった。 、の祖父による訪問以来、100年ぶりにとしてを公式訪問している。 1911年当時はイギリスの(の一部)であったため、独立後としては初の訪問である。 に90歳を迎え、高齢のため公務の一部を徐々に自身の長男であるに引き継ぐようにはなっているものの、現在も精力的に公務を行っている。 に当時96歳となった夫のフィリップ王配が単独の公務から引退したが、エリザベス2世女王自身は引退する意向はなく、今後も当分は公務を継続するとされている。 同年11月20日に成婚70周年を迎え、これは60周年の時と同様、として初である。 称号 [ ] を初訪問した際にと並ぶエリザベス2世() イギリスにおける称号および呼称 [ ] エリザベス2世は、イギリスを含め16の国家の女王・元首であり、それぞれの国で異なる正式称号を所有している。 そのうち、イギリスにおける正式称号は以下のものである。 Her Majesty Elizabeth the Second, By the Grace of God of the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland and of Her Other Realms and Territories Queen, Head of the Commonwealth, Defender of the Faith. 直訳『 ()、ならびにその他のおよび領域の女王、 ()、であるエリザベス2世陛下』(かみのおんちょうによる、グレートブリテンおよびほくぶアイルランドれんごうおうこくならびにそのたのレルムおよびりょういきのじょおう、コモンウェルスのちょう、しんこうのようごしゃであるエリザベスにせいへいか) 「」は、元来はに反対したに対し、から授与された称号である。 のにより首長の称号となった。 「レルム(英:Realms)」にはという意味があるが、ここではを指す。 領域は王室属領および海外領土を指す。 また「(英:Commonwealth)」には複数の意味があるが、ここでは「」を指す。 イギリスにおける称号および呼称の変遷 [ ]• エリザベス・オブ・ヨーク王女殿下( Her Royal Highness Princess Elizabeth of York)• エリザベス王女殿下( Her Royal Highness The Princess Elizabeth)• エジンバラ公爵夫人エリザベス王女殿下( Her Royal Highness The Princess Elizabeth, Duchess of Edinburgh)• 女王陛下( Her Majesty The Queen)• 神の恩寵によるグレートブリテン、アイルランドおよびイギリス海外自治領の女王、信仰の擁護者( By the Grace of God, of Great Britain, Ireland and the British Dominions beyond the Seas Queen, Defender of the Faith)• - 現在• 女王陛下( Her Majesty The Queen)• 神の恩寵によるグレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国およびその他のレルムと領土の女王、コモンウェルスの長、信仰の擁護者( By the Grace of God, of the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland and of Her other Realms and Territories Queen, Head of the Commonwealth, Defender of the Faith) イギリス国内での非公式な称号 [ ] イギリスの君主は王冠と統合された爵位の潜在的な保持者である。 現在でも「 ()」を相続し、イギリスの内閣にはが存在する。 このため関連する行事等でという呼称が用いられることもある。 イギリス以外の称号 [ ] イギリス連邦 [ ] 紋章入りのカナダの旗 エリザベス2世は、イギリス連邦に加盟する諸国のうち、彼女を元首とする国の元首であり、国王となる。 正式称号はイギリスにおける正式称号と国名が異なる程度であるが、「信仰の擁護者」についてはカナダとニュージーランドのみが採用している。 英連邦王国を構成する国は、それぞれ独自の意見を持っている主権国家であり、ときにはそれらの国が政治・経済問題で対立することもある。 エリザベス2世はこの場合対立する2つの君主であるという立場になる。 ただし、いずれの国も国家であり、当該国の国法に定められた当該国の政治的手続きに従う必要があるため、エリザベス2世自身の政治的判断が求められることはない。 実際にイギリス以外の国の元首として公務に携わることもある。 その国に滞在している場合は本人が直接行動する場合が多いが、直接本人が行動できない場合は代理人を通じて行動することもある。 公務中の地位については、カナダの公務の場合はカナダ女王、オーストラリアの公務の場合はオーストラリア女王、パプアニューギニアの公務の場合はパプアニューギニア女王というように、対象国に合わせて変動する。 このような女王の公務のあり方の実例として、過去のの開会宣言を挙げることができる。 近代オリンピックの開会宣言はによって「開催国の国家元首がこれを行う」と定められている。 エリザベス2世女王を国家元首に戴く諸国の中では、下表の通りととで計6回のオリンピックが、その在位中に開催されている。 うち、女王の名において行われた開会宣言は計3回あり、本人が直接開会宣言を行ったのは2回、女王のフィリップが女王の(代理人)として開会を宣言したのが1回を数え、イギリス女王、カナダ女王、オーストラリア女王の称号が用いられている。 その他の大会は、事実上の国家元首である総督が自らの名のもとに開会を宣言している。 エリザベス2世在位中のオリンピック開催年表 西暦 季 オリンピック 開催国 開会宣言 夏 オーストラリア女王の名代として夫のが宣言代行。 夏 カナダ女王としてエリザベス2世が宣言。 冬 として ()総督が宣言代行。 夏 として総督が宣言代行。 冬 カナダ総督として総督が宣言代行。 夏 としてエリザベス2世が宣言。 また、、、においての各国の最高司令官であり(ただしあくまで名目上。 実質上最高司令権を有するのは、政府の長たる首相)、英連邦諸国における複数のの位を所持する。 王室属領における称号 [ ] は、内にあるがイギリス政府の統治権下にはなく、イギリスの君主が保持する別の主権によって統治されている。 においては「 ()たる女王(Queen, Lord of Man)」 と呼ばれている。 (、)においては「たる女王(Duck of Normandy,Our Queen)」となる。 人物 [ ] 女王と競馬 [ ] 詳細は「」を参照 近代発祥の地であるイギリスにおいては、競馬を庇護・発展させる君主がしばしば現れている。 エリザベス2世も競馬の熱心なである。 イギリス史上初めて、スポーツ団体に勅許を与えてジョッキークラブの決定に法的基盤を付与したのはエリザベス2世である。 この結果、200年以上にわたって「先例」でしかなかったジョッキークラブの裁定には法的な根拠が認められることになり、権威と権限が大幅に強化されることになった。 また、ニューマーケットにを移したのもエリザベス2世である。 エリザベス2世は馬主・生産者として大きな成功を収めている。 両親の名を冠したの優勝馬のほか、4頭の優勝馬など、所有馬には数々のステークス優勝馬がいる()。 1954年と1957年にはイギリスのリーディングオーナー(所有馬の獲得賞金額首位)となった。 在位中にこのタイトルを複数回獲得した君主は史上にエリザベス2世のみである。 所有馬に騎乗するが着用するは、紫色の胴部に金ボタンと刺繍をあしらい、袖色は赤。 帽子は黒のベルベット地、頭頂部に金モールをあしらったものを使用している。 イギリスにおける牡馬・牝馬のクラシック競走のうち、のみ所有馬の優勝がない。 2011年には所有馬のカールトンハウスが1番人気となり、85歳にして初のダービー優勝馬所有なるかと競馬界を超えて広くイギリス社会の注目を集めた。 女王自身もでレースを天覧したが、落鉄のアクシデントなどもあり3着に終わった。 2013年6月、英王室自ら開催するにおいて、所有馬のエスティメイトがに優勝し36年ぶりにGIを制覇した。 ロイヤルアスコット開催時には、毎年宮殿からでへ向かうのが慣例である。 ロイヤルアスコット開催のレースにおける優勝馬の関係者は、エリザベス2世などが出席するイギリス王室主催の茶会に招かれる。 イギリスの「」、の「」、の「」、イギリスのであったの「」など、エリザベス2世の名を冠したが世界各地に存在している。 主な所有馬 [ ]• Aureole() - ジョージ6世が生産し、1954年、などに優勝。 種牡馬としても1960年、1961年にイギリスのとなる。 Carrozza(カロッツァ)- 1957年に優勝。 馬主としてクラシック競走初優勝。 Almeria(アルメリア)- 1957年などに優勝。 Above Suspicion(アバーヴサスピション)- 1959年に優勝。 Pall Mall (ポールモール)- 1958年に優勝。 Canisbay(キャニスベイ) - 1965年に優勝。 Hopefull Venture(ホープフルヴェンチャー)- 1968年などに優勝。 オリオールの子。 Highclere()- 1974年、(フランスオークス)に優勝。 日本ではの曽祖母として知られる。 Height of Fashion()- ハイクレアの子。 1981-1982年に3つの重賞競走に勝利。 、などの母。 Dunfermline(ダンファームライン) - 1977年、に優勝。 後者でを破る。 国民へのビデオメッセージ [ ]• 祖父から、代々の国王がBBCラジオで放送していたクリスマスメッセージを、に初めてBBCテレビでした。 現在はBBCが事前録画し、毎年の()になどで、英連邦王国国外にもテレビ放送されている。 朝に放送されたクリスマスメッセージのビデオ(録画:同年)では、「 私たちを分断するものより、結び付ける者のほうがたくさんある」、「 違う考え方を持つ人同士が互いを尊重することが大事だ」と強調した。 これは当時、政権が(EU)と合意した(イギリスのEU離脱)協定を巡ってイギリス議会が紛糾していたが、国家元首として女王は政治問題については中立の立場を保っているものの、イギリスが直面する国家にとって重要な課題を意識したとされた(結果的に、政権下のに、イギリスは正式にEUから離脱した)。 また、「長寿は人を賢くすると信じる文化もあります。 私もそう思いたい」とも話し、の誕生に触れ、「この知恵には、人生におけるやっかいな矛盾を認めることも入るかもしれません。 例えば、 人間には善意を求める大きな気持ちと悪意を持つ能力があります」、さらに女王は4月に行われた首脳会談に触れ、連邦の力は「 愛の絆と、より良い平和な世界で暮らしたいという共通の願いにあります」と話した。 そして、「 どれほど深刻な違いがあっても、相手を尊重し、同じ人間として接することは常に、より良い理解への有効な一歩です」と話しその上で、「何年もの間、さまざまな変化を見てきましたが、 私にとって信仰と家族と友情は、ただ不変のよりどころというだけでなく、 個人的な安らぎと安心の源でした」と、女王は自らのへの強い信仰心を強調した。 のクリスマスメッセージのビデオでは、背景にヘンリー王子夫妻の写真が無いことが特に注目され、「国民や王子夫妻に対して何らかのメッセージを送っているのではないか」との憶測を呼んだ。 結果的に、翌の年明け早々、王子夫妻の王室離脱(同年付での)が発表された。 その他、エリザベス2世女王のイレギュラーなテレビ放送によるビデオメッセージとしては、1回目がの勃発に際して、2回目がのの死に際して、3回目がの母の死に際して、4回目がの自身の即位60周年に際してがある。 、の感染拡大(COVID-19)の局面にて、国民に慰撫と激励のメッセージを送るとともに、最前線で立ち向かう従事者たちに謝意を表した。 クリスマス以外にビデオメッセージを送ることは稀であり、即位後5回目の出来事であった。 メッセージの最後は、中の国民的な応援歌、の『 We will meet again』を引用し、「 より良い日は巡ってくる。 また会いましょう」と締めくくった。 エピソード [ ] 公用車のベントレー・ステートリムジン• の即位50周年記念に、イギリスの自動車製造者協会からが公用車として進呈された。 愛犬家であり、少女時代に先代国王の父ジョージ6世が遊び相手として与えたことから、現在もを飼っている。 その他にレトリーバーも飼っている。 国内旅行時には、可能な限り愛犬達を同伴する。 2012年のロンドンオリンピックの開会式のために『幸福と栄光を』という短編映画でジェームズ・ボンドと共演したが、このときも愛犬たちも出演している。 「クイーン・エリザベス」というが、即位の年であるに出された。 在位50年の記念の年であるには「ジュビリー・セレブレーション」、在位60年の記念の年であるには「ロイヤル・ジュビリー」というバラが贈られている。 かつて(日本の年間)の時代に自身の祖父国王が、(皇太子明仁親王の父親である)昭和天皇の(その当時の明仁親王とほぼ同じ年頃に)折に歓迎し、日英の皇室王室間交流が始まった話などを振り返り、(で敵対した)戦後の日英関係の友好親善に尽力したとされる。 女王自身が「時代に合わない」として、を最後に、女王主催の()は行われなくなった。 替わりに、のが行われている。 (製作『ダイヤモンド・クイーン~王室の存亡と近代化~』)• 1975年(昭和50年)5月7日-12日に夫妻で日本を訪問した際、都内のでと面会した。 黒柳はインタビューで「『(エリザベス女王:)どんなお仕事なの? 』『(黒柳:)女王さまのテレビ中継です』『(エリザベス女王:)お仕事うまくいった? 』『(黒柳:)ええ、女王さまがうまくやってくださったので』みたいなやりとりで、女王さまは大笑いしてティアラと胸もとのダイヤモンドと真珠の飾りが揺れて燦然として、私は『(黒柳:)こんなの見たことない、美術館にあるのと同じだ』と思って口を開けて見てたんですけどね。 私みたいにどんどん話しかける人がいなかったので、5分の予定が20分になっちゃって。 女王様はたくさんお笑いになりました」と当時のことを振り返った。 には、住居であるからので、でオリンピックスタジアム上空まで移動し、ので地上に降下し、貴賓席に姿を表す、という「サプライズ演出」がなされた(実際に飛び降りたのは無論女王本人ではなく、ゲイリー・コネリーというプロのスタントマン )。 この演出のために監督とによって『幸福と栄光を』というが制作されたが、女王の召喚を請けて、の女王の私室をボンドが訪れる場面では、女王本人が出演。 その際に、私室内での出演のみならず、室での動画撮影を許可している。 女王在位60年、007シリーズ50周年の節目の年に、ジェームズ・ボンドとエリザベス女王が共演する『』が現実のものとなった。 2013年4月、これらの功績により、から、名誉賞を授与された。 、園遊会においてのの訪英に際して、外交使節団の振る舞いが大変無礼であったと発言、さらにルーシー・ドーシー警視長に「運が悪かったですね」と労いの言葉を掛け、駐中国イギリスに対しても中華人民共和国側の対応が「酷く失礼でした」と述べていたことがBBCの取材で明らかとなり、女王の異例の発言として注目を集めた。 中華人民共和国ではBBCワールドニュースが、この女王発言について報道する場面で、急にテレビ画面と音声を切断する報道検閲が行われた。 イギリス王室は「女王の私的な会話にはコメントしない。 としての訪問は大成功だった」とする声明を出した。 の ()報道官は「誰がその映像を流したのか、当事者に聞くべきだ」と定例で不快感と苛立ちを示した。 エリザベス2世女王は普段の食事は自ら節制していたが、一方で「好き」で、「特にチョコレートクッキーはあるだけ食べてしまうので、サービスする人間は注意していた」という。 子女 [ ] 夫のエディンバラ公爵フィリップ王配との間には、3男1女を出産し4人の子女がいる。 は2020年1月1日現在。 続柄 名前 生年月日 没年月日 備考 第1王子 () 存命中(71歳) 王位継承順位第1位( )。 1981年にと結婚。 1996年に離婚。 2005年にと再婚。 子女:2男(2人) 第1王女 () 存命中(69歳) 王位継承順位第14位。 1973年にと結婚。 1992年に離婚し、同年にと再婚。 子女:1男1女(2人) 第2王子 (第3子・次男) 存命中(60歳) 王位継承順位第8位。 1986年にと結婚。 1996年に離婚。 子女:2女(2人) 第3王子 (第4子・三男) 存命中(56歳) 王位継承順位第11位。 1999年にと結婚。 子女:1男1女(2人) 租税回避地での資産運用 [ ] 、エリザベス2世英女王の個人資産のうち約15億円が(租税回避地)で運用されていたことが明らかになった。 規制当局に処罰されたり、税金滞納で破産申請したりしたやの企業が含まれていた。 関連作品 [ ] 映画 [ ] 2006年の『』では、エリザベス2世女王を(日本語吹替版:)が演じた。 2010年のイギリス映画『』では、幼少期のエリザベス王女を子役のフレイア・ウィルソン(日本語吹替版:)が演じた。 2015年のイギリス映画『』では、(日本語吹替版:)がエリザベス王女役を演じた。 2016年のの『』(原作者はイギリス児童文学作家、監督:)では、(日本語吹替版:)がイギリス女王エリザベス2世役を演じた。 2019年のの『』は、女王の愛犬ロイヤルコーギーをモデルとしている。 系譜 [ ] エリザベス2世の系譜• ()とされる5月末から6月初め頃と実際の女王誕生日が異なることについては、当該項目を参照。 スペインのを撃破した処女王は、の女王ではあってもスコットランドの女王ではなく、スコットランドでエリザベスを女王として戴くのはエリザベス2世が初めてである。 現在でもスコットランドは王国であり、連合王国を構成する4王国(イングランド、、スコットランド、)の一つなのであって、(主権国家ではなくとも)決してイギリスの一地方ではない。 でを務めたのは、父方の祖父ジョージ5世、父方の祖母王妃、母方の祖父ストラスモア伯爵、父方の曾祖叔父、父方の叔母、母方の伯母エルフィンストーン男爵夫人メアリー。 このため戦後に王位に即位して以降も、公務外のプライベートでは王室所有のを自ら運転することが度々あった。 エリザベスはその運転歴において、小はのから、のようなスポーツカー、大は高級のまで、多くののを握っている。 出典 [ ]• 2015年1月26日. 2016年10月30日閲覧。 YOMIURI ONLINE 読売新聞社. 2015年9月9日. 2015年9月10日閲覧。 [ ]• 46 「ヨーロッパ王室における『譲位』の現状」君塚直隆 関東学院大学教授• Hoey, p. 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