足利 将軍家。 足利尊氏の家紋「足利二つ引き」と五七桐、五七花桐について

足利氏

足利 将軍家

生涯 [ ] 少年期 [ ] 天文5年(1536年)3月10日、第12代将軍・の嫡男としてで生まれる。 幼名は 菊幢丸(きくどうまる)。 誕生直後に外祖父・のとなる。 将軍と御台所の間に生まれた男子は足利義尚以来であり、摂関家出身の女性を母に持つ将軍家の男子も菊幢丸が初めてであった。 この頃の幕府では父・義晴とのが互いの権威争いで対立し、義晴は戦をするたびに敗れてに逃れ、菊幢丸もそれにたびたび従った。 その後も父と共に京への復帰と坂本・への脱出を繰り返した。 また、これまでの将軍家の嫡男は頭人であるの邸宅で育てられる慣例であったが、菊幢丸は両親の手元で育てられた。 天文15年()7月27日、菊幢丸はより、 義藤(よしふじ)の名を与えられた。 また、同年11月19日には朝廷から将軍の嫡子が代々任じられてきたに任じられた。 これらは全て、父・義晴が朝廷に依頼し、実現したものであった。 同年12月19日、義藤のが執り行われた。 元服式は近江坂本の日吉神社(現)祠官・の第で行われ、がとなった。 将軍の烏帽子親は管領が務める慣例になっていたが、義晴は定頼を管領代に任じて元服を行った。 これは晴元の管領としての権威を否定するものであった(そもそも、晴元は管領に任じられていなかった説もある)。 なお、がを烏帽子親にするように求めて六角定頼に阻止されたりするなど、当時の流動的な政治背景を元に晴元の舅である定頼を烏帽子親にしたとする見方もある。 翌20日、の儀式が行われ、義藤はわずか11歳にして父から将軍職を譲られ、正式に第13代将軍となった。 このとき、京より赴いた朝廷からのが坂本に到着し、将軍宣下を行った。 一連の行動は、父・義晴がかつての先例に倣ったものであったとする意見がある。 義晴は11歳で元服・将軍宣下を行ったことに加え、自身が健在のうちに実子に将軍の地位を譲ってこれを後見する考えがあったとされる。 また、朝廷は義晴がこのまま政務や京都警固の任を放棄することを憂慮し、引き留めの意図を含めて、義輝の将軍宣下の翌日に義晴をに急遽任じている。 同月の末、義藤は父・義晴とともに坂本を離れ、京のに戻り、翌天文16年正月26日には父とともに内裏に参内して、に拝謁した。 天文16年()7月19日、義藤は義晴とともに晴元によって京を追われたが、29日に晴元と坂本で和睦し、京に戻った。 このとき、晴元も義藤の将軍就任を承諾している。 三好長慶との戦い [ ] ところが、細川晴元の家臣で、畿内に一大勢力を築きつつあったが晴元を裏切って、細川氏綱陣営に転属。 天文18年()6月、で長慶に敗れた晴元によって義晴・義藤父子は、から近江坂本へ退避し、常在寺に留まった。 この時期には義藤自らが御内書を発給し始めているが、まだ若年と言うこともあり大御所である義晴の存命中は義晴名義の、その没後は生母である慶寿院が御内書を発給している例がある。 天文19年()5月、父・義晴がにて死去した(『万松院殿穴太記』)。 義藤は父が建設を進めていたで、三好軍と対峙した()。 だが、戦局が好転しないまま11月に中尾城を自焼して堅田へ逃れ、翌天文20年()1月には政所頭人であるが義輝を強引に京都に連れ戻して三好方との和睦を図ろうとするが失敗、これを知った六角定頼の勧めにより2月に朽木へ移ったが、これに反発した貞孝はのらを連れて京都に戻って三好方に離反した。 天文20年()3月、義藤は京都の貞孝の屋敷に長慶が呼ばれるとの情報を得ると先に貞孝と共に帰京した進士賢光を伊勢邸に潜入させ、長慶を暗殺しようと目論んだが失敗した。 賢光による暗殺劇は長慶に軽い傷を負わす程度に終わってしまい、賢光はその場で自害した。 また、に親長慶派の・遊佐長教が暗殺された事件も義藤の仕業とされ、畿内に不穏な空気が漂った。 7月には・を主力とした幕府軍が京の奪回を図って侵入したが、とその弟の(内藤宗勝、丹波守護代)によって破られた()。 天文21年()1月、義藤は長慶と和睦し、京都に戻った。 これは同月に六角定頼が急逝して和解の空気が生まれたことによる。 伊勢貞孝は赦免される一方、細川晴元は京都を脱出した。 2月には三好長慶がとして幕臣に列せられ、長慶が推すが京兆家、弟のが典厩家を相続することが認められた。 ところが、義藤の側近である奉公衆の上野信孝が台頭し、これに反発する幕臣との確執が強まった。 特にこの年の6月に義藤が伊勢貞孝らの反対を押し切って山名氏や赤松氏の守護職を奪って尼子晴久を8か国守護に任じたことで幕府内に動揺が生じた。 天文22年()閏1月、上野信孝など側近の奉公衆らは長慶排除のために細川晴元と通じ、2月には親三好派の伊勢貞孝が信孝らの追放の諫言を行い、これに義晴・義藤に長年従って三好氏と戦ってきたや朽木稙綱も同調した。 3月には義藤自身が長慶との和約を破棄して東山の麓に築いたに入城し、晴元と協力して長慶との戦端を開いた。 義藤は晴元と長慶が芥川山城を包囲している最中に連合して入京を目論むが、7月に長慶が芥川山城に抑えの兵を残し上洛すると、8月に幕府軍が籠城する霊山城が攻め落とされてしまった()。 同月、義藤は伯父である前・らを伴い、(稙綱の孫)を頼って近江朽木谷に逃れ、以降5年間をこの地で過ごした。 長慶は将軍に随伴する者は知行を没収すると通達したため、随伴者の多くが義藤を見捨てて帰京したという。 やがて、やのように奉公衆でありながら、三好氏の家臣に準じた立場で活動する者も現れるようになった。 天文23年()2月12日、義藤は朽木谷に滞在中、に昇叙するとともに、名を 義輝に改めている。 改名することにより、心機一転を図ったと考えられている。 4年()2月、朝廷はの即位のため、年号をに改元した。 だが、京から離れた朽木谷にいた義輝は改元を知らされておらず、それまで古い年号の弘治を使用し続けることとなったため、朝廷に抗議している。 改元は戦国時代であれど、朝廷と室町幕府の協議の上で行われてきたが、朝廷は義輝に相談せず、長慶に相談して改元を実施していた。 永禄元年3月、義輝は改元の一件もあって、三好政権打倒のため、朽木谷で挙兵した。 5月なると、(承禎)の支援で晴元とともに坂本に移り、京の様子を窺う。 翌月、幕府軍がに布陣して、らの軍とで交戦した()。 一時期は六角義賢の支援を受けた義輝側が優勢であったが、長慶の弟・の反攻を受け、さらに六角義賢からも支援を打ち切られたために戦況は思うように展開しなかった。 11月、義輝は六角義賢の仲介により長慶との間に和議が成立したことに伴って、5年ぶりの入洛が実現し、御所での直接的な幕府政治を再開した。 この年の12月28日には、伯父の近衛稙家の娘を正室に迎えている。 長慶はなおも権勢を高め、幕府のに加えられ、さらに修理大夫への任官を推挙されたが、同時に義輝の臣下として幕府機構に組み込まれることとなった。 ただし、長慶も義輝の権威に自らが取り込まれる危険性や長年対立してきた自身と義輝の和解が難しいことは理解しており、永禄2年(1559年)12月に嫡男・孫次郎が義輝から偏諱を拝領して義長(後に)と名乗り、翌3年(1560年)1月に義長が三好氏代々の官途であった守に任ぜられると、長慶は三好氏の家督と本拠地である摂津国を義長に譲って、河内国に移っている。 長慶は自身は義輝との一定の距離を置きつつ、三好氏の新当主となった義長(義興)と義輝の間で新たな関係を構築することで関係の安定化を図ったとみられている。 なお、長慶が御相伴衆になると同時に嫡男の義興と重臣のが御供衆に任ぜられている。 将軍親政 [ ] 足利義輝木像(等持院霊光殿所蔵) 義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力している。 と(天文17年(1548年))、と (天文19年(1550年))、と(永禄元年(1558年))、と、と (永禄3年())、と (永禄4年())、毛利元就と大友宗麟 (永禄6年())、上杉輝虎(長尾景虎改め)とと武田晴信(永禄7年())など、大名同士の抗争の調停を頻繁に行った。 また、義輝は諸大名への懐柔策として、大友義鎮を筑前・守護、を守護に任じ、三好長慶・義長(義興)父子と松永久秀には桐紋使用を許した。 さらに自らの名の(1字)を家臣や全国の諸大名などに与えた。 例えば、「藤」の字を(幽斎)や(順慶)、足利一門の・などに、「輝」の字を・・上杉輝虎(謙信)などの諸大名や足利一門、藤氏・藤政の弟であるなどに与えた。 また、、、などのようにの通字である「義」を偏諱として与える例もあった。 永禄年間には信濃国北部を巡る甲斐国の武田信玄と越後国の長尾景虎とのが起きており、義輝は両者の争いを調停し、永禄元年(1558年)には信玄を信濃守護に補任した。 だが、信玄はさらに景虎の信濃撤退を求めたため、義輝は景虎の信濃出兵を認めた。 2年()には、の、の、の長尾景虎()が相次いで上洛し、義輝に謁見した。 永禄4年(1561年)には信玄に駆逐され上方へ亡命していた前信濃守護・の帰国支援を命じている。 また、長尾景虎の就任の許可、を拡充し、毛利元就、毛利隆元、大友義鎮、、今川氏真、三好長慶、三好義興、らを任じた。 また、諸大名の任官斡旋には力を尽くしたものの、義輝自身は将軍就任翌年に従四位下参議・左近衛権中将に任ぜられてから18年間にわたって昇進をせず、また内裏への参内も記録に残るのはわずか5回である。 後に織田信長は義輝の朝廷軽視が非業の死の原因であると述べた(『』)とされているが、義輝の朝廷観については今後の研究課題とされている。 治世 [ ] 足利義輝肖像(筆、蔵) 永禄元年(1558年)の義輝の帰京以降も三好長慶の権勢は続いたが、それに反発すると六角義賢が畿内で蜂起し、三好実休が戦死する()と、三好氏に衰退の兆しが見え始めた。 こうした中、永禄5年()に長慶と手を結び幕政を壟断していた政所執事の伊勢貞孝が長慶と反目すると、義輝は長慶を支持してこれを更迭し、新しくを政所執事とした(また、貞孝が幕府法を無視した裁決を行っていたことが発覚したのも更迭の理由とされる )。 これに激怒した貞孝は反乱を起こしたが、9月に長慶の手で討たれた。 これによって、かつての3代将軍の介入すら不可能だった伊勢氏による政所支配は歴史に幕を閉じ、幕府将軍による掌握への道を開いた。 永禄2年(1559年)、大友義鎮を九州探題に任命し、九州の統治を委ねた。 もともと、九州探題は足利氏一族の渋川氏が世襲していたが、少弐氏と大内氏の抗争に巻き込まれてすでに断絶していたため、これを補うための補任であった。 大友家は九州において、足利将軍家に最も親しい有力守護大名である(この時、大友義鎮は・豊前・・筑前・・の守護およびの半国守護を兼ねていた)。 永禄7年()7月に長慶が病死。 義輝はこれを機に幕府権力の復活に向けてさらなる政治活動を行なおうとした。 最期 [ ] しかし、傀儡としての将軍を擁立しようとする松永久秀とにとっては、将軍家の直接統治に固執する義輝は邪魔な存在であった。 久秀の長男・と三人衆はの養子・(義輝の叔父)と組み、義維の嫡男・(義輝の従兄弟)を新将軍にと朝廷に掛け合うが、朝廷は耳を貸さなかった。 一方で義輝が頼みとする近江六角氏は永禄6年()の以降、領国の近江を離れられなくなっていた。 永禄8年()5月19日、久通と三好三人衆は主君・(長慶の養嗣子)とともに参詣を名目に集めた約1万の軍勢を率いに押し寄せ、将軍に訴訟(要求)ありと偽り、取次ぎを求めて御所に侵入した()。 義輝は自らを振るい、その後は刀を抜いて抵抗したが、敵の槍刀で傷ついて地面に伏せられたところを一斉に襲い掛られて殺害された。 最期は寄せ手の兵たちが四方から畳を盾として同時に突きかかり殺害したとも、または槍で足を払われ、倒れたところを上から刺し殺されたともいう。 事件の際に在京していたの『』には、義輝が「生害」したと記されており、討死したとも自害したともとることができる。 後世には、の『』などの御所を囲まれて切腹したというものや、『』の「散々に防ぎ戦ひて終に自害有ける」などの自害したという明確な記述も見られるようになる。 享年30(満29歳没)。 この時、といった多くの奉公衆や摂津晴門の嫡子・も一緒に討死・自害にした。 また、義輝の生母であるや義輝側室の小侍従殿までもが殺害されている。 これに対して、は三好・松永側は実際に訴訟(要求)の取次を求めて御所を訪れたものの、取次の際の齟齬から両軍の衝突に発展してしまったもので、最初から将軍殺害を計画していた訳ではないとする。 は三好側の意図は側近たちを排除を目的として政治的要求を行うために御所を包囲するいわゆる「」と呼ばれるもので、それ自体はかつてのにおける失脚、における失脚、における失脚と同じ性格であったが、フロイスの記述を信じればその要求は将軍の妻妾や側近の処刑を含むもので義輝にとっては受け入れがたかった内容を含むものであったために、その要求を拒絶するために実力排除を試みた結果とみる。 木下昌規は最初から義輝の殺害が目的であれば、政治的要求を申次である進士晴舎に提出するという正規の手続きを取っている理由が不明であるとする反面、その政治的要求で処刑を求められた側近と妻妾の中に進士晴舎とその娘の小侍従が含まれていたとすれば交渉自体が成立する可能性が低く(特に進士は三好氏との取次で、彼が突然自害したことで「手切」とみなされて戦いが始まっている)、殺害の意図の有無を推し量ることは難しいとしている。 は「五月雨は 露か涙か 我が名をあげよ 雲の上まで」 [ ] 死後 [ ] 義輝の死後、三好氏による主君殺害は世間を憤慨させた。 特に義輝と親しくしていた大名らは激しく憤り、上杉輝虎は「三好・松永の首を悉く刎ねるべし」と神仏に誓ったほどであった。 また、河内のの重臣・も「前代未聞で是非も無いこと。 (略)無念の至りだ」と怒りをあらわにし、上杉氏の重臣らに弔い合戦を持ちかけている。 朝倉義景の重臣らも同様に、「誠に恣の行為で、前代未聞、是非なき次第で沙汰の限りだ」と怒りをあらわにしている。 朝廷は義輝の死に悼惜し、6月7日に義輝に・をしたばかりか、正親町天皇も政務を3日間停止して弔意を示した。 公家のは義輝の殺害を、「言葉がない。 前代未聞の儀なり」と日記に記している。 また、天皇に仕えていた女官も同様に、「言葉もないことだ」と嘆き悲しんでいる。 朝廷もまた、三好・松永の義輝殺害に強い怒りを感じていた。 義輝殺害に対する怒りは、支配層ばかりではなく、一般庶民にも広まっていた。 永禄10年()2月10日には、上京ので義輝追善のが挙行され、摂津や近江坂本から集った2,800人が鉦鼓を鳴らし、貴賤を問わず男女合わせて7、8万人の群衆が参加してその死を悼んだ(『言継卿記』2月10日条)。 また、同年10月にも真如堂で安芸から来た600人が義輝の奉公衆や女房衆に扮し、行列を組んで風流踊を行っている。 は、「町の人々が義輝を追悼する踊りによって三好三人衆政権への抵抗を示した」と解釈している。 はこれらの事実から、「三好は世間を敵に回した」と評している。 天正17年()5月18日、毛利輝元が非命に斃れた義輝の25周忌に際して、塔主・にその仏事を依頼した。 これは、「鹿苑院塔主が導師を勤めれば、昌山(足利義昭のこと)も喜ばれるだろう」と考えた輝元の配慮でもあった。 人物 [ ] 斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址• 宣教師は、義輝を「とても武勇すぐれて、勇気ある人だった」と評している(『』第65章)。 剣豪として名を馳せていたから指導を受けた直弟子の一人である。 奥義「一之太刀」を伝授されたという説もあり、武術に優れた人物であったのではないかと言われている。 ただし卜伝はこの他にや細川藤孝などにも授けており、必ずしも奥義を極めたとは断言できず、免許を皆伝したという記録もない。 永禄の変の際、フロイスの『日本史』では「義輝は自ら薙刀を振るって戦い、人々はその技量の見事さにとても驚いた。 その後はより敵に接近するために薙刀を投げ捨て、刀を抜いて戦った。 その奮戦ぶりはさながら勝利を目前にしている者にも劣らなかった」と記されている(『』第65章)。 信長旧臣のが著した『』でも「数度きつて出で、伐し崩し、数多に手負わせ、公方様御働き候」と記されている。 また、『』には「足利家秘蔵の刀を畳に刺し、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて寄せ手の兵と戦った」という記述も存在するが、これは義輝の死からかなりのちの時代(江戸時代後期)に記されたものである上、永禄の変に最も近い時期の史料には「名刀を取り替えて戦った」という記述自体が存在しないことから、創作の要素が極めて強く信憑性に欠けるものとされる。 この『日本外史』による誇張が、義輝の評価を実像からかけ離れさせ、一人歩きさせた要因ともいえる。 義輝は武衛陣(斯波武衛家旧邸)に室町幕府の拠点を移した将軍としても知られる。 斯波武衛家の旧邸は室町中御門にあり、義輝の御所は室町中御門第とよばれる。 のちに大規模に拡張され、石垣で囲まれた城郭風の外観となったため、旧と呼ばれることもある。 天文23年()にはからとの秘伝書(『鉄放薬方并調合次第』)を手に入れたり、永禄3年()にはにの布教を許している。 永禄8年(1565年)、は京都からを追放するよう命令したが、義輝はこの命令を無視した。 系譜 [ ] 一般には一男三女とされ、長女は弘治2年(1556年)、次女は永禄7年2月24日、三女は義輝が殺害される直前の永禄8年4月17日に誕生した。 次女と三女は『言継卿記』の誕生記事から生母が小侍従であることが分かる。 息子は(永禄5年()4月生 - 同年没)のみであるが、非公式に義輝の息子といわれる人物が2名知られている。 細川藤孝の孫で主となったは、の下で閑居していた(玄蕃、義輝の遺児といわれる )を探し出し熊本に迎えて、100石扶持を与えた。 忠利は、熊本藩の客分・とともに義辰をの新築の御茶屋(別荘)に招くなどした。 その長男のは西山氏を名乗り、知行1,000石、比着座同列定席の家格にて奉行などを務め、子孫は明治に至る。 他の子としては、義輝暗殺の際に家臣に保護されのの下で養育されたという足利義高(出家して)がいたと伝わる。 墓所・肖像 [ ] 足利義輝像紙形(筆、芸術資料館蔵) 墓所 法号は光源院融山道圓。 供養塔がのにある。 肖像画• 本(姿。 本(歴博本と同図様)• 本(姿)• 本(束帯姿) 他に、源弐()の写したという頭部の下絵(紙形)が所蔵の土佐家資料の中に現存する。 国立歴史民俗博物館本や真正極楽寺本は、これを粉本として制作されたと考えられている。 15年()• 7月27日、朝廷から義藤の名を与えられ、従五位下に叙す。 11月19日、正五位下に昇叙し、左馬頭に任官。 12月19日、六角定頼を加冠役として元服。 12月20日、従四位下・征夷大将軍宣下。 天文16年()• 2月17日、参議に補任し、左近衛中将を兼任。 天文23年()• 2月12日、従三位に昇叙し、名を義輝と改める。 8年()• 5月19日、薨去。 6月7日、贈従一位、左大臣。 武家 「義」の字• (輝光)• (謙信)• (豪為)• (景道)• (照行)• (河端輝綱)• (輝家、輝忠)• (通政)• 義輝を題材とした作品 [ ] 小説• 『剣豪将軍義輝』上、中、下(徳間文庫、2000年)• 上 鳳雛ノ太刀 、中 孤雲ノ太刀 、下 流星ノ太刀 舞台化作品『剣豪将軍義輝~戦国に輝く清爽の星~』(2016年)• 宮本昌孝『義輝異聞 将軍の星』(徳間文庫、2003年)• 『将軍義輝の死』(角川春樹事務所(ハルキ文庫)、2005年)• 『無明長夜の剣』(『風塵』収録) 舞台• 舞台『剣豪将軍義輝~戦国に輝く清爽の星~』(前編)(2016年12月8日~14日 原作:『義輝異聞 将軍の星』 刊 主演:足利義輝 演• 舞台『剣豪将軍義輝~星を継ぎし者たちへ~』(後編)(2017年6月8日~18日 EXシアター六本木)原作:宮本昌孝『義輝異聞 将軍の星』徳間文庫 刊 主演:足利義輝 演 染谷俊之 楽曲• (、、演:)• (、NHK大河ドラマ、演:)• (、NHK大河ドラマ、演:) 脚注 [ ] 注釈 [ ] []• なお同書では、ライーニャおよびプリンセザの訳語に「奥方」を使用している。 「公方様の夫人は、実は正妻ではなかった。 だが彼女は懐胎していたし、すでに公方様は彼女から二人の娘をもうけていた。 また彼女は上品であったのみならず、彼から大いに愛されてもいた。 したがって世間の人々は、公方様が他のいかなる婦人を妻とすることもなく、むしろ数日中には彼女にライーニャ(=王妃)の称を与えることは疑いなきことと思っていた。 なぜならば、彼女はすでに呼び名以外のことでは公方様の正妻と同じように人々から奉仕され敬われていたからである」 「コジジュウドノ(小侍従殿)と称されたこのプリンセザは~」• 『』天文5年3月11日・4月6日条。 『日本史』第65章。 『言継卿記』5月19日条。 『言継卿記』10月7日条。 後にがに門弟であるを推挙した際の書状において、上方における卜伝の直門として弥四郎の父・と共に、義輝と北畠具教の名を挙げている。 の伝承では、卜伝が「唯授一人」の一之太刀を伝授した相手は北畠具教としている。 また、卜伝本人からではないが、も、その直門である松岡則方から一之太刀を伝授されている。 『フロイス日本史』第1部66章および67章や、宣教師の書簡集などには、義輝の死後、竹内季治などの徒が松永久秀などに働きかけて正親町天皇を動かし、イエズス会の宣教師を京都から追放する勅令状を発行させることに成功し、宣教師は都を追われたという記述があるが、同書や彼らの書簡には義輝の生前に天皇より宣教師やイエズス会の会員を京都から追放する命令が出たという記述はない。 『三百藩家臣人名事典』第七巻()では義昭の弟としている。 出典 [ ]• 『完訳フロイス日本史1 将軍義輝の最期および自由都市堺』より。 , p. , p. , p. , pp. 8-9. , pp. 61-62. , pp. 285-287. , p. 333. 343. 287-294. , p. , pp. 9-10. , p. , p. , p. , pp. 12-13. , p. 14-15. , p. 24-25. 100. , p. 337. 天野忠幸「三好政権と将軍・天皇」『織豊期研究』8号、2006年。 , pp. 21-22. 矢崎勝巳「『彦部家譜』所収里見氏関係文書」『中世房総』5号、1991年。 宮本義己「足利将軍義輝の芸・豊和平調停(上)(下)」『政治経済史学』102号・103号、1974年。 , p. 44-45. 松村正人「室町幕府政所頭人伊勢貞孝-その経営基盤と行動原理をめぐって-」『白山史学』35号、1997年。 山田康弘「将軍義輝殺害に関する一考察」『戦国史研究』43号、2002年。 山田邦明『戦国の活力』小学館、2008年、127頁。 柴裕之「永禄の政変の一様相」『戦国史研究』72号、2016年。 , p. 50-53. 128. , pp. 128-129. 129. 『戦国時代の貴族-「言継卿記」が描く京都-』〈講談社学術文庫〉、2002年。 , pp. 129-130. 『戦国時代の貴族-「言継卿記」が描く京都-』〈講談社学術文庫〉、2002年。 , p. 130. 295. 参考文献 [ ]• 木下昌規 「総論 足利義輝政権の研究」、木下昌規編 『足利義輝』 思文閣出版〈シリーズ・室町幕府の研究〉、2018年。 山田康弘 『足利義輝・義昭 天下諸侍、御主に候』 ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2019年12月。 ; 編 『室町幕府将軍列伝』 戎光祥出版、2017年。 『足利義昭』吉川弘文館〈人物叢書〉、1996年、新装版。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。

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【歴史】室町幕府 足利将軍一覧

足利 将軍家

概要 流本宗家の8代目棟梁。 の次男として生まれる。 歴代当主の慣例に従い、初めは・のを受け 高氏(たかうじ)と名乗っていた。 3年()にが伯耆船上山で挙兵した際、その鎮圧のため幕府軍を率いて上洛したが、で幕府への反乱を宣言、を滅ぼした。 幕府滅亡の勲功第一とされ、後醍醐天皇の諱・尊治(たかはる)のを受け、高氏の名を 尊氏(たかうじ)に改める。 後醍醐天皇の新体制である下で、公卿の反乱計画発覚など政情不安が続く中、鎌倉方の残党が起こしたにより窮地に陥った弟・救援のため東下し、乱を鎮圧したあともに留まり、を独自に配布した。 これを独自の武家政権を樹立する構えと解釈した天皇との関係が悪化、が勃発した。 では大勝するが、およびで敗北し、一時は九州に都落ちしたものの、再びを拠点に上洛して京都を制圧、を擁立してにされ新たな()を開いた。 一度は京に降った後醍醐天皇は、すぐ後、に脱出しを創始することになった。 幕府を開いてのち、・兄弟らへの諮問のもと、その基本方針となる『』を発布。 弟・足利直義と二頭政治を布き、保守派の直義に対して、尊氏は革新派のを通じて政治改革を行ったが、後に尊氏・師直派と直義派との間でが起こった。 師直・直義の死により乱は終息したが、その後も南朝や実子のなど反対勢力の打倒に奔走し、統治の安定に努めた。 後醍醐天皇の崩御後は、その菩提(ぼだい)を弔うためを建立した。 勅撰歌人である武家歌人としても知られ、『』は尊氏の執奏によりが撰進を命じたものであり、以後のは、の最後の『』まですべて将軍の執奏によることとなった。 生涯 誕生と家督相続 尊氏は3年()7月27日にの次男として生まれた。 生誕地は母の実家、の本貫地である丹波国何鹿郡八田郷 (現・)とされる。 また、旧来は栃木県の足利荘()出生とされる事が多かったが、足利荘説は傍証資料に乏しく近年(90年代以降)では概ね否定されている。 母は貞氏側室の(兄に貞氏正室のの娘が産んだがいる)。 後世に編纂された『』では尊氏が出生して産湯につかった際、2羽の山鳩が飛んできて1羽は尊氏の肩に止まり、1羽は柄杓に止まったという伝説を伝えている。 元年()、15歳にしてに叙しに任ぜられる。 また、同日にをし、・の偏諱を賜り 高氏(通称は又太郎)と名乗ったとされる。 15歳での叙爵は北条氏であれば得宗家・赤橋家に次ぎ、大仏家・金沢家と同格の待遇であり、北条氏以外の御家人に比べれば圧倒的に優遇されていた。 そして北条氏一族の有力者であったのの妹を正室に迎える。 その後、守時は鎌倉幕府の執権となる。 足利氏の家督は一旦は兄の高義が継いでいたが、父より先(高氏の元服以前)に亡くなっていたため、高氏が継ぐことになった。 鎌倉幕府は高氏に派兵を命じ、高氏は天皇の拠る笠置との拠るの攻撃に参加する。 このとき、父の喪中であることを理由に出兵動員を辞退したが許されなかった。 『』は、このことから高氏が幕府に反感を持つようになったとする。 また、足利氏は承久の乱で足利義氏が大将の1人として北条泰時を助けて勝利を導いて以来、対外的な戦いでは足利氏が大将を務めるのが嘉例とされ、幕府及び北条氏はその嘉例の再来を高氏に期待したもので、裏を返せば北条氏が足利氏に圧力を加えても決して滅ぼそうとはしなかった理由でもあった。 勝利に貢献した高氏の名声は高まったが、不本意な出陣だったためか、同年11月他の大将を置いて朝廷に挨拶もせずさっさと鎌倉へ戻っており、を呆れさせている(『』)。 元弘の乱は結局失敗に終わり、倒幕計画に関わった貴族・僧侶が多数逮捕され、死刑・配流などの厳罰に処された。 も廃位され、代わってのがした。 幕府は高氏の働きに、従五位上の位階を与えることで報いた(『花園天皇宸記』裏書)。 高氏は当時病中だったが再び幕命を受け、西国の討幕勢力を鎮圧するためにとともに司令官として上洛した。 このとき、高氏は妻登子・嫡男千寿王(のちの)を同行しようとしたが、幕府は人質としてふたりを鎌倉に残留させている。 名越高家が緒戦で戦死したことを踏まえ、後醍醐天皇の誘いを受けていた高氏は天皇方につくことを決意し、4月29日、所領の()で反幕府の兵を挙げた。 諸国に多数の軍勢催促状を発し、の、のらの反幕府勢力を糾合して入洛し、5月7日にを滅亡させた。 関東では、同時期に上野国の御家人であるを中心とした叛乱が起こり、鎌倉を制圧して幕府を滅亡に追い込んだ。 この軍勢には、鎌倉からの脱出に成功した千寿王も参加している。 一方で、高氏の庶長子・は伯父に連れ出され、鎌倉を出たが、脱出に失敗して途中で北条の手の物に捕まり殺害されている。 建武の新政 詳細は「」および「」を参照 鎌倉幕府の滅亡後、高氏は後醍醐天皇から勲功第一とされ、に叙され、・に任ぜられ、また30箇所の所領を与えられた。 尊氏は建武政権では自らは要職には就かなかった一方、足利家の執事である、その弟・をはじめとする家臣を多数政権に送り込んでいる。 これには、天皇が尊氏を敬遠したとする見方と、尊氏自身が政権と距離を置いたとする見方とがある。 世人はこれを「尊氏なし」と称した。 また、鎌倉幕府滅亡に大きな戦功をあげながら父に疎まれ不遇であったは、尊氏をも敵視し政権の不安定要因となっていたが、元年()には父の命令で逮捕され、鎌倉の直義に預けられて幽閉の身となった。 中先代の乱 詳細は「」を参照 足利直義(尊氏の弟)の意向もあって尊氏はそのまま鎌倉に本拠を置き、独自に恩賞を与えはじめ、京都からの上洛の命令も拒んで、独自の武家政権創始の動きを見せはじめた。 11月、尊氏は新田義貞を君側の奸であるとして天皇にその討伐を要請するが、天皇は逆に義貞にをともなわせて尊氏討伐を命じた。 さらに奥州からは北畠顕家も南下を始めており、尊氏は赦免を求めて隠居を宣言し寺にひきこもり断髪する が、直義・師直などの足利方が各地で劣勢となると、尊氏は彼らを救うため天皇に叛旗を翻すことを決意し「直義が死ねば自分が生きていても無益である」と宣言し出馬する。 12月、尊氏は新田軍をで破り、京都へ進軍を始めた。 この間、尊氏は持明院統の光厳上皇と連絡を取り、叛乱の正統性を得る工作をしている。 建武3年()正月、尊氏は入京を果たし、後醍醐天皇はへ退いた。 しかしほどなくして奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞の攻勢に晒される。 1月30日の戦いで敗れた尊氏は篠村八幡宮に撤退して京都奪還を図る。 この時の尊氏が京都周辺に止まって反撃の機会を狙っていたことは、九州のに出兵と上洛を命じた尊氏の花押入りの2月4日付軍勢催促状(「筑後大友文書」)から推測できる。 だが、2月11日に摂津で新田軍に大敗を喫したために戦略は崩壊する。 尊氏は摂津兵庫から播磨室津に退き、赤松円心の進言を容れて京都を放棄して九州に下った。 九州への西下途上、赤間関()でに迎えられ、筑前国のの支援を受ける。 5月25日ので新田義貞・楠木正成の軍を破り、6月には京都を再び制圧した()。 尊氏は洛中をほぼ制圧したが、このころ再び遁世願望が頭を擡げ8月17日に「この世は夢であるから遁世したい。 信心を私にください。 今生の果報は総て直義に賜り直義が安寧に過ごせることを願う」という趣旨の願文を清水寺に納めている。 足利の勢力は、比叡山に逃れていた天皇の顔を立てる形での和議を申し入れた。 和議に応じた後醍醐天皇は11月2日に光厳上皇の弟に神器を譲った。 その直後の11月7日、尊氏は、(法学者)の(中原章賢)・兄弟らへ諮問して『』十七条を定め、政権の基本方針を示し、新たな武家政権の成立を宣言したが、これは直義の意向が強く働いたものとされる。 実質的には、このときをもっての発足とする。 尊氏はと同じに任じられ、自らを「」と称した。 一方、後醍醐天皇は12月に京を脱出して吉野()へ逃れ、光明に譲ったは偽物であり自らが帯同したものが本物であると称して独自の朝廷()を樹立した。 翌年、後醍醐天皇が吉野ですると、尊氏は慰霊のために造営を開始した。 造営費を支弁するため、へが派遣されている。 さらに諸国にとの建立を命じた。 新政権において、尊氏は政務を直義に任せ自らは軍事指揮権と恩賞権を握り武士の棟梁として君臨した。 はこの状態を、主従制的支配権を握る尊氏と統治権的支配権を所管する直義との両頭政治であり、鎌倉幕府以来、将軍が有していた権力の二元性が具現したものと評価した(「室町幕府論」『岩波講座日本歴史7』岩波書店、1963年)。 しかし、二元化した権力は徐々に幕府内部の対立を呼び起こし、高師直らの反直義派と直義派の対立として現れていく。 この対立はついにと呼ばれる内部抗争に発展した。 尊氏は当初、中立的立場を取っていた。 直義は出家し政務を退くこととなった。 直義の排除には師直・尊氏の間で了解があり、積極的に意図されていたとする説もあるが、後の直義の言動より、直義の師直襲撃にも尊氏は言質を与えていたものと思われ、尊氏は優柔不断に直義にも師直にもいい顔をしていたとの説もある。 師直は直義に代わって政務を担当させるため尊氏の嫡男・義詮を鎌倉から呼び戻し、尊氏は代わりに次男・を下してとし、東国統治のためのを設置した。 すると直義は京都を脱出して南朝に降伏し、、ら直義派の武将たちもこれに従った。 直義の勢力が強大になると、義詮は劣勢となって京を脱出し、京に戻ろうとした尊氏もやで敗れた。 この交渉において尊氏は寵童饗庭氏直を代理人に立てたが、氏直には直義に「師直の殺害を許可する」旨を伝えるように尊氏は命じたという記録が残っている。 和睦後、師直兄弟とともに京に戻るが、この時尊氏は出家姿になってみすぼらしい二人と一緒に上洛するのは「見苦しい」と言って嫌い、彼らに行列の後ろから3里(約2km)ばかり離れてついてくるようにと指示を出していた(『観応二年日次記』)。 師直ら高一族は尊氏に見捨てられたような形で、護送中に彼らを父の敵として恨んでいたにより殺害された。 直義は、義詮の補佐として政務に復帰した。 上記の通り、この一連の戦闘の勝者は直義、敗者は尊氏であり、尊氏の権威は大きく失墜してもおかしくないはずである。 ところが尊氏は全く悪びれる様子もなく、むしろ以前より尊大に振る舞うようになる。 では尊氏派の武将の優先を直義に約束させ、高氏を滅ぼした上杉能憲の死罪を主張し、直義との交渉の末これを流罪にした。 また、謁見に現れた直義派のを降参人扱いし、太刀を抜いて縅すなどまるで勝者のように振る舞い、勝ち戦で上機嫌だった顕氏は尊氏の不思議な迫力に気圧され一転して恐怖に震えたという。 そもそも尊氏は細かいことに拘らない性格だったが、今回の敗戦も尊氏と直義の戦いではなく、あくまで師直と直義の戦いだと、自分の都合のいいように考えていたようだ。 更に、直義のを理想とする守旧的な政治は、幾度の戦乱を経て現実に即しているとは言い難かったため、尊氏派に宗旨替えする武将が続出し、敗者だった尊氏側が実際には優勢であるという情勢ができてゆく。 このような情勢の中で、直義派の武将が殺害されたり襲撃されたりするなど事件が洛中で続発し、終には直義は政務から再び引退するに至る。 尊氏はの謀反を名目に近江へ、義詮はの謀反を名目として播磨へ、京の東西へ出陣する形となったが、佐々木や赤松の謀反の真相は不明で(後に彼らは尊氏に帰順)、実際には尊氏はむしろ直義追討を企てて南朝と和睦交渉を行った。 この動きに対して直義は京を放棄して北陸を経由して鎌倉へ逃亡した。 尊氏と南朝の和睦は同年10月に成立し、これを正平一統という。 この和睦によって尊氏は南朝から直義追討の綸旨を得たが、尊氏自身がかつて擁立した北朝のは廃されることになった。 そして尊氏は直義を追って東海道を進み、()、相模早川尻()の戦いなどで撃ち破り、直義を捕らえて鎌倉に幽閉した。 『太平記』の物語では、尊氏による毒殺の疑いを匂わせるように描かれた。 尊氏は直義の死後病気がちになり、以後政務は義詮を中心に執られることになった。 晩年 尊氏が京を不在にしている間に南朝方との和睦は破られた。 ・・・北条時行などの南朝方から襲撃された尊氏はへ退却するが、すぐさま反撃し関東の南朝勢力を破って鎌倉を奪還した()。 一方、畿内でも南朝勢力が義詮を破って京を占拠し、北朝の光厳・光明・崇光の三上皇と皇太子直仁親王を拉致し、足利政権の正当性は失なわれるという危機が発生する。 しかし近江へ逃れた義詮はすぐに京を奪還し()、佐々木道誉が擁立に成功した為北朝が復活、足利政権も正当性を取り戻した。 しかし今度は、佐々木道誉と対立して南朝に下ったとが京を襲撃して、義詮を破り京を占拠した。 尊氏は義詮の救援要請をうけ京へ戻り義詮とともに京を奪還した。 翌年には尊氏は京を放棄するが、結局直冬を撃退して京を奪還した。 この一連の合戦では神南での山名氏勢力との決戦から洛中の戦に到るまで道誉と則祐の補佐をうけた義詮の活躍が非常に大きかったが、最終的には東寺の直冬の本陣に尊氏の軍が自ら突撃して直冬を敗走させた。 尊氏はこの際自ら直冬の首実検をしているが結局討ち漏らしている。 尊氏はの要請に応じて自ら直冬や、の征西府の討伐を行なうために下向を企てるが、義詮に制止され果せなかった。 享年54(満52歳没)。 『』によると3年()5月2日庚子の条に、尊氏の葬儀が で行われたとあり、5月6日甲辰の条の初七日からの法要は、において行われたことがわかる。 墓所は京都の等持院と鎌倉の長寿寺。 これを反映して死後の尊氏は、京都では「等持院」、関東では「長寿院」と呼び表されている。 そして、尊氏の死から丁度百日後に、孫のが生まれている。 年表 和暦 南朝 北朝 西暦 月日 () 内容 出典 3年 後二条天皇 7月27日 生誕。 元年 後醍醐天皇 10月10日 に叙任。 元応2年 後醍醐天皇 後醍醐天皇 9月5日 治部大輔辞任。 公卿補任 2年 後醍醐天皇 後醍醐天皇 6月18日 嫡子誕生。 2年 元年 光厳天皇 6月6日 に昇叙。 公卿補任 元弘3年 正慶2年 後醍醐天皇 後醍醐天皇 6月5日。 内昇殿許される。 6月12日 に昇叙転任。 8月5日 に昇叙し、兼任。 名を尊氏と改める。 公卿補任 ~ 元年 後醍醐天皇 後醍醐天皇 1月5日 に昇叙。 9月4日 に補任。 左兵衛督如元。 建武2年 後醍醐天皇 後醍醐天皇 7-8月 8月9日 宣下。 8月30日 に昇叙。 11月26日 征東将軍を止む。 元年 建武3年 後醍醐天皇 2月頃 方、 太平記 5月25日 北朝方、 太平記 11月7日 北朝方、制定。 11月26日 北朝方、に転任。 延元3年 元年 後醍醐天皇 光明天皇 8月11日 北朝方、に昇叙。 元年 暦応3年 光明天皇 3月5日 次男誕生、兵庫に福海寺(福海興国禅寺)建立。 5年-6年 年間 後村上天皇 - 方、。 征夷大将軍解任。 正平7年 元年 後村上天皇 2月26日 弟死去。 正平13年 3年 後村上天皇 4月30日 死去。 6月3日 贈。 元年 元年 4月28日 贈。 人物 性格 尊氏の人間的な魅力を、個人的に親交のあったが次の3点から説明している(『』)。 1つ、心が強く、合戦で命の危険にあうのも度々だったが、その顔には笑みを含んで、全く死を恐れる様子がない。 2つ、生まれつき慈悲深く、他人を恨むということを知らず、多くの仇敵すら許し、しかも彼らに我が子のように接する。 3つ、心が広く、物惜しみする様子がなく、金銀すらまるで土か石のように考え、武具や馬などを人々に下げ渡すときも、財産とそれを与える人とを特に確認するでもなく、手に触れるに任せて与えてしまう。 1つ目の戦場での勇猛さだが、ある戦場で矢が雨のように尊氏の頭上に降り注ぎ、近臣が危ないからと自重を促すと、「やはり」尊氏は笑って取り合わなかったという。 『』でも、文和4年(1355年)の東寺合戦で危機的状況に陥った際、尊氏は「例の笑み」を浮かべ、「合戦で負ければそれでお終いなのだから、敵が近づいてきたら自害する時機だけを教えてくれればよい」と答え全く動揺することがなかった、という。 『源威集』の著者は「たとえ鬼神が近づいてきたとしても、全く動揺する気配がない」と尊氏の胆力を褒めちぎっている。 2つ目の敵への寛容さも、畠山国清やなど一度敵方に走ったものでも、尊氏は降参すればこれを許容し、幕閣に迎えている。 3つ目の部下への気前の良さは、『梅松論』にあるの逸話によって窺い知ることができる。 当時、のに贈答しあう風習が流行し、尊氏のもとには山のように贈り物が届けられた。 しかし、尊氏は届いたそばから次々と人にあげてしまうので、結局その日の夕方には尊氏のもとに贈り物は何一つ残らなかったという。 こうした姿勢は戦場でも同様で、尊氏は戦場で功績を上げた者を見ると、即座に恩賞を約束するかな書きの(「軍陣の下文」と呼ばれる)を、相手に直接与えている。 これは、すでに権利者のいる所領を再び別人に与えてしまう事例も発生し、後の史料には100年先まで紛争の種となり、尊氏の子孫たちを悩ましている例すらある(「御前落居記録」第18項)。 それでも、戦場の下文がもつ即時性の効果は大きかった。 また、佩用していた腰刀を直接家臣二人に与えた例や、自身が所用する軍扇 を与えたこともある。 こうした鷹揚で無頓着な尊氏を見聞きした家臣たちは、みな「命を忘れて死を争い、勇み戦うことを思わない者はいなかった」といい(『梅松論』)、これが尊氏最大の人間的魅力だった。 しかしながら『梅松論』には、尊氏は合戦で苦戦した際、すぐ切腹すると言い出し周囲を慌てさせたり、後醍醐天皇に背いて朝敵となったことを悔やみ、一時は出家を宣言してしまうなどの記述もある。 尊氏は正月ので、毎年「天下の政道、私あるべからず。 生死の根源、早く切断すべし」と書いたと伝えられる。 歴史の表舞台に立った尊氏は、その性格ゆえに周囲の動向に振り回され傷つき、また自身も無意識に周囲を傷つけてしまう苦悩を背負うこととなった。 また、正室であった赤橋登子所生(義詮・基氏・鶴王)以外の子に対して冷淡であったかのような見方がされているが、によればこれは正室である登子の意向によるものであり、その背景として実家(赤橋流北条氏)という後ろ盾を失った彼女が自身とその子供たちを守るために他の女性の子供を排除せざるを得なかったからとする。 二頭政治か否か 前のの政治体制については、幕府の(九州方面軍総指揮官)を務めたの『』に、世人は尊氏を「弓矢の将軍」と称し、直義は「政道」を任されたとあることから、一般に、擾乱前は、軍事を担当とする足利尊氏と政治を担当する足利直義の二頭政治が取られていたという理解が定説となっている。 後、はこの説をさらに深化させ、尊氏は主従制的支配権(人を支配する権限)を、直義は統治的支配権(領域を支配する権限)を持っており、質的差異があったのではないか、と指摘した。 しかし、21世紀に入り、は、実際のところ幕府の運営のほとんどは直義を実質の最高権力者として行われており、「二頭政治」という呼び方では、両者の権限が拮抗していたかのような誤解を与えるのではないか、『難太平記』のも両者の関係にほころびが生じてからの描写であり、平時のものとは言い難い、と指摘した。 も呉座に同意し、(の「室町殿」体制になぞらえて)下京三条坊門高倉に住む直義を中心とする「三条殿」体制と言って良いのではないか、とした。 また、亀田は室町幕府初期の政治体制は末期の政治体制(後醍醐天皇がを与え、その他おおよその政務はが行う)と似通っていることを指摘し、尊氏は後醍醐天皇の施策を意識的に継承し、尊氏が後醍醐天皇の権限(恩賞給付能力、政体の新たな力を創造する能力)を、直義が雑訴決断所の権限(政治全般を行い、政体を保全する能力)を担当することになったのではないか、とした。 勅撰歌人 尊氏は、武将、政治家としてだけでなく、芸術家としても足跡を残している人物で、取り分け室町時代を代表する武家歌人として名高い。 については『』に68句が入集しており武家ではに次ぎ二番目に多く入集している。 専ら連歌に専念した道誉と異なり和歌についても足跡が多く、『続後拾遺和歌集』(3年())から『』(11年())まで、6種の勅撰集に計86首の和歌が入撰している。 また、『』を企画し勅撰集の武家による執奏という先例を打ち立てた。 その他の芸能 源頼義父子が名人として知られていたをから学び、後醍醐天皇の前でも笙を披露している(『続史愚抄』建武2年5月25日条)。 後に後光厳天皇も尊氏に倣って龍秋から笙を学んだ(『園太暦』延文3年8月6・8・14日条)。 地蔵菩薩を描いた絵画なども伝わっており、画才にも優れた人物だった。 この他にも扇流しの元祖であるというエピソードもある。 信仰 信仰については京都の鞍馬山、奈良の信貴山と並ぶ、 日本三大毘沙門天のひとつであるの大岩毘沙門天を信仰していた。 愛用の武具 骨食(骨喰藤四郎) 詳細は「」を参照 尊氏は、重代のである (ほねかみ)を愛刀としていた。 この武具はの鑑定では、のの作とされる。 一は御重代の 骨食也。 重藤の御弓に上矢をさゝる。 御馬は黒粕毛、是はが昨日進上申たりしなり」 とあるのが、足利氏の骨食(骨喰)についての古い記述である。 また、同時代史料である『常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到』(、長享元年)に、元年()、第9代将軍が征伐のため坂本に出陣した際、小者に「御長刀ほねかみと申す御重代をかつ」がせていたとあることから、骨食が薙刀であったこと、尊氏以降は重代の武器として伝えられていたこと、「ほねかみ」と訓まれていたことなどがわかる。 のちに磨り上げられ、骨喰(ほねばみ)として知られるようになり、・・・政府などの手を経て、大正末期にの所有となり、旧国宝(現在の)に指定されている。 備前長船兼光 足利尊氏木像() 尊氏を逆賊とする評価は、にが創始したに始まる。 水戸学は名分論の影響を強く受けており、皇統の正統性を重視していた。 そのため、正統な天皇(後醍醐天皇)を放逐した尊氏は逆賊として否定的に描かれることとなった。 水戸学に発する尊氏観はその後も継承され、尊王思想が高まった期には論者によって等持院の尊氏・義詮・義満3代の木像が梟首される事件も発生している()。 1934年(昭和9年)、内閣のであったは、足利尊氏を再評価すべきという過去の文章を発掘されて野党からの政権批判の材料とされ、大臣職を辞任した。 (「中島久万吉」項目参照。 ) 第二次世界大戦後の評価 は、による実証的分析を通して、尊氏が数多くの発給文書を残していることを指摘し、尊氏が鎌倉将軍とは違って最高指導者としての親裁権を活用し、動乱の苦難と産みの苦しみを乗り越えて室町幕府のおおよその骨格を形作った人物であると述べた。 そして、南北朝の動乱の群像でも最も中心的な役割を果たした存在とし、南北朝時代は現代に繋がる日本文化の原型とされるのであるから、その時代の骨格を作った尊氏は「日本文化の実質的な開創者の一人といっても過言ではない」と評した。 は、『』で、後の尊氏が「征夷大将軍の名に恥じない立派な大将」として書かれているとし、武家故実に詳しいの8年前の兵装を記憶していてそれを評価した描写を取り上げ、尊氏のカリスマが高かったのは、単に経済的利益給与に気前が良かっただけではなく、こうした部下への細やかな観察と適切な評価にも優れていたことも特長なのでないか、とした。 そして、室町幕府がまがりなりにも200年以上続く長期政権となったのは、尊氏が「諸政策の恩賞化」によって、「努力が報われる政治」を行ったことが主な理由なのではないか、とした。 また、観応の擾乱前の尊氏は政治的に無気力だったのに、40代半ばに擾乱を乗り越えてからは積極的に政務に参与しているという劇的な変化を指摘した。 そして、たとえ何歳になっても人間は努力すれば必ず変わることが出来るという、勇気づけられる好例なのではないか、とした。 作家からの評価 は『毒舌日本史』 [ ]で、子孫が困るほど気前が良い人物であるとし、に生まれていればやよりも器量は上でと対抗できるとも評している。 また、尊氏の天下を認めようとしなかった後醍醐天皇を暗に批判している。 歴史小説家のは「武将列伝」で、は「逆説の日本史」で、後醍醐天皇にとどめを刺さなかった点や内部抗争の処理に失敗した点を突き、「人柄が良くカリスマは高いが、組織の運営能力の点ではやに劣っている」「戦争には強いが政治的センスはまるでない」と評価している。 伝説・創作 置文伝説 (了俊)の『』(9年())によれば、の先祖であるは、(一種の遺書)に、自分は七代の孫に生まれ変わり、天下を取るだろうと予言したという。 ところが、その七代目にあたる(尊氏と同じく側室の上杉氏の子)は、自分の世には天下を取ることが出来ないことを悟り、自分の寿命を縮めることと引き替えに、子孫3代のうちに足利家が天下を取ることを祈願して自刃し、その孫がまさに尊氏であるとされる。 貞世自身の証言によれば、貞世は尊氏との前でこの置文を拝見した経験があり、尊氏兄弟は「今天下を取る事ただこの発願(ほつがん)なりけり」と言ったという。 足利氏の有力武将の証言というだけあって、かつては信頼の置ける話とされ、足利氏には代々天下を取る野望が有り、その使命感に駆られて、尊氏はやへの離反を繰り返し、ついに天下を牛耳ったのだと説明されることがあった。 この説に疑問を提起したのは、・期の研究者であるである。 直義の書簡の宛先は(の従兄弟)であるから、家時の書状は代々が保管していたと見られ、しかも直義がその存在を知ったのは後醍醐との対決から15年も後のことである。 したがって、家時の書状の存在自体は確実であるが、これを足利氏の天下取りの動機に求めることはできない、という。 は、さらに、が発生した時の貞世は11歳に過ぎないことを指摘し、仮にもし貞世が尊氏・直義の眼前で家時置文なるものを見たという証言が本当であるとしても、それは幕府が成立した後のことであろうから、やはり天下取りの動機の史料的根拠としては弱いとしている。 20世紀末からは、動機の根拠どころか、家時の書状の内容自体が、はたして『難太平記』の言うように天下取りを指示したものかどうか、疑問視されるようになった。 によれば、足利氏がと見なされるようになったのは、幕府が成立した後の工作の結果であり、貞世が語る義家・家時の伝説もその「源氏嫡流工作」の一環であるという。 によれば、これは2016年時点での有力説である。 より伝像。 尊氏像とする説もある。 所蔵の「騎馬武者像 」は、京都守屋家の旧蔵品だったことから、現在でも他の尊氏像と区別する必要もあって守屋家本と呼ばれる。 「騎馬武者像」は編纂の『』で尊氏の肖像として紹介されたことから一般に広く知られ、2000年代頃までは学校用の歴史教科書でも尊氏の肖像として掲載されていた。 しかし、2代将軍のが像上部に据えられていることや、騎馬武者の馬具に描かれている輪違の紋が足利家ではなく家の家紋であるなどの理由から、像主をとする説 、もしくは子 、とする説などが出ている。 こうした動きがあることから、2000年代頃から各教科書では尊氏の肖像として掲載されなくなり、「騎馬武者像」として掲載されるにとどまっている。 反面、『梅松論』における多々良浜の戦いに臨む尊氏の出で立ちが本像に近く、京都に凱旋した尊氏がこの時の姿を画工に描かせたという記録が残る ことから、やはり尊氏像で正しいとする意見もある。 『太平記』によると、尊氏は後醍醐天皇へ叛旗を翻す直前に寺に籠もって元結を切り落としたといい、「騎馬武者像」の「一束切」の姿は、その後翻意して挙兵した際の姿を髣髴とさせるものではあり、その点をもって尊氏像と見なされてきたと考えられている。 『太平記』では挙兵の際に味方の武士たちがみな尊氏にならって元結を切り落とした逸話も伝えている。 にが描いたとされるのうちの「伝平重盛像」は、を描いたものと考えられてきたが、に美術史家のや歴史学者のらによって尊氏像であるとの説が提示された。 すぐさまから、画風や様式が南北朝期に下るものではないとする反論が出て論争になったが、近年は総じて新説が認められる傾向にある。 その他、のに尊氏を描いたと伝える姿の肖像画(右最上部に掲示)が所蔵されており、京都市のにも室町時代後期に描かれたとされる束帯姿の絹本着色「足利尊氏肖像画」が伝わっている。 また、守屋家本とは異なる騎馬姿の尊氏像がにあり、「征夷大将軍源朝臣尊氏卿」と明記された後期の肖像画が現存している。 2017年、研究員らによって、尊氏を描いたものとされる肖像画が発見され 、個人蔵の絹本着色、束帯姿の肖像画が同博物館で公開された。 この肖像画は「天神()絵賛」として伝来していたもので、原本ではなく室町時代中期に複製されたものであると推測される。 同肖像画には大覚寺派の僧による讃が付され、そこには尊氏を指す「長寿寺殿」の業績が記されている。 江戸時代に描かれたには、の「太平記兵庫合戦」(兵庫で尊氏を探す白藤彦七郎 )、の「太平記合戦図」(尊氏、兵庫福海寺に避難する図)、の「足利尊氏兵庫合戦図」(尊氏、兵庫福海寺に避難する図)等がある。 尊氏の木像は、の()のものが最も古い。 面貌表現が写実的で理想化が少なく、尊氏の生前か死後間もなく造像されたと見られる。 尊氏の木像というと、足利氏の菩提寺である京都市ののものがよく知られている。 こちらは体部の表現にやや時代が下る造形が見られるものの、頭部は安国寺木像や浄土寺肖像と共通する図様で造られており、中世を下らない時期の作品と考えられる。 他には、の(17年()以前の作)、京都市の(の作)、の(6年()の再興像)、の(2年()の再興像)、栃木県の(・の作)、同市の、同県のなどに所蔵されている。 また、現代になって作られた銅像が足利市鑁阿寺参道と京都府安国寺町に設置されている。 異母兄:• 正室:• 男子:• 男子:• 女子:(没後に従二位と「頼子」の名が与えられ(『師守記』貞治4年5月8日条)、の后妃に擬えられている )• 側室:の女(『尊卑分脈』)• 男子:(長男とされる)• 側室?(『太平記』では「越前局」とするが未詳)• 男子:• その他生母不明の子女• 女子:某(元年()10月2日、6歳で死去)• 男子:(康永4年()8月1日、7歳で死去)• 女子:某(養女。 法名了清。 3年()10月14日、5歳で死去)• 女子:某(貞和2年()7月9日、3歳で死去(『師守記』『門葉記』)、彼女も赤橋登子所生の可能性がある )• 男子: 足利尊氏の系譜• (近臣・寵童)• (別名:祐重、第8代当主での父)• (初め義貴)• (の子。 を称する)• (、の父)• (補足)• 「尊」の字は前述の通り、元々(名は尊治)から1字を与えられたものであり、これを与えられた饗庭尊宣、吉良尊義の両名に関しては、尊氏から破格の待遇を受けていたことがうかがえる。 (の子、のちの猶子となり渋川義宗を称す)の「尊」に関しては尊氏から受けたものというよりは、尊氏と同じく後醍醐天皇から1字を受けたものと推測される。 曾孫の(の)や(直冬の孫)をはじめ、子孫にも尊氏に肖って「尊」の字を用いる人物が見られる。 関連作品 小説• 『(全13巻)』毎日新聞社、1959年~1962年。 講談社からは、「吉川英治歴史時代文庫」の一環として、全7巻にて1990年2月~同年4月の間に発刊。 『新太平記(全5巻)』講談社、1971年~1972年。 また、1986年8月~同年11月の間に「山岡荘八歴史文庫」の一環として全5巻で発刊。 『足利尊氏:室町幕府を開いた男(上)(下)』下野新聞社、1989年6月。 『足利尊氏(上)(下)』 徳間文庫)徳間書店、1991年4月。 『足利尊氏』富士見書房、1994年12月。 『風の群像(上)(下 』日本経済新聞社 1997年6月。 『太平記(1)~(6)』(角川文庫)角川書店、2004年12月ー2005年2月 テレビドラマ• 『(足利尊氏)』(1966年、、演:)• 『NHK大河ドラマ』(1991年、、演:) テレビアニメ• (、声:) - 孫の足利義満の役も同じ声優。 『ねこねこ日本史』(実業之日本社、第1巻に収録) マスコット• たかうじ君 - 足利市の• 政治的抗争の中で便宜上、一時的短期間に南朝に下っている。 兄高義の子とする説もある。 京都府のに産湯とされる井戸や尊氏の産髪・産着で作った袈裟が現存する。 『』第五輯上所収「足利系図」の尊氏の付記に「元應元年叙從五位下。 同日任治部大輔。 十五歳元服。 号足利又太郎。 」とある(参考:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(所収:『中央史学』二、1979年)P. 11))。 『』に「 足利源尊氏 二十九 八月五日叙。 元左兵衛督從四位下。 今日以高字爲尊。 同日兼武蔵守。 」とある(より)。 『足利家官位記』(『』第四輯所収)にも「元弘三年……同八月五日叙從三位。 同日兼武蔵守。 今日以高爲尊。 」と同様の記述が見られる。 『』でも「是のみならず、忝ものを被下て、高氏と名のられける高の字を改めて、尊の字にぞ被成ける。 」とあり、後醍醐天皇からの一字拝領であることが窺える。 但しこの文章は、巻十三「足利殿東国下向事付時行滅亡事」にあり、すなわち2年後の(詳細は本文を参照)の時の改名としているが、実際には『公卿補任』や『足利家官位記』が示す1333年8月5日が正確と考えられている(・釜田喜三郎・校注 『太平記』、、)。 尊氏は以後も出家や遁世の願望を口にしたり文章や絵画で表現することが多く、また太平記には劣勢となった尊氏が切腹をしようとしては周囲に止められたといったエピソードが多く収録され、非常に精神的に不安定であったことが伺える。 この願文は文法や文字に乱れが大きい。 こうしたことから尊氏は直義と師直の争いを利用して巧妙に直義も師直も排除する陰謀を張り巡らしたと見る向きもある。 しかし尊氏の性格から、単に投げ出しただけとも取れる。 は尊氏をではないかと推測しているが、佐藤は歴史学者で、医学の専門家ではない。 「南家伊東氏藤原姓大系図」伊東祐重項の傍注に「……祐重継家尊氏公賜御字改氏祐」とある。 同系図は、飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『地方史研究紀要』三輯、1977年)や『史 史料偏 古代・中世』(2006年)にて活字化されている。 清水(2013)p. 174• 「」 蔵。 尊氏のと、「観応2年(1351年)正月七日宿河原」で拝領した旨を記した小片が挟まれている。 江田郁夫 「コラム 戦場の足利尊氏」峰岸純夫 江田郁夫編 『足利尊氏再発見 一族をめぐる肖像・仏像・古文書』 吉川弘文館、2011年、pp. 135-144。 清水(2013)pp. 40-42。 清水(2013)pp. 42-45、90。 , p. 山上八郎『日本甲冑100選』p. 112(秋田書店、1974年)• , はじめに. , おわりに. 129—130. 130—131. , pp. 131—132. 86—89. e国宝に画像と解説有り()• 『鎧をまとう人びと』、2000年、pp. 164-189、。 下坂守「守屋家本騎馬武者像の像主について」『京都国立博物館学叢』第4号、1982年。 『肖像画を読む』角川書店、1998年• - 産経新聞WEST、2013年3月27日• 武田左京亮文秀像に寄せたの賛文(『雪樵独唱集』収録)• 『肖像画』吉川弘文館、1994年、pp. 235-240、。 同『肖像画の視線』吉川弘文館、2010年、pp. 29-35、。 - 朝日新聞DIGITAL、2017年10月27日• 『企画展 名馬と武将』 2019年• デジカル化資料()。 江田郁夫 「総論 下野宇都宮氏」(所収:江田郁夫 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第四巻 下野宇都宮氏』(、2011年)P. 13)。 『瑞石歴代雑記』。 詳細は当該項目(六角氏頼の項)を参照のこと。 は列挙するだけでなく、などを用いてしてください。 記事のにご協力をお願いいたします。 ( 2015年9月) 古典• 内外書籍株式会社編 16巻 内外書籍、1928年、121-143頁。 『』 主要文献• ほか『足利尊氏』 思索社、1991年1月• 『足利尊氏文書の総合的研究(本文編・写真編)』国書刊行会、2001年2月• 『足利将軍列伝』 秋田書店、1975年• 『足利尊氏文書の研究』(研究篇、図版篇、解説篇、目録・資料篇の全4冊) 旺文社、1997年9月• 清水克行『人をあるく 足利尊氏と関東』吉川弘文館、2013年11月、• 櫻井彦・・錦昭江編『足利尊氏のすべて』新人物往来社、2008年9月• 監修『足利尊氏』ポプラ社(徹底大研究日本の歴史人物シリーズ4)、2003年4月、• 『足利直冬』吉川弘文館、• 『足利尊氏(新装版)』春秋社、1987年9月• 発行・編集『開館三〇周年特別企画展 足利尊氏 その生涯とゆかりの名宝』展図録、2012年• 松崎洋二『足利尊氏』新人物往来社、1990年3月• 『足利尊氏と直義 京の夢、鎌倉の夢』、2009年• 峰岸純夫・江田郁夫編『足利尊氏再発見 一族をめぐる肖像・仏像・古文書』吉川弘文館、2011年• 『足利尊氏』 〈角川選書 583〉、2017年。 『足利尊氏』岩波書店、1949年 その他• 『観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』 〈中公新書 2443〉、2017年。 『戦争の日本中世史 「下剋上」は本当にあったのか』 、2014年。 『南北朝の動乱』 〈日本の歴史 9〉、1965年。 佐藤進一 『日本歴史9 南北朝の動乱』(改版) 中央公論社〈中公文庫〉、2005年。 - 1965年版の単行本が1974年に文庫版となったものの改版。 「【後醍醐と尊氏の関係】4 足利尊氏は「建武政権」に不満だったのか?」、日本史史料研究会; 呉座勇一編 『南朝研究の最前線 : ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで』 〈歴史新書y〉、2016年、84—108頁。

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足利将軍家

足利 将軍家

名字としての足利は、平将門の乱に活躍した藤原秀郷の後裔淵名兼行の子成行が下野国足利を開発して足利を称したのが先になる。 足利氏の発祥 八幡太郎義家の三男義国は、義家が足利氏の女(成行の孫娘とする説が有力)との間にもうけた男子と伝えられる。 成長した義国は都にのぼり加賀介に補されたが、康和二年(1100)、一族の佐竹冠者昌義の起した乱の鎮圧を命じられ、常陸に下った義国は昌義を討ち取った。 その間、父義家が死去したことで、本来なら源氏嫡流の家督を継ぐ身にありながら、弟の義忠が義家のあとを継いで源氏の惣領となった。 一方、義国は昌義の祖父で叔父にあたる源義光との間で小競合いが起り、さらには勅勘を蒙る身となり、ついには下野に土着するに至ったのである。 義国の嫡男義重は新田荘を開墾して新田義重と称して新田氏の祖になり、二男の義康が足利荘を譲られて足利義康と称した。 その後、義康は上洛して鳥羽法皇に北面の武士として仕え、蔵人や検非違使に任官し、陸奥守にも補任されて「陸奥判官」とも呼ばれた。 保元元年(1156年)の保元の乱では、源義朝とともに後白河天皇方として参陣した。 戦後、論功行賞として昇殿を許され、従五位下大夫尉に任官するなど将来を嘱望されたが、翌年病を得て三十歳の若さで歿した。 平治元年(1159)に起こった平治の乱に源義朝が敗れると、足利荘は平重盛の所領となり、藤姓足利俊綱が管理するところとなった。 以後、平家全盛の時代を迎えると源氏一門は雌伏を余儀なくされ、源姓足利氏の動向には不明な点が多い。 やがて、治承四年(1180)、以仁王が挙兵すると義康の長男足利矢田判官代義清は、以仁王に味方したが敗れて京から逃げ落ちた。 その後、義清は木曽義仲の挙兵に加わり、寿永二年(1183)、備中水島の合戦において弟義長と共に討死した。 一方、足利荘にあった義康の三男義兼は、早い時期から源頼朝の麾下に加わっていて、兄たちの死後、源姓足利氏の嫡流を継ぐことになった。 義兼の母親は熱田大宮司季範の娘で頼朝の母の妹にあたり、 頼朝とは従兄弟であったことが家督相続に有利に働いたものと考えられる。 一時期、平家に属して勢力を振るった藤姓足利氏は、頼朝に攻められた足利俊綱が家臣の桐生六郎に殺害され、俊綱の子忠綱は壇ノ浦で敗れて没落した。 その後、忠綱は足利に帰ってきたが、足利荘はすでに足利義兼の領地となっており、追い詰められた忠綱は飛駒山中で自殺して藤姓藤原氏は滅亡した。 頼朝が死去したのち執権北条氏が権力を確立していくと、足利氏は北条氏に協力することで自らの地位を発展保持していった。 鎌倉時代は北条氏と縁戚関係を結び、義兼のあとを継いだ義氏は三河守護となり、その子泰氏は上総守護をも兼ねて、所領は下野・三河・丹波・美作・上総・下総に散在した。 かくして、各地の所領に一族を配したことで足利一族は大いに発展していった。 しかし、北条得宗家の専制強化によって多くの御家人が失脚、あるいは滅亡し、足利氏も鎌倉末期には「百姓のごとき」生活を送っていたと記している記録もある。 たしかに、北条体制が確立されていくにつれ、幕府創業以来の御家人の多くが没落していった。 足利氏も北条氏の下風に立つようになったが、源家将軍家断絶後は武門源氏の嫡流とみなされて外様御家人中第一の地位を有し、赤橋・金沢など執権・連署を勤めた北条氏一門から正室を迎えていた。 鎌倉時代の足利氏代々のなかで特筆されるのは家時であろう。 『難太平記』によれば、足利氏には源義家の「我七代の孫吾生かはりて、天下を取べし」と書かれた置文が伝わっており、家時が丁度七代目に当たっていた。 未だもってその時ではないことを嘆いた家時は八幡大菩薩に祈って、「我命をつづめて、三代の中にて、天下を取らしめ給へ」 と語って腹を切ったと書かれている。 家時の死後、家督を継いだ貞氏は鎌倉幕府が崩壊する直前の元弘元年(1331)九月に没した。 貞氏の嫡男高義は死去していたため、高氏が足利氏の家督を継いだ。 高氏は元応元年(1319)に十五歳で元服したが、その前年の文保二年(1318)に後醍醐天皇が即位している。 尊氏と後醍醐天皇が同時期に歴史に登場したことは、何ともいえない歴史の符合を感じさせる。 ちなみに、高氏の「高」は北条高時から一字を拝領したもので、のちの尊氏は後醍醐天皇の諱「尊治」の一字を拝領したものである。 足利幕府を開く 後醍醐天皇の討幕運動に端を発した「元弘の役」が起ると、幕府は北条氏一門の名越高家と足利高氏を大将として大軍を上洛させた。 このとき、高氏は幕府の要求にしたがい、起請文を書き、妻登子と嫡子千寿王(のちの義詮)を人質に置いて、一族・被官以下三千余騎を率いて鎌倉を出発した。 入京した尊氏は六波羅の軍議にしたがい、四月二十七日、山陰道を伯耆船上山に向けて出京した。 この日、一方の大将として山陽道に向かった名越高家は赤松則村と戦って敗死した。 これを聞いた高氏は、ついに討幕の決意を固め、そのまま丹波国に入ると篠村に陣した。 篠村八幡宮の社前に旗を揚げ、願文を奉納して所願の成就を祈った高氏は、しばらく近国の武士たちの参集を待った。 五月七日、大挙して京都に攻め入り、六波羅を陥落させた。 その翌日、東国では新田義貞が旗揚げし、二十一日に鎌倉幕府を滅亡させた。 延久三年 1071 、源頼義の創建と伝えられる。 境内は意外に狭いが、尊氏の旗揚げに由来するという矢塚、旗立楊などがある。 ・左:篠村八幡宮の鳥居 ・右:篠村八幡宮の対い鳩紋 かくして、後醍醐天皇による建武新政が開始されると、高氏は第一功労者として厚く遇された。 しかし、新政の施策は公平を欠くところが多く、論功に不満を持った武家たちは武家政治の復活を願い、尊氏に期待をよせるようになった。 そのような情勢下、中先代の乱が起こると、尊氏は乱制圧のために東国に下った。 そして、乱を鎮めた尊氏は鎌倉に居座り、ついに新政に反旗を翻したのである。 討伐軍を破った尊氏は、官軍を追撃して上洛すると京都を制圧下においたが、ほどなく奥州から長躯上洛してきた北畠顕家軍に敗れて九州に奔った。 九州で態勢を立て直した尊氏は、湊川で楠木正成を討ち取り、ふたたび京都を制圧下においた。 そして、比叡山に逃れた後醍醐天皇に代えて光明天皇を擁立して室町幕府を開いた。 一方、京から脱出した後醍醐天皇が吉野で朝廷を開かれ、以後、五十七年間にわたる南北朝の動乱時代に入ったのである。 南北朝の争乱 情勢は武家方の北朝優位に動いたが、幕府内部で高師直らの反直義派と直義派の対立が起こり、ついに観応の擾乱と呼ばれる内部抗争に発展した。 政争に敗れた直義は出家して政務を退き、直義に代わって尊氏は嫡男義詮を鎌倉から呼び戻して政務にあたらせた。 鎌倉には次男基氏を下して、東国の宮方にあたらせた。 基氏の子孫は鎌倉公方として続き、のちに足利将軍家と対立するようになる。 観応の擾乱によって南朝方は勢力を盛り返し、尊氏、直義、南朝が三つ巴となって擾乱が続いた。 観応三年(1352)、捕らえられた直義が鎌倉で急死したことで擾乱は終息した。 しかし、中国地方では直義の養子直冬(実は尊氏の庶長子)をかつぐ山名氏や大内氏らの反幕勢力、鎮西では懐良親王を擁立する菊池氏ら南朝勢力が侮れない勢いをみせていた。 直義の死後、尊氏は関東の政情安定につとめ京に戻ったが、直後に直冬の京都侵攻にあった。 さらに、文和三年(1354)には南朝方に京都を奪われるという事態に陥った。 南朝方から京を奪還した尊氏は、自ら直冬の討伐に出陣しようとした。 そのような延文三年(正平十三年=1358)、尊氏は背中に出来た腫物のため、京都二条万里小路邸にて死去した。 尊氏のあとを継いで二代将軍となった義詮の前途は多難であった。 直冬を担ぐ山名・大内氏らは反幕姿勢を崩しておらず、鎮西南朝方は大宰府に拠っていよいよ健在、さらに幕府内では仁木義長と細川清氏・畠山国清らが対立、義長、清氏らは南朝方に降るという有様であった。 文字通り、政情は流動的であったが、貞治二年(正平十八年=1363)に大内氏、山名氏らが相次いで幕府に帰参したことで、幕府体制はようやく安定化をみせるようになった。 義詮は斯波義将を管領に任じ、訴訟手続の整備など、幕府体制の整備に尽力した。 しかし、幕府重臣間の抗争ややまず、貞治五年(1366)、義将が細川頼之・佐々木道誉らによって失脚するという事件が起こった。 翌年、幼少の嫡男義満を管領細川頼之に託して、三十八歳の若さで病死した。 三代将軍となった義満は十一歳の少年であり、幕政は管領の細川頼之をはじめ、足利一門の守護大名が主導した。 頼之は倹約令など法令の制定、公家や寺社の荘園を保護する半済令を施行、さらに宗教統制を強化するなど幕府体制の安定に努めた。 一方、楠木正儀を幕府に寝返らせ、九州南朝方に対しては今川貞世(了俊)・大内義弘を派遣して懐良親王ら南朝勢力の駆逐をはかったのである。 幕府体制の確立 やがて、成人した義満は天授四年(永和四年=1378)、幕府を三条坊門から北小路室町に移した。 新御所は花の御所と呼ばれ、その所在地から足利幕府は室町幕府と呼ばれるようになったのである。 義満は京都の行政権や課税権などを幕府に一元化するとともに、奉公衆と呼ばれる将軍直属の直臣団を設けて守護大名の軍事力に対抗しうる常備軍を整備した。 将軍権力と幕府体制の強化を目指す義満は、強大化した守護大名の勢力削減を企図し、康応元年(1389)、土岐氏の内紛につけ込んで土岐氏を討伐した。 ついで、明徳二年(1391)には、六分の一殿と呼ばれる大守護一族である山名氏の内紛に介入、山名氏清を挑発して兵を起こさせ討伐、山名氏の勢力を大きく後退させた。 そして、翌明徳三年、南北朝の合一を果たして半世紀にわたった南北朝の内乱に終止符を打ったのである。 その後、応永二年(1395)には、九州南朝方を制圧して一大勢力に成長した九州探題今川了俊を更迭した。 了俊後の九州探題職を望んだのは、明徳の乱に大活躍を示した西国の大名大内義弘であった。 しかし、義満は渋川氏を新探題に任じ、義弘の野望は空振りに終わった。 やがて、義満と義弘の間は円滑を欠くようになり、応永六年、鎌倉公方と通じた義弘は堺で挙兵した。 義弘は幕府軍を相手に奮戦したが、衆寡敵せず、畠山満家に討ち取られた。 応永の乱を平定した義満は、明との間に勘合貿易を始めるなど文字通り幕府全盛時代を現出した。 また、西園寺公経から京都北山の邸を譲り受け、金閣(舎利殿)を中心とする山荘北山第を造営した。 義満時代の文化は、武家様・公家様・唐様(禅宗様)が融合したことから、北山文化と呼ばれることが多い。 権力並ぶ者のない義満は、皇位簒奪の意図を持つようになったといわれる。 晩年の義満は、祭祀権・叙任権(人事権)などの諸権力を天皇家から奪い、応永十五年、次男義嗣の元服を親王並みに宮中において行った。 簒奪説によれば、義満は嫡男義持を将軍職に、二男義嗣を天皇にしようとしたのだという。 義嗣元服の一ヵ月後、義満は急死するが、その死は皇位簒奪を目論む朝廷側による暗殺だという。 果たして義満が皇位簒奪を狙っていたことを裏付ける証拠はないが、晩年の義満はほとんど法王と呼ばれる存在であったようだ。 花の御所跡の碑【左】と金閣寺庫裏【右】 将軍権力の動揺 朝廷は義満の死後、「鹿苑院太上法皇」の称号を贈ろうとしたが、あとを継いだ義持は管領斯波義将らの意見もあって辞退している。 義持は父と折り合いが悪く、また義満が二男の義嗣を溺愛したことなどから、根深い反発をもっていたようだ。 将軍職に就いた義持は義満が行った諸政策を否定、明との勘合貿易も取りやめ、北山第も金閣を残してすべて破却している。 義持の施政はいわゆる守旧路線であり、義満の積極性にはほど遠いものであった。 おそらく、父子は水と油のような相容れない関係であったのだろう。 義持は管領斯波義将の補佐を受けて、公家化した政治を本来の武家政治に復活させようとした。 しかし、その治世は決して安穏なものではなかった。 後南朝を支援する伊勢の北畠満雅の反乱、関東で起こった上杉禅秀の乱が勃発、禅秀の乱では禅秀に加担した弟の義嗣を殺害している。 義持は将軍権力の強化を図るため側近集団を形成しようとしたが、細川氏ら幕府重臣の反発を招き、幕政は将軍義持の意のままにはならなかった。 やがて、応永三十年(1423)、嫡男義量に将軍職を譲って出家したが、ほどなく義量が死去したため後継者を決めないまま応永三十五年に病死した。 義持の死後、将軍職に就いたのは弟で青蓮院門跡の義円であった。 義持には義円のほかに梶井義承・大覚寺義昭・虎山永隆らの弟があり、その中からくじ引きによって義円が選ばれたのであった。 還俗した義教と名乗った義円は、将軍権力の強化と幕政の引き締めを目指した。 また、将軍直轄の奉公衆を設けて、軍政面でも将軍権力の強化を図った。 義教は比叡山を屈服させて仏教勢力の政治介入を駆逐し、反抗的姿勢をみせる鎌倉公方足利持氏を永享の乱で滅ぼし、旧南朝勢力の北畠氏を討伐し後南朝勢力を壊滅させた。 さらに、有力守護大名の家督継承に介入して、かれらの勢力削減につとめた。 そして、意に反する一色義貫、土岐持頼などを粛清した。 かくして、義教は将軍権力の強化と幕政の引き締めを果たしたが、その治世は苛烈な側面を有しており、「万人恐怖シ、言フ莫レ、言フ莫レ」と評されるものであった。 嘉吉元年(1441)、持氏遺臣らが持氏の遺児を擁して起こした結城の乱を平定、義教は得意絶頂を迎えた。 ところが、播磨守護赤松満祐の催した結城合戦勝利の祝宴に招かれ、宴たけなわのところで殺害されたのであった。 満祐は有力守護大名が次々と粛清されるのをみて、いつか自分の番がくるものと思い悩んでおり、祝宴にかこつけて義教を亡き者にしようと企んでいたのであった。 この嘉吉の乱によって、義教が確立した将軍権力と幕府政治は瓦解、以後、室町幕府体制は弱体化の一途をたどることになる。 しかし、カタチはともあれ義教の尽力によって、室町幕府の命脈が長らえたことも見逃せない歴史的な事実であろう。 応仁の乱、勃発 義教の横死で、将軍には嫡男でわずか九歳の義勝が就いたが、在位わずか八ヶ月で病死してしまった。 その結果、弟の義政が将軍職についたが、八歳の幼い将軍であった。 嘉吉の乱による政治混乱と、幼い将軍が続いたことは、朝廷や有力守護大名の幕政介入を招き、将軍権力を大きく動揺させずにはおかなかった。 やがて成人した義政は将軍として幕政にあたるようになり、鎌倉公方足利成氏の起こした争乱(享徳の乱)に介入した。 しかし、三魔と呼ばれた乳母の今参局・烏丸資任・有馬持家ら、将軍家政所執事であった伊勢貞親、さらに正室日野富子の実家日野氏ら側近の政治介入を許し、次第に義政の実権は無実化していった。 そのようななかで、義政は守護大名の家督相続に介入したが、管領細川勝元らによって意のままにはならず、ついには政治への情熱を失っていった。 やがて隠居を考えるようになった義政は、男子がなかったため、弟で僧籍にある義尋を還俗させて後継とした。 義尋は兄も申し出を何度も断ったが、ついに折れて義視と名乗ると幕政に関心を示すようになった。 ところが、寛正六年(1465)、義政の正室富子に男子が生まれたことで、事態はにわかに波乱含みとなった。 富子はわが子を将軍職に就けようとして幕府実力者山名宗全を頼み、一方の義視は管領細川勝元を頼んだため、将軍職継嗣問題は容易ならざる局面をむかえた。 ところが、将軍義政はこの問題に対して無関心を貫き、文化的趣味に耽溺するという体たらくであった。 この将軍継嗣問題に加えて、かねてより家督相続で揺れていた畠山氏と斯波氏の内訌が加わって、応仁元年(1467)応仁の乱が勃発したのである。 戦いは細川勝元を頼む畠山政長が陣する上御霊神社を、山名宗全を後ろ盾とした畠山義就が攻撃したことで始まった。 以後、応仁の乱は京都を舞台に十一年にわたってつづき、日本全国は収拾のつかない戦国時代へと突入していった。 応仁の乱が勃発した上御霊神社の森【左】と勃発の碑【右】 義政のあとを継いで将軍職に就いた義尚は、応仁の乱後、衰退した幕府権力の回復を狙って、積極的な幕政改革を行なった。 長享元年(1487)、公家・神社・奉公衆領を押領して将軍の返還命令も無視する近江守護の六角高頼を討伐するため出陣した。 高頼は幕府の大軍を前に逃亡、義尚は押領されていた所領を回復した。 しかし、高頼のゲリラ戦に悩まされ、近江での長陣を余儀なくされた義尚は次第に酒色におぼれるようになり、ついに長享三年近江鈎(まがり)の陣中で病死してしまった。 享年二十五歳という若さであった。 将軍、受難 男子のなかった義尚のあとは、かつて将軍職の座を義尚と争った叔父義視の子義材が継いだ。 義材は前管領畠山政長の支援を得て、将軍親政の復活を意図した。 延徳三年(1491)、近江六角氏征伐の陣を起こして一定の成果をあげたが、管領細川政元は義材の政策に批判的であった。 明応二年(1493)、畠山政長の要請を入れて河内の畠山義豊討伐の陣を起こした。 ところが、その留守を突いて細川政元がクーデタを起こした。 この政変に敗れた義材は京に幽閉され、政長は戦死を遂げ、新将軍には義材の従兄弟義澄が擁立された。 その後、京を脱出した義材は越中国に奔り、京都への復帰を狙って政長の子尚順と兵を挙げたが敗北、周防の大内義興を頼って没落した。 かくして、幕府政治は政元が牛耳るところとなり、将軍義澄は将軍とは名ばかりの傀儡に過ぎない存在であった。 政元は「四十歳ノ比マデ女人禁制ニテ、魔法飯綱ノ法アタコノ法ヲ行ヒ、」というような人物で、生涯女性を傍に寄せなかったため実子がなかった。 そのため澄之、澄元、高国と三人の養子を迎えた。 その結果、細川氏家臣団は澄之派と澄元派に分裂して対立するようになった。 その煽りを食うカタチで、永正四年(1507)、政元は澄之派の香西元長らによって殺害されてしまった。 政元の死を知った義尹(義材改め)は、将軍復帰を狙い、翌年、大内義興に擁立されて上洛した。 これに細川高国も加担したため、敗れた細川澄元は将軍義澄を奉じて近江に奔った。 こうして、将軍職に復活した義尹(のち義稙)は、細川高国を管領に、大内義興を管領代に任じて幕政を掌握した。 しかし、細川高国の専横が目立ち始めると、義稙は和泉から淡路に奔って高国と対立した。 そして、ついに京への復帰はならず、阿波国撫養において病没した。 義稙のあと、将軍職は義澄の子足利義晴が高国に擁立されたが、すでに将軍としての実権もなく、享禄元年(1528)、高国が澄元の子晴元に敗れると朽木氏を頼って近江に落ち延びた。 このころになると、日本各地には戦国大名が輩出して、それぞれ武力をもって支配地を拡大、独自の領域支配を行うようになった。 そのようななかで、義晴は各地を流浪し、その権威はまったく地に墜ちてしまった。 打ち続く乱世 政元の死後、泥沼の抗争を続けた管領細川一族であったが、ついには家宰の三好氏に取って代わられ、三好長慶が畿内の実力者として台頭した。 繰り返される下剋上は、確実に将軍の権威を有名無実化し、幕府体制は崩壊寸前であった。 義晴のあとを継いだ義輝は、将軍権力の回復を目論んで、三好長慶との抗争を続けた。 一時期、近江守護六角氏の支援を得て京を回復して優勢を保ったが、強大な三好氏の軍事力に敗れて京から出奔した。 その後、義輝と長慶に間に和議が成立して京に復帰、幕府権力の復活に尽力した。 永禄七年(1584)、三好長慶が病死すると、義輝はさらに精力的に政治活動を展開した。 しかし、このような義輝の存在は長慶死後の三好氏を牛耳る松永久秀と三好三人衆にとっては邪魔でしかなかった。 翌永禄八年五月、久秀と三好三人衆は三好義継とともに挙兵。 義輝の居城である二条御所を襲撃した。 義輝は上泉信綱直伝の剣豪将軍であり、みずから刀を振るって奮戦したものの、衆寡適せず乱戦のなかで討ち取られてしまった。 義輝を討ち取った松永久秀らは足利義栄を将軍に擁立、永禄十一年(1568)二月、将軍宣下を受けた義栄は京へと向かった。 一方、義輝の弟覚慶は興福寺一乗院を脱出し義昭と名乗って、近江の六角氏、若狭の武田氏、越前の朝倉義景のもとを転々としながら、将軍家再興を目指した。 しかし、いずれも思うにまかせず、ついに織田信長の許に身を寄せた。 かくして、義昭は織田信長の援助を得て永禄十一年九月に上洛した。 これに対して義栄と三好一党は摂津に陣を布いてこれを迎え撃ったが、義栄はその陣中であっけなく病死してしまった。 こうして、義昭が晴れて室町幕府の第十五代将軍となった。 しかし、将軍権力を行使しようとする義昭と「天下布武」という野望を秘めた信長の間は円満を欠くようになった。 やがて、義昭は信長を排除しようと企み、本願寺顕如や武田信玄、上杉謙信、毛利元就、浅井長政、朝倉義景などに信長討伐令を下し、信長包囲網を形成した。 この義昭の策により信長は窮地に陥ったが、天正元年(1573)上洛途上の信玄が急逝したことで、事態は信長の優勢へと変化していった。 信玄の上洛に呼応した義昭は信長打倒の兵を挙げたが、信玄の死によってあっけなく敗れ、京都を追われ室町幕府は滅んだ。 ……… 写真:義輝が奮戦の末に討死した旧二条城跡の碑 足利氏の没落 信長によって京都を追放された義昭は、毛利氏領内の備後鞆に亡命し、そこから信長打倒を目指して諸大名に討伐令を下し続けた。 天正十年(1582)本能寺の変で信長が横死、その後、豊臣秀吉天下人になると、義昭は出家して秀吉の側近として仕え一万石を与えられたという。 「公卿補任」によれば、天正十六年(1588)一月まで義昭は征夷大将軍の地位にあったことが知られるが、すでに天下人とは程遠い存在であった。 秀吉が起した文禄・慶長の役に際しては、肥前名護屋まで参陣したことが知られる。 義昭は大坂で没したといい、その死をもって足利氏嫡流の歴史的使命は終えたといえよう。 義昭には数人の男子があったようで、義尋は信長の人質となったあと出家して興福寺大乗院門跡を継ぎ、義在は薩摩の島津氏を頼り永山姓を名乗ったという。 また、義喬は会津藩を頼って坂本姓を名乗ったと伝えられている。 尊氏の子基氏に始まり持氏の代に一旦滅亡、持氏の遺子成氏が再興した。 その後、享徳の乱を起こした成氏は、鎌倉から古河に居を移し古河公方と呼ばれた。 以後、関東の戦乱に翻弄されながらも戦国時代を息抜いたが、天正十一年(1583)義氏の代に嗣なくして断絶した。 天正十八年、古河公方家の断絶を惜しんだ豊臣秀吉が、義氏の娘と一族の国朝とを結婚させて、義氏の後を継がせた。 国朝は下野塩谷郡喜連川に住み、秀吉の朝鮮出兵に応じて出陣、その途次の広島において急死した。 そのあとを継承した弟の頼氏は、足利を改めて喜連川氏を称した。 子孫は江戸幕府から五千石を与えられ、喜連川公方の尊称を受け十万石の格式で遇せられて明治維新に至った。 維新後、喜連川姓を廃して足利姓に復している。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。 地域ごとの戦国大名家の家紋・系図・家臣団・合戦などを徹底追求。 日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、 小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。 その足跡を各地の戦国史から探る… ・ ・ ・ ・ 安逸を貪った公家に代わって武家政権を樹立した源頼朝、 鎌倉時代は東国武士の名字・家紋が 全国に広まった時代でもあった。 2010年の大河ドラマは「龍馬伝」である。 龍馬をはじめとした幕末の志士たちの家紋と逸話を探る…。 これでドラマをもっと楽しめる…ゼヨ! 人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。 なんとも気になる名字と家紋の関係を モット詳しく 探ってみませんか。 どこの家にもある家紋。 家紋にはいったい、 どのような意味が隠されているのでしょうか。 わが家はどのような歴史があって、 いまのような家紋を使うようになったのだろうか?。 意外な秘密がありそうで、とても気になります。 日本には八百万の神々がましまし、数多の神社がある。 それぞれの神社には神紋があり、神を祭祀してきた神職家がある。

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