ホウズキ ノ レイ テツ。 アレチノギク・オオアレチノギク・ヒメムカシヨモギ

似た花の比較(野草の比較)

ホウズキ ノ レイ テツ

生涯 [ ] 誕生・デビュー前 [ ] 、の荒木牧場で誕生。 父・マロットは16戦無敗の名馬・の仔という血統を買われて、に輸入された。 しかし20戦7勝とはいえ大レース勝ちもない平凡な成績で、日本ではこの時点ではを勝ったヨコヅナが目立つ程度であった。 後にがの有馬記念を制することになるが、総じて一発屋のような産駒が多かった。 母・キヨツバメは上に3頭の産駒がいたが1勝したのみで、のは生まれの産馬で馬・、馬の・アイテイオーなどを輩出している。 母の母・シェーンの父が戦前の・の産駒でを勝ったトキノチカラとよく知られた名前だが、概ね平凡な血統馬といって差し支えない。 幼駒時代は丈夫で利口で活発な性質であったが右前脚が外向しており、父母共に実績がなかったことから、他馬との抱き合わせでも引き取り手がなく 、6人のに購入を断られていた。 競走年齢に達した3歳のになっても馬主が決まらず、「キヨハヤブサ」という幼名のまま・浅野武志厩舎に入厩。 7人目の石嶋清仁が浅野の妻の熱心な勧めに応じて引き受け、400万円という安値で購買。 これにより馬名は「キヨハヤブサ」から、「イシノ」にから「ヒカル」を借用した「イシノヒカル」と改名された。 競走馬時代 [ ] 1971年のの新馬戦でデビューし、翌年のオークス馬・の5着に敗れる。 その後の折り返しの新馬戦と未勝利戦は2着で、4戦目となるの東京の未勝利戦でを鞍上に初勝利を挙げた。 の中山の寒菊賞(100万下)を快勝したが、この時期から関東の厩舎を中心にが猛威を奮い、関東の競馬は2ヶ月間の開催停止を余儀なくされた。 これにより本来なら上旬に行われるが末に、5月末に行われる日本ダービーが延期となった。 これにより関東所属馬の多くが影響を受けたが、右前脚外向による脚部不安を抱えるイシノヒカルには格好の休養期間となった。 に開催が再開されると、緒戦の中山のオープンを勝利。 続くヴァイオレットS(400万下)ではを背に、後方から鋭い追い込みを見せて4連勝を果たした。 この年の戦線は・・の「 関西三強」が中心と目されていたが、この3頭に対し、イシノヒカルは関東所属馬の代表と捉えられた。 次走の東京オープンで初対戦のロングエースの4着に敗れ、クラシック初戦の皐月賞に臨んだ。 鞍上は加賀に戻り、当日は「三強」に次ぐ4番人気となった。 レースはロングエースが騎手との折り合いを欠いて暴走気味に先頭に立ち、同馬をマークしたタイテエムが2番手、両馬を見る先行集団の中にランドプリンスがおり、イシノヒカルは最後方を進んだ。 直線入り口でロングエースが失速すると、代わってタイテエムが先頭に立ったが、直線半ばでランドプリンスがこれを交わした。 さらに後方大外からイシノヒカルが猛追してランドプリンスを追い詰めたが、半馬身届かず2着と敗れた。 この好走に自信を得た陣営であるが、次走のダービーでは23番枠を引いてしまう。 前走と同じく後方に位置取り直線で追い込みを見せたが、27頭立てという多頭数で馬群を捌くのに手間取り、ロングエースのレコード優勝の後方で6着に終わる。 続く3週間後のでは1番人気に支持されたが、それまで逃げ先行脚質であったの鬼脚の追い込みに屈し2着となり、春のシーズンを終えた。 秋は菊花賞を目指したイシノヒカルだが、順調さを欠いてなかなか西下できなかった。 本番9日前のののオープンでようやく復帰。 急仕上げで馬体も細く、陣営は不安の中で送り出したが、以前2戦に騎乗した小島武久を鞍上に、不良馬場を豪快に追い込んで7ヶ月半振りの勝利を収めた。 これが追い切り代わりになって状態が一変し、陣営は強気で菊花賞に挑むことになったが、主戦の加賀がに遠征していたため、鞍上には増沢末夫を迎えた。 騎乗依頼は直前に行われており、前週までで騎乗していた増沢は、後に「正直、いやいや京都へ出向いた」と明かしている。 当日は無冠のタイテエムが1番人気に支持され、イシノヒカルは連闘を嫌われて5番人気という評価であった。 イシノヒカルは本馬場入場直後に大きく暴れたり、発走直前に落鉄により打ち直しというアクシデントもあり、レースの発走開始が数分遅れた。 関係者は心配したが、何事もなかったかのように好スタートを切り、三強を見るように後方2番手に位置した。 2コーナーでランドプリンスが早仕掛けで先頭を伺う展開で、ロングエース、タイテエムが続いた。 「三強」の争いの中、イシノヒカルは直線入り口で最後方の位置から一気の追い込みを始めると、直線の半ばでタイテエムが先頭に出る。 タイテエムが少し油断したところを外から交わし、矢のような末脚にタイテエムは為す術もなく1馬身半差の2着に沈んだ。 イシノヒカルは連闘で菊花賞を制し、春の雪辱を晴らすと同時に関東馬の意地を示した。 イシノヒカルは破天荒な菊花賞の勝利の印象が強く、有馬記念出走馬を決めるファン投票では第1位に選出され、「三強」と立場が逆転。 過去の有馬記念においては、4歳馬は人気薄の牝馬・スターロツチが勝っていたとはいえ、牡馬は菊花賞馬・の2着が最高で、古馬の壁を突破できないでいた。 この年も・・と3頭の馬が出走していたが、しかしイシノヒカルはこれらを抑えて迎えて1番人気に支持された。 ファンは東京に戻ってからも好調を持続し、菊花賞の末脚を発揮すれば、古馬を撃破できると見ていた。 その見立ては当たっていた。 レースではと同様の大逃げから始まり、天皇賞馬3頭は好位から抜け出しを狙った。 しかしイシノヒカルは中団待機から第3コーナーでスパートを掛け、大外から末脚を伸ばして、勝てば史上初の2億円獲得馬になるはずであったメジロアサマに1馬身半差をつけて、寄4歳牡馬が初めて有馬記念を制した。 またファン投票1位で1番人気の馬が優勝するのは以来であった。 秋の活躍が評価され、同年の及びに選出された。 しかし短期間に激戦をこなしたイシノヒカルは疲労困憊状態にあった。 5歳になったは年初からに、そして左前脚の挫石が発症し、を目指して西下ものの、レースに使える状態ではなかった。 増沢はこの原因を「外向した脚に負担が掛かり続けたため」と分析している。 10ヶ月の長期休養を余儀なくされ、5月にので治療、にでリハビリを行い、11月3日の東京のオープンにようやく姿を表す。 しかし後にを勝つのスピードについて行けず、7頭立ての殿負けに終わる。 このレースが最後となり、7歳になった2月に登録を抹消。 引退後 [ ] 引退後は中央競馬会により2000万円で購入され、の所有馬として、1975年春から種馬所で種牡馬生活を開始した。 しかし交配相手のに恵まれず、の勝ち馬はミラクルハイデンの他、1勝馬が3頭だけと活躍する産駒が出なかった。 にはの中野一成牧場へ無料で払い下げられ、そこで種牡馬としての再起を図っていたが、春にを発症し、牧場内で転んでは立ち上がる状態を繰り返すといった危篤状態になる。 移転先での産駒を残すことなく、同年にの措置が執られた。 享年18歳。 評価 [ ] 1972年世代は「花の47年組」と呼ばれ、中でも本馬と関西三強は、それぞれの陣営が「別の年に生まれていればになれるだけの可能性を持っていた」と口を揃えて語るなど 、個々のレベルが非常に高かった。 増沢は中でも本馬を非常に高く評価し、後に自著の中で「最強馬との出会い」と題した一章を割いて本馬を取り上げ、「私は1万頭を越える馬に乗ってきた。 その中で一番強い馬を挙げるとしたら、私は迷わずこの時(菊花賞)のイシノヒカルと答える」「脚さえ何ともなかったら、もっともっと活躍できたに違いない。 それを思うと残念でならない」等と語っている。 25 新馬 7 4 5着 芝1000(良) 1:00. 7 1. 5秒 小島武久 49 10. 10 中山 新馬 9 5 2着 芝1000m(不) 1:02. 1 0. 4秒 49 ジャスト 10. 23 未出走未勝利 11 5 2着 芝1200m(良) 1:12. 8 0. 0秒 52 ブルハヤブサ 11. 21 東京 未出走未勝利 15 1 1着 芝1200m(良) 1:11. 8 7身 加賀武見 53 (サクラオー) 12. 11 中山 寒菊賞 19 1 1着 芝1600m(良) 1:37. 6 4身 加賀武見 53 (ファインダイヤ) 1972 3. 5 中山 オープン 8 4 1着 芝1600m(良) 1:36. 1 4身 小島武久 51 (インターブレイン) 3. 18 中山 ヴァイオレットS 13 1 1着 芝1800m(良) 1:51. 1 アタマ 55 (パワーライフ) 4. 29 東京 オープン 7 3 4着 芝1600m(良) 1:37. 3 0. 9秒 加賀武見 55 5. 28 中山 15 4 2着 芝2000m(良) 2:03. 6 0. 1秒 加賀武見 57 7. 9 東京 27 4 6着 芝2400m(良) 2:29. 3 0. 7秒 加賀武見 57 ロングエース 7. 30 東京 13 1 2着 芝1800m(良) 1:48. 5 0. 1秒 加賀武見 56 11. 3 オープン 6 1 1着 芝2000m(不) 2:08. 12 京都 19 5 1着 芝3000m(重) 3:11. 17 中山 14 1 1着 芝2500m(良) 2:38. 3 東京 オープン 7 4 7着 芝1800m(良) 1:51. 4 3. 『書斎の競馬』p. 237• 『書斎の競馬』pp. 237-239• 『日本の名馬・名勝負物語』p. 366• 増沢 p. 日本中央競馬会「優駿」1987年12月号より。 増沢 p. 101• 『日本の名馬・名勝負物語』p. 374• 増沢 pp. 99-101 参考文献 [ ]• 狩野洋一「三強とイシノヒカル」(『日本の名馬・名勝負物語』〈中央競馬ピーアール・センター、1980年〉所収)• 増沢末夫『鉄人ジョッキーと呼ばれて - 我が愛しの馬上人生』(学研、1992年)• 「イシノヒカル、おまえは走った! 」(『書斎の競馬』第6号〈飛鳥新社、1999年〉所収)• ほか『サラブレッド101頭の死に方(文庫版)』(徳間文庫、1999年) 外部リンク [ ]• 競走馬成績と情報 、.

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高尾山の花名一覧

ホウズキ ノ レイ テツ

3885 みなさん、こんばんは。 ちょっと山裾を歩けば、色々な果実に出会う楽しい季節ですネ。 これは、ハダカホウズキでいいのでしょーか? 2008. Mie Pref. 3886 葉は、こんな感じでした。 3887 こんばんは。 ハダカホオズキでいいと思います。 葉も撮ってあったのですが、どこかへ紛れてしまいました。 ナス科ハダカホオズキ 2006. 3888 もぐらもちさん、こんばんは。 ハダカホウズキとのお墨付きをいただき、ありがとーございます。 花、若い果実、とても参考になります。 3889 ちょっと暗かったので手ぶれしてしまいました。 出直します。 ヒヨドリジョウゴで、いいですか? 2008. Mie Pref. 3891 これは、昨年の撮影ですが、マルバノホロシを考えました。 2007. Mie Pref. 3893 ヒヨドリジョウゴ、ヤマホロシ、マルバノホロシのどれかだろうと思いますが、これらの実はそっくりなので実だけでは判断しにくいです。 ヒヨドリジョウゴは全体に毛があり、ヤマホロシ・マルバノホロシにはありません ヤマホロシの若い葉には少しあるらしい。 3889の画像では茎に毛があるのかないのか分からないのでその点をはっきりさせるといいと思います。 3891の方は全体に毛が見られないのでヒヨドリジョウゴではないでしょう。 葉が全縁で基部に翼があればマルバノホロシ、翼がなくすっきりした葉柄であればヤマホロシということになりそうです。 3896 もぐらもちさん、おはよーございます。 3889は、暗くて巧く撮影できなかったのですが、ヒヨドリジョウゴにしては、茎の毛が目立たないな~と感じてました。 あんまりいい画像がありませんので、再度、確認してきます。 ヤマホロシの可能性もありますネ。 3891は、完全なツル植物で、無毛だったので、マルバノホロシと確信しましたが、自信がありません。 現地は近いので、再確認したいと思います。 色々と貴重なご意見、ありがとーございます。 タイヘン勉強になり嬉しいです。 印象が強くなって覚えやすいです。 3898 おはようございます。 ご存じのことをくどくど書いて失礼しました。 私自身不分明なことをはっきりさせるいい機会にさせていただいています。 昨日はドングリ拾いをしてきました。 今日も何か拾ってきます。 3899 もぐらもちさん、おはよーございます。 人様にお教えするには、自分も勉強しなければならないので、非常に知識が増えます。 どーぞ、遠慮なさらず、どんどん書き込んでいただき、お互いのレベルアップの手段にしたいものです。 みなさまも、よろしくお願いいたします。 ドングリ、ありがとーございます。 これは、クヌギの果実ですネ。 アベマキではなさそー?? 3915 もぐらもちさん、こんにちは。 お教えいただいたので、早速、3889の個体を確認に行ってきました。 どんどんツルを伸ばす頃のヒヨドリジョウゴの茎は、柔らかくて長い毛が密生してるのですが、 今の時期の茎は、とても毛が少ないことに気づいてきました。 まだ青い果実ですが、茎の毛は見られるけど、成長期の頃の毛ではなかったです。 3916 葉の形態は、ヒヨドリジョウゴですネ? 次の機会に、マルバノホロシを見てきます。 3917 こんばんは。 私も心当たりの所へ見にいってきました。 回った3ヶ所ともヒヨドリジョウゴでした。 3918 もぐらもちさん、こんばんは。 ヒヨドリジョウゴ、ありがとーございます。 茎の毛、よく見えますネ。 しかし、最盛期の頃に比すると、かなり毛が短くなってます。 ヒヨドリジョウゴの果実は美味しくないので、ヒヨドリが好んで食べるかギモンです。 ヒヨドリが喜んで食べると推定してつけられた和名なのかも知れませんです?.

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ハダカホウズキ、ヒヨドリジョウゴ、マルバノホロシ : 三重野生生物談話会BBSブログ(植物編)

ホウズキ ノ レイ テツ

生涯 [ ] 誕生・デビュー前 [ ] 、の荒木牧場で誕生。 父・マロットは16戦無敗の名馬・の仔という血統を買われて、に輸入された。 しかし20戦7勝とはいえ大レース勝ちもない平凡な成績で、日本ではこの時点ではを勝ったヨコヅナが目立つ程度であった。 後にがの有馬記念を制することになるが、総じて一発屋のような産駒が多かった。 母・キヨツバメは上に3頭の産駒がいたが1勝したのみで、のは生まれの産馬で馬・、馬の・アイテイオーなどを輩出している。 母の母・シェーンの父が戦前の・の産駒でを勝ったトキノチカラとよく知られた名前だが、概ね平凡な血統馬といって差し支えない。 幼駒時代は丈夫で利口で活発な性質であったが右前脚が外向しており、父母共に実績がなかったことから、他馬との抱き合わせでも引き取り手がなく 、6人のに購入を断られていた。 競走年齢に達した3歳のになっても馬主が決まらず、「キヨハヤブサ」という幼名のまま・浅野武志厩舎に入厩。 7人目の石嶋清仁が浅野の妻の熱心な勧めに応じて引き受け、400万円という安値で購買。 これにより馬名は「キヨハヤブサ」から、「イシノ」にから「ヒカル」を借用した「イシノヒカル」と改名された。 競走馬時代 [ ] 1971年のの新馬戦でデビューし、翌年のオークス馬・の5着に敗れる。 その後の折り返しの新馬戦と未勝利戦は2着で、4戦目となるの東京の未勝利戦でを鞍上に初勝利を挙げた。 の中山の寒菊賞(100万下)を快勝したが、この時期から関東の厩舎を中心にが猛威を奮い、関東の競馬は2ヶ月間の開催停止を余儀なくされた。 これにより本来なら上旬に行われるが末に、5月末に行われる日本ダービーが延期となった。 これにより関東所属馬の多くが影響を受けたが、右前脚外向による脚部不安を抱えるイシノヒカルには格好の休養期間となった。 に開催が再開されると、緒戦の中山のオープンを勝利。 続くヴァイオレットS(400万下)ではを背に、後方から鋭い追い込みを見せて4連勝を果たした。 この年の戦線は・・の「 関西三強」が中心と目されていたが、この3頭に対し、イシノヒカルは関東所属馬の代表と捉えられた。 次走の東京オープンで初対戦のロングエースの4着に敗れ、クラシック初戦の皐月賞に臨んだ。 鞍上は加賀に戻り、当日は「三強」に次ぐ4番人気となった。 レースはロングエースが騎手との折り合いを欠いて暴走気味に先頭に立ち、同馬をマークしたタイテエムが2番手、両馬を見る先行集団の中にランドプリンスがおり、イシノヒカルは最後方を進んだ。 直線入り口でロングエースが失速すると、代わってタイテエムが先頭に立ったが、直線半ばでランドプリンスがこれを交わした。 さらに後方大外からイシノヒカルが猛追してランドプリンスを追い詰めたが、半馬身届かず2着と敗れた。 この好走に自信を得た陣営であるが、次走のダービーでは23番枠を引いてしまう。 前走と同じく後方に位置取り直線で追い込みを見せたが、27頭立てという多頭数で馬群を捌くのに手間取り、ロングエースのレコード優勝の後方で6着に終わる。 続く3週間後のでは1番人気に支持されたが、それまで逃げ先行脚質であったの鬼脚の追い込みに屈し2着となり、春のシーズンを終えた。 秋は菊花賞を目指したイシノヒカルだが、順調さを欠いてなかなか西下できなかった。 本番9日前のののオープンでようやく復帰。 急仕上げで馬体も細く、陣営は不安の中で送り出したが、以前2戦に騎乗した小島武久を鞍上に、不良馬場を豪快に追い込んで7ヶ月半振りの勝利を収めた。 これが追い切り代わりになって状態が一変し、陣営は強気で菊花賞に挑むことになったが、主戦の加賀がに遠征していたため、鞍上には増沢末夫を迎えた。 騎乗依頼は直前に行われており、前週までで騎乗していた増沢は、後に「正直、いやいや京都へ出向いた」と明かしている。 当日は無冠のタイテエムが1番人気に支持され、イシノヒカルは連闘を嫌われて5番人気という評価であった。 イシノヒカルは本馬場入場直後に大きく暴れたり、発走直前に落鉄により打ち直しというアクシデントもあり、レースの発走開始が数分遅れた。 関係者は心配したが、何事もなかったかのように好スタートを切り、三強を見るように後方2番手に位置した。 2コーナーでランドプリンスが早仕掛けで先頭を伺う展開で、ロングエース、タイテエムが続いた。 「三強」の争いの中、イシノヒカルは直線入り口で最後方の位置から一気の追い込みを始めると、直線の半ばでタイテエムが先頭に出る。 タイテエムが少し油断したところを外から交わし、矢のような末脚にタイテエムは為す術もなく1馬身半差の2着に沈んだ。 イシノヒカルは連闘で菊花賞を制し、春の雪辱を晴らすと同時に関東馬の意地を示した。 イシノヒカルは破天荒な菊花賞の勝利の印象が強く、有馬記念出走馬を決めるファン投票では第1位に選出され、「三強」と立場が逆転。 過去の有馬記念においては、4歳馬は人気薄の牝馬・スターロツチが勝っていたとはいえ、牡馬は菊花賞馬・の2着が最高で、古馬の壁を突破できないでいた。 この年も・・と3頭の馬が出走していたが、しかしイシノヒカルはこれらを抑えて迎えて1番人気に支持された。 ファンは東京に戻ってからも好調を持続し、菊花賞の末脚を発揮すれば、古馬を撃破できると見ていた。 その見立ては当たっていた。 レースではと同様の大逃げから始まり、天皇賞馬3頭は好位から抜け出しを狙った。 しかしイシノヒカルは中団待機から第3コーナーでスパートを掛け、大外から末脚を伸ばして、勝てば史上初の2億円獲得馬になるはずであったメジロアサマに1馬身半差をつけて、寄4歳牡馬が初めて有馬記念を制した。 またファン投票1位で1番人気の馬が優勝するのは以来であった。 秋の活躍が評価され、同年の及びに選出された。 しかし短期間に激戦をこなしたイシノヒカルは疲労困憊状態にあった。 5歳になったは年初からに、そして左前脚の挫石が発症し、を目指して西下ものの、レースに使える状態ではなかった。 増沢はこの原因を「外向した脚に負担が掛かり続けたため」と分析している。 10ヶ月の長期休養を余儀なくされ、5月にので治療、にでリハビリを行い、11月3日の東京のオープンにようやく姿を表す。 しかし後にを勝つのスピードについて行けず、7頭立ての殿負けに終わる。 このレースが最後となり、7歳になった2月に登録を抹消。 引退後 [ ] 引退後は中央競馬会により2000万円で購入され、の所有馬として、1975年春から種馬所で種牡馬生活を開始した。 しかし交配相手のに恵まれず、の勝ち馬はミラクルハイデンの他、1勝馬が3頭だけと活躍する産駒が出なかった。 にはの中野一成牧場へ無料で払い下げられ、そこで種牡馬としての再起を図っていたが、春にを発症し、牧場内で転んでは立ち上がる状態を繰り返すといった危篤状態になる。 移転先での産駒を残すことなく、同年にの措置が執られた。 享年18歳。 評価 [ ] 1972年世代は「花の47年組」と呼ばれ、中でも本馬と関西三強は、それぞれの陣営が「別の年に生まれていればになれるだけの可能性を持っていた」と口を揃えて語るなど 、個々のレベルが非常に高かった。 増沢は中でも本馬を非常に高く評価し、後に自著の中で「最強馬との出会い」と題した一章を割いて本馬を取り上げ、「私は1万頭を越える馬に乗ってきた。 その中で一番強い馬を挙げるとしたら、私は迷わずこの時(菊花賞)のイシノヒカルと答える」「脚さえ何ともなかったら、もっともっと活躍できたに違いない。 それを思うと残念でならない」等と語っている。 25 新馬 7 4 5着 芝1000(良) 1:00. 7 1. 5秒 小島武久 49 10. 10 中山 新馬 9 5 2着 芝1000m(不) 1:02. 1 0. 4秒 49 ジャスト 10. 23 未出走未勝利 11 5 2着 芝1200m(良) 1:12. 8 0. 0秒 52 ブルハヤブサ 11. 21 東京 未出走未勝利 15 1 1着 芝1200m(良) 1:11. 8 7身 加賀武見 53 (サクラオー) 12. 11 中山 寒菊賞 19 1 1着 芝1600m(良) 1:37. 6 4身 加賀武見 53 (ファインダイヤ) 1972 3. 5 中山 オープン 8 4 1着 芝1600m(良) 1:36. 1 4身 小島武久 51 (インターブレイン) 3. 18 中山 ヴァイオレットS 13 1 1着 芝1800m(良) 1:51. 1 アタマ 55 (パワーライフ) 4. 29 東京 オープン 7 3 4着 芝1600m(良) 1:37. 3 0. 9秒 加賀武見 55 5. 28 中山 15 4 2着 芝2000m(良) 2:03. 6 0. 1秒 加賀武見 57 7. 9 東京 27 4 6着 芝2400m(良) 2:29. 3 0. 7秒 加賀武見 57 ロングエース 7. 30 東京 13 1 2着 芝1800m(良) 1:48. 5 0. 1秒 加賀武見 56 11. 3 オープン 6 1 1着 芝2000m(不) 2:08. 12 京都 19 5 1着 芝3000m(重) 3:11. 17 中山 14 1 1着 芝2500m(良) 2:38. 3 東京 オープン 7 4 7着 芝1800m(良) 1:51. 4 3. 『書斎の競馬』p. 237• 『書斎の競馬』pp. 237-239• 『日本の名馬・名勝負物語』p. 366• 増沢 p. 日本中央競馬会「優駿」1987年12月号より。 増沢 p. 101• 『日本の名馬・名勝負物語』p. 374• 増沢 pp. 99-101 参考文献 [ ]• 狩野洋一「三強とイシノヒカル」(『日本の名馬・名勝負物語』〈中央競馬ピーアール・センター、1980年〉所収)• 増沢末夫『鉄人ジョッキーと呼ばれて - 我が愛しの馬上人生』(学研、1992年)• 「イシノヒカル、おまえは走った! 」(『書斎の競馬』第6号〈飛鳥新社、1999年〉所収)• ほか『サラブレッド101頭の死に方(文庫版)』(徳間文庫、1999年) 外部リンク [ ]• 競走馬成績と情報 、.

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