シャルル アンリ サンソン 死因。 ギロチン

【年表付】天草四郎とはどんな人?功績や伝説、死因、生涯まとめ

シャルル アンリ サンソン 死因

歴史上の人物および神話伝承文学等歴史上形作られた創作に由来するサーヴァントのみで、オリジナルサーヴァントは除きます。 ヨーロッパ、世界史、日本史でそれぞれ実在人物、神話伝承物語等架空の人物とに分けています。 実在人物は生年準拠で、生年不明で没年がわかっている場合は没年準拠、生没年不明な場合は活動時期(君主であれば在位期間)に基づいています。 実装済サーヴァントのみの表でイラストだけ公開されているサーヴァントは含んでいませんが今後追記するかもしれません。 また、架空の人物については作中の舞台が明らかなものについてはその作中の時代に準拠し、そうでないものは成立の時代に配しています。 (例、12世紀~16世紀にかけて成立した6世紀のブリテン島が舞台の円卓・聖杯伝説関連人物は6世紀ヨーロッパに、9~14世紀にかけて成立した作中の時代背景が未確定な北欧伝説は9世紀ヨーロッパに置きました。 その他詳細は脚注で別途まとめています。 たとえばイヴァン雷帝と織田信長、シェイクスピアと茶々はほぼ同世代だったり、ジャンヌ・ダルクが亡くなった年にヴラド三世が生まれていたり(ジャンヌは5月に亡くなりヴラドが11月に生まれています)、サリエリやモーツァルトが音楽を奏でマリー・アントワネットを楽しませているころ、日本では葛飾北斎が狂ったように浮世絵を描き続けていました。 あるいはナイチンゲールがクリミア戦争に従軍して医療の重要性に気付き改革に乗り出していたころ、日本では維新の幕があがり、新選組や志士たちが駆け回っていました。 なお、ギルガメッシュという王は実在していた可能性が高いですが、ここでは『ギルガメッシュ叙事詩』という伝承のまとまりとして架空の枠に置いています。 各国版wikipediaを比較すると前1279~前1213年が多数派で山川世界史小辞典も同様なのでこれに従いましたが、笈川博一著『』は前1279年説を「これを取る人は少ない」と退けています。 大体紀元前十三世紀頃ということで。 ダビデ、ソロモンの非実在説はすでに研究者の間では大勢を占めつつあるそうなので(参考、長谷川 修一,小澤 実 編著『』第一章)ほどなくして教科書からも消えるのではないかと思われます。 佐々木小次郎については大倉隆二著『』など読むと、佐々木小次郎誕生のプロセスが見えてきて面白いです。 また、現状、実在が疑問視されている古代エジプト第六王朝の女王ニトリクス、元になった女性はいたがほぼ後世の創作として伝説が形作られたセミラミスも架空の枠としています。 ただし三国志演義はもっと遡り呂布が董卓の配下となる前に丁原から離反させるために董卓から送られたという。 呂布死後関羽の愛馬となり、220年、関羽死後、食を断って餓死したと言われる。 ということで30年以上の活動期間があります。 参考「」「」。 また、宇治拾遺物語などで見られる雀が登場する話は舌切り雀ものの定型に当てはまらないので、ルーツではないようです。 短命・長命ランキング 生没年が確定している実在人物限定で短命・長命ランキングを参考までにまとめ。 順位 短命ランキング 長命ランキング 1位 アナスタシア (1901年6月~1918年7月、17歳1か月) ナイチンゲール (1820年5月~1910年8月、90歳3か月) 2位 ジャンヌ・ダルク (1412年1月~1431年5月、19歳4か月) 葛飾北斎 (1760年10月~1849年5月、88歳7か月) 3位 ビリー・ザ・キッド (1859年11月~1881年7月、21歳8か月) ニコラ・テスラ (1856年7月~1943年1月、86歳6か月) 短命ランキングはロシア革命で銃殺、異端審問で処刑、襲撃に遭い射殺と若くして非業の死を遂げた三人でした。 アビゲイル・ウィリアムズを当初入れていましたが、いくつかご指摘いただいた通り没年は未確定なので外しています。 北斎は娘の葛飾応為も生没年不詳ながら70歳ぐらいまでは生きていただろうと考えられています。 ちなみに生没年未確定なので選外になりましたが、オジマンディアス(ラムセス2世)は90歳以上生きたとのことなので実在人物としてはぶっちぎり一位です。 また子供の数も、百人以上(英語版wikipediaにはわざわざラムセス2世の子供の一覧などがあったりしますね「」(英語))のオジマンディアスが全実在サーヴァントでぶっちぎり一位です。 空白の三世紀の主なサーヴァント候補 まとめてみると時代や地域結構偏りがあることがわかります。 紀元後以降で空白の百年となっている時代は三世紀(西暦201~300年)、十三世紀(西暦1201~1300年)、十四世紀(1301~1400年)。 サーヴァント候補としては以下のような人たちでしょうか。 三世紀 三世紀生まれの主な人物としてはカラカラ浴場を建設したローマ皇帝カラカラ帝、エデッサの戦いでローマ帝国を破ったサーサーン朝シャープール1世、シャープール1世に重用されたマニ教の開祖マニ、中国は三国志時代なので多士済々ですが三世紀生まれだと第二・第三世代で姜維や司馬炎、正史三国志の作者陳寿など。 日本は丁度その陳寿によって邪馬台国が魏志倭人伝に登場する頃です。 十三世紀 十三世紀はまずヨーロッパは騎士道全盛期。 一方大陸ではモンゴル帝国が一挙に拡大して、バトゥ(1207年生)、モンケ(1209年生)、クビライ(1215年生)らモンゴル帝国の拡大を推進したビッグネームが続々登場、十字軍・モンゴル軍を次々撃破してマムルーク朝事実上の建国者となったイスラームの英雄バイバルス(1223年?生)、ラテン帝国を滅ぼしてコンスタンティノープルを奪還しビザンツ帝国を再興したミカエル8世パレオロゴス(1225年生)、南宋滅亡時に最後までモンゴルに抵抗した亡宋の三傑で知られる三人の名将張世傑、陸秀夫、文天祥。 日本ではいよいよ鎌倉幕府が最盛期、得宗専制体制を築いて君臨する北条時宗(1251年生)、元寇で奮戦する竹崎季長(1246年生)をはじめとする武者たち、日蓮や一遍ら鎌倉仏教の僧侶たちも活動を活発化させています。 そして十三世紀末期には楠木正成や後醍醐天皇らあの次世代の主人公たちも登場です。 十四世紀 十四世紀は戦乱の時代。 ヨーロッパではまずフランスで百年戦争が勃発、イングランドの戦上手エドワード黒太子(ブラック・プリンス、1330年生)が長弓戦術と騎行でフランスを圧倒。 これに対して賢王シャルル5世(1338年生)と名将ベルトラン・デュ・ゲクラン(1320年生)が反撃に出て領地を悉く奪還していきます。 またこの頃スイス独立戦争の英雄としてウィリアム・テル伝説が誕生、悪代官に命じられて我が子の頭においたリンゴを射抜いたのは1307年だったとか。 黒死病の蔓延で民衆も不満を爆発させ、エティエンヌ・マルセル、ワット・タイラーら民衆反乱の指導者の名も有名です。 また「賢者の石」を発見したという錬金術師ニコラ・フラメル(1330年生)も登場。 大陸では世界制覇も目前かとすら思われたモンゴル帝国があえなく瓦解、新興オスマン帝国の四代目雷帝バヤズィト1世(1360年生)が新設ほやほやイェニチェリを率いてニコポリスの戦いでヨーロッパ軍を撃破し、すい星のごとく現れた草原の覇者ティムール(1336年生)と激突、ユーラシアの覇権を争います。 中国では元を滅ぼした紅巾の乱の指導者朱元璋(1328年生)が貧農の子から皇帝へと昇りつめて明帝国を建国。 三国志演義の作者羅貫中(生没年不詳)なども誕生しています。 日本では鎌倉幕府が滅亡し南北朝の騒乱へと大きく時代が変わりました。 鎌倉幕府を滅ぼす悲運の名将新田義貞(1301年生)、室町幕府を開く足利尊氏(1305年生)・直義兄弟、美しき戦争の天才北畠顕家(1318年生)、そして南北朝を統一する足利義満(1358年生)などなどこれまた中世日本史を彩る人物に事欠きません。

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ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

シャルル アンリ サンソン 死因

中央が処刑直前のルイ16世。 左がシャルル=アンリ・サンソン(1798年の画) 信心深く、自らを厳しく律する人物だったと言われている。 また、当時としては異例なほど身分の分け隔てなく、どの身分にも偏見を抱かない平等論者だったといわれるが、これは死刑執行人が社会の最底辺であり最も偏見を受けながら貴族並みの暮らしをしているという自身の立場によるところが大きいと言われている。 サンソンは死刑執行人という立場でありながら、熱心な者だった。 何度も死刑廃止の嘆願書を出しているが実現することはなく、逆に人類史上2番目に多くの死刑を執行する結果になっている。 死刑制度が廃止になることが死刑執行人という職から自分が解放される唯一の方法であると考えていたと手記に書き残している。 処刑直後の絵。 大衆にルイ16世の首を見せている 皮肉にも彼自身はであった。 ルイ16世を熱心に崇拝しており、自分が処刑するという結果になってしまったことを生涯悔いていた。 フランス革命当時はルイ16世のためにを捧げることは死刑になるほどの重罪でありながら、神父を匿って秘密ミサを上げていたという。 また、とは青年時代に恋人であった時期があるが、当時の王族関係者の例にもれず、サンソンの手で処刑された。 老年の夫人は他の受刑者達とは違い泣き叫び大声で命乞いをしたため、夫人を処刑することに処刑人と民衆は大いに狼狽したらしく、「みんなデュ・バリー夫人のように泣き叫び命乞いをすればよかったのだ。 そうすれば、人々も事の重大さに気付き、恐怖政治も早く終わっていたのではないだろうか」とサンソンは日誌に書き記している。 医師として [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2015年9月) サンソン家は死刑執行人の本業を持つ一方で医師としての仕事も行っていた。 収入は医師としての収入が大半を占めていたと言われている。 医師としての技術は当時のヨーロッパの平均的な水準を上回っていたと言われており、貴族から庶民まで幅広く治療したと言われている。 父のジャン・バチストも死刑執行人の傍ら医師として庶民を診察しており、家業を息子に引き継いだ後も病の身でありながら診察を行っていた。 息子のシャルル=アンリ・サンソンの時代に詳細な医学書が書き起こされ、のちのサンソン家の子孫に医療技術が受け継がれたとされる。 サンソン家の医学は当時の大学などで教えられていた医学とは異なる独自の体系を持っていた。 そもそも、死刑執行人の一族は学校に通うことができず、医者に診て貰うこともできなかったため正規の教育を受けることができなかった。 そんな中で独自に編み出された医術を用いていた。 死刑執行人につきまとう不気味なイメージから、周りからは呪術的な医術と思われていたようである。 しかし、その医療技術は徹底して現実主義的なものであり、当時の医学界で主流だったオカルト的な、現代医学からみて非科学的な治療は行わなかった。 実際に、医師に見放された難病の治療に成功した事例が数多く伝えられている。 当時の死刑執行人は死体の保管も行っており、サンソン家では死体を解剖して研究を行っていた。 また、死刑執行人は鞭打ちなどの刑罰も行っており、人間の身体をどこまで傷つけても死なないか、後遺症が残らないか詳細に知っていたという。 身体に穴を開けると言った刑罰ではどこに穴を開ければ後遺症が少ないか徹底的に研究しており、サンソン家に刑罰を受けた人間はその後の存命率が高かったと言われている。 サンソンは刑罰で自分が傷つけた相手の治療を熱心に行っていた。 経歴 [ ]• 1739年2月15日 パリでの長男として生まれる。 ルーアンの学校に入学するが、2年目で処刑人の子供であることが知られてしまい、学校を辞める。 グリゼル神父を家庭教師として学ぶ。 1754年 父であるが病に倒れ半身不随になったため、15歳で死刑執行人代理の職に就く。 16歳の時、最初の処刑を行う。 1757年3月27日 にが行われる。 これがフランスで最後の八つ裂きの刑となった。 1765年1月20日 マリー・アンヌ・ジュジェと結婚。 1767年 息子が生まれる。 1769年 息子ガブリエルが生まれる。 8月 父であるが正式に引退して の称号を叙任してに就任する。 1792年4月25日 最初のによる死刑が行われる。 1792年 次男ガブリエルが処刑台から転落死する。 1793年1月21日 を処刑する。 1794年7月28日 を処刑する。 1795年 息子のアンリに職を譲って引退する。 1806年 皇帝ナポレオン1世に謁見する。 この年7月4日に死去。 彼が死刑執行人を務めた時期はとのただ中であったことと、ギロチンの導入により機械的連続斬首が可能になったことが相まって、この恐怖政治の時期だけで二千七百数十名を処刑した。 これはヨーロッパの公的な死刑執行人としては、から敗北までのドイツで3,165人の死刑を執行したに次ぐ人数である。 旧来の処刑法では不可能な数であり、ギロチンの登場なくしてはあり得ないことであった。 関連作品 [ ]• 安武わたる『処刑人一族サンソン』• モニク・ルバイイ『ギロチンの祭典 死刑執行人から見たフランス革命』• 大西巷一『ダンス・マカブル ~西洋暗黒小史~』 「暗殺の天使と首切りの紳士」 脚注 [ ] [].

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天草四郎の生地とされる天草諸島の現在 天草四郎は、関ヶ原の戦いで西軍につき処刑された武将・小西行長の家臣である益田好次とその妻・よねの三番目の子であり、その嫡男として誕生しました。 一家は仕えていた小西家の滅亡後は天草諸島に移住したとされているため、四郎も天草諸島で生まれたという説が有力ですが、確たる証拠はありません。 四郎の幼少期の記録はほとんど残っていませんが、武士の家系であったことから高い教養を持ち、周囲から慕われるカリスマ性を持った人物だったことが数少ない記録二も残っています。 また、学問を修めるために長崎を何度か訪れていたことも記録されているため、経済的に余裕のある家だったことも読み取れるでしょう。 『新約聖書』に語られるものと似たエピソードが多く、創作の可能性が高いエピソードですが、天草四郎の生涯や人物像を語る上では、これも欠かせないエピソードの一つです。 そして、四郎の名前が表舞台の記録に上るのは、1637年の「島原の乱」。 十代半ばの少年だった四郎は、そのカリスマ性に目を付けた一揆衆の大人たちによって大将に祭り上げられ、半ば強制的に島原の乱に参加。 前線で戦ったり指揮をしたりということは殆どなかったようですが、「一揆衆には天草四郎がついている」という事実だけで、一揆衆の戦意高揚に貢献。 これにより島原の一揆は、様々な幸運が手伝ったとは言え、江戸から派遣されてきた幕府の軍勢を一度は破るという活躍を見せました。 しかし、いよいよ一揆衆討伐に本腰を入れた幕府が、「知恵伊豆」として知られる松平信綱を島原に派遣したことで状況は一変。 一揆衆は瞬く間に追い詰められ、四郎は追い詰められた一揆衆とともに、原城にて戦死することになってしまったのでした。 一家は身分として浪人百姓でしたが、経済的にはそれなりに余裕があったようで、四郎は幼い頃から高い教養を持っていたとされています。 また、益田家はキリシタンの家系であり、四郎の父である好次は「ペイトロ」、よねは「マルタ」、姉二人は「レシイナ」「リオナ」、妹は「マルイナ」と、それぞれに洗礼名を持っていたようです。 四郎も当初は「ジェロニモ」という洗礼名をもらっていましたが、時はキリスト教弾圧が激化する江戸時代初期。 一家も弾圧を避けるために一度は棄教をすることになったようです。 しかし後の「島原の乱」では再びキリスト教に改宗を行っていたようで、島原の乱当時の四郎は、当初とは別の洗礼名である「フランシスコ」を名乗っていたと伝わっています。 また、『天草陣雑記』の中には、島原の乱で評定衆を務めた有家監物の娘と結婚していたという記述も存在しています。 しかし四郎の結婚生活については殆ど記録が残っておらず、ここから彼の人物像を類推するのも、非常に難しいのが現状です。 天草四郎と「島原の乱」 「島原の乱」の総大将となった天草四郎だが、その裏には大人たちの思惑が渦巻いていた 天草四郎の短い生涯のうち、ハイライトとなるのはやはり「島原の乱」でしょう。 キリシタンへの弾圧や藩主の暴政に耐えかねた農民たちによって起きたこの戦いは、日本史上でも最大規模の民衆反乱として知られています。 天草四郎は、この「島原の乱」の総大将として知られる人物であり、描かれ方によっては「藩主の暴政に苦しめられる天草諸島の民衆を見かねた四郎が武装蜂起を呼びかけ、その呼びかけに応じた民衆によって「島原の乱」が始まった」とされることもありますが、実はこの描かれ方は間違い。 四郎が総大将として選出されたのは、端的に言えば「人気目的」であり、彼が一揆衆の中で担ったのは、あくまでも戦意高揚のための「お飾りの大将」「神輿」という側面が殆どです。 記録からも、実質的な武力蜂起や戦術立案などは、四郎の父である益田好次などの一揆衆の大人たちが担っていた事が読み取れ、四郎自身が一揆衆の指揮を執ったという記録は、実はほとんど残っていません。 とはいえ、あくまでも「一地方の民衆による反乱」でしかない島原の乱が、「日本史上最大規模の民衆反乱」とまで言われる激戦になったことに、天草四郎のカリスマ性が影響を与えていることは間違いない事実だと言えるでしょう。 天草四郎の最期 天草四郎ら、多くの島原の民が命を散らした「原城」の跡地 「島原の乱」の結末をご存知の方であれば、天草四郎がどのような最期を迎えたのかも想像がつくでしょう。 天草四郎は多くの一揆衆がそうであったのと同じように、島原の乱の終焉の地である原城で戦死し、そのあまりにも短い生涯を終えることになりました。 原城の戦いは、幕府軍も一揆衆も双方ともに一歩も退かない激戦だったようで、実は一揆軍は、一度は幕府軍を撤退させ、幕府軍の大将だった板倉重昌を戦死させるという奮戦を見せてもいます。 しかし、「敵大将を討ち死にさせる」という大金星を挙げてしまったことで、むしろ幕府から島原一揆衆への警戒度が跳ね上がることに。 幕府は「知恵伊豆」と名高い松平信綱を総大将とした第二陣を派遣し、これによって島原の乱は鎮圧。 一揆衆はわずかな内通者や運よく逃げ延びたものを残して皆殺しにされ、四郎も戦いの中で討たれることになりました。 そしてこの戦いこそが、江戸幕府の対外政策を決定づけることに。 「島原の乱」が鎮圧されてから、幕府はキリスト教に対する弾圧を強化し、乱から一年後にはポルトガル船の来航を禁止。 これによって江戸幕府の鎖国体制が決定づけられ、四郎たちの掲げたキリスト教は、長らく日本の歴史の表舞台から遠ざけられることになっていくのでした。 しかし島原の乱当時、まだ十代半ばであった彼が総大将に担ぎ上げられたという事実自体が、天草四郎という人物の異質さを示していることは説明するまでもないでしょう。 いわゆる「神輿」のようなタイプの大将だった彼に惹かれて、3万以上の民衆が一揆に参加したことからもそれは読み取れます。 現代においても、優れたトップというのは実務の部分のみならず、人格や雰囲気などの説明しがたい部分において、他者を引っ張っていくオーラや凄みを持っているもの。 歴史においては「人たらし」と呼ばれた豊臣秀吉やなんかは、実務だけではないトップの典型だと言えるでしょう。 もしかすると天草四郎も、秀吉や龍馬と似たような「トップの器」というものを持っていて、それを買われた結果、島原の乱のトップに据えられた人物なのかもしれませんね。 功績2「10代半ばにして3万7000人を指揮する」 10代半ばという年若さで、藩主の暴政に反発する一揆の総大将に押し上げられた天草四郎。 普通ならその責任から逃げ出したくて仕方なくなりそうなものですが、そこから逃げずに最期まで一揆衆と運命を共にしたことも、天草四郎という人物の異質さを示す部分だと言えます。 実質的な指揮官役は、父である益田好次や浪人たちを中心とした評定衆が執っていたとはいえ、四郎の威光に惹かれて一揆に参加した者たちにとっては、四郎の存在や言葉も非常に大きいもの。 前線に出ていたという記録こそほとんどありませんが、一揆からの離脱を戒める法度書きの通称が『四郎法度書』となっているなど、一揆衆にとって彼が欠かせない存在だったのは、そのような部分からも読み取ることができるのです。 中でも有名なのは「海面を歩いた」「盲目の少女の目を、手をかざすだけで治療した」というもの。 これらはいずれも、天草四郎の少年期に起こったとされる出来事であり、記録が少ないことから事実かどうかは定かではありません。 また、四郎の起こした奇跡に似た記述は『新約聖書』の中にキリストの御業として記されているエピソードと酷似しているため、現在では「天草四郎のカリスマ性を補強するために、聖書から題材を取って創作されたエピソード」と見るのが妥当であると判断されています。 とはいえ、そのような普通ならあり得ないエピソードが「あり得るかもしれない」と語られていた辺り、これも天草四郎という人物の異質なカリスマ性を示すエピソードだと言えそうです。 天草四郎にまつわる都市伝説・武勇伝 都市伝説・武勇伝1「実は豊臣秀吉の孫だった?」 天草四郎の父という説もある、豊臣秀吉の子、豊臣秀頼 非常に強いカリスマ性を持って、日本史上最大規模の民衆反乱の旗印となった天草四郎。 単なる百姓浪人の子としてはあまりに強すぎるそのエピソードの数々からか、四郎の出生には様々な異説が唱えられています。 中でも有名なのは、「天草四郎の父は、大阪の陣から落ち延びた豊臣秀頼である」という説。 豊臣氏滅亡の際に、秀頼が薩摩の島津氏を頼って九州に落ち延びたという説があることや、秀頼と四郎に「若いながら強いカリスマ性を持っていた」という共通点があることから唱えられた説です。 また、この説を裏付ける論拠としては、「天草四郎の馬印が、豊臣秀吉のものと同じ瓢箪であること」「一揆の参加者名簿の中に『豊臣秀綱』の名前があったこと」も上げられています。 とはいえ、現時点で信頼できる文献からすると、この説は「トンデモ説」の一つに過ぎないと判断されているのが現状です。 しかし、万が一本当に四郎が秀頼の子だったとしたら。 そう言った観点から「島原の乱」を考えてみるのも、面白いかもしれません。 都市伝説・武勇伝2「実は「妖術師の弟子」だった?」 「妖術師」としても知られる森宗意軒は、実は天草四郎ともかかわりがあった? 島原の乱に参加した者の中には「森宗意軒(もり そういけん)」という人物が存在していました。 宗意軒は四郎の父と同じ小西行長の遺臣の一人であり、中国で火術や外科治療などを学び、一説では妖術を会得した「妖術師」だったとも語られています。 この事から、ごくたまに「天草四郎は森宗意軒の弟子であり、妖術を会得していた」などと語られることもありますが、これに関してはあくまでも「眉唾」「創作」と考えるのが一般的です。 この説の広まりについては、山田風太郎の小説『魔界転生』によるイメージが非常に大きく影響を与えており、『魔界転生』後の島原の乱を描いた作品の中では、度々そうしたイメージで、宗意軒・四郎の二人が描かれています。 当たり前ですが史実において「二人が妖術を用いた」という記録はなく、それらのイメージはあくまでも、小説やゲームなどの中だけと考えるべき部分です。 とはいえ、そうした説がまことしやかに語られる程度には、四郎も宗意軒も謎の多い人物だったことは事実。 特に四郎については、有名でありながら真偽が定かならざるエピソードを数多く遺しているだけに、「実は妖術師だった」と言われても、少し納得できるところかもしれません。 家族構成は、両親と姉が二人に、後に妹が一人。 益田家は、小西氏の滅亡によって肥後国宇土郡江部村(現在の宇土市)に移り住んだ浪人百姓の家系でしたが、経済的には裕福な方で、武士でありながら畑を耕すなど、農民たちとも近い距離間で接する家系だったようです。 また、四郎は生まれたときから「神の子」として強いカリスマ性を発していたようで、家系の裕福さも相まって高い教養と、子供らしからぬ落ち着きを身に着けた少年だったことが伝わっています。 何故、天草四郎は「生まれながらのカリスマ」だった? 天草四郎の「生まれながらのカリスマ性」の理由には諸説がありますが、その中でも有力なのは「宣教師ママコフの予言」によるという説です。 1614年、宣教師ママコフは「25年後に天変地異が起こり、16歳の天童によってキリスト教徒は救われる」という予言を残しました。 この「25年後の天変地異」というのが何なのかは定かではありませんが、もしかするとこれは「島原の乱」の事を指していたのかもしれません。 そして島原の乱当時、天草四郎は十代半ばだったと言われています。 つまりママコフの予言における「天童」の部分に、天草四郎の出生はぴったり当てはまっているのです。 正直なところ、大分「こじつけ」の感じもする説ではありますが、当時のキリスト教徒たちが、他の子供とは違う落ち着きを持ち、かつ「天童」の条件を満たす四郎をカリスマとして崇めたと考えても、筋は通るだろうとも思えます。 1620年代後期 — 幼年期「謎に満ちた幼年期の四郎」 現在の熊本県宇土市 謎に包まれた幼年期 益田家自体が浪人百姓として、歴史の表舞台から遠ざかった家系だったため、四郎の幼少期についても確たる記録はほとんど残っていません。 四郎の母の陳述によると、四郎は「宇土で成長した」ということですので、その言葉を信じるなら、四郎は一家で肥後国の宇土に移住し、そこで畑を耕しながら過ごしていたと考えられます。 1630年代前期 — 少年期「学問を修めるために長崎へ遊学する」 四郎が遊学していた長崎は、今も様々な教会建築が有名 学問を修めるべく長崎へ 強いカリスマ性と穏やかで落ち着いた人格を持つ少年として成長した四郎は、学問を修めるために度々長崎を訪れていたことが伝わっています。 当時の長崎はポルトガル商館が存在する、日本におけるキリスト教のおひざ元のような場所であったため、四郎はこの辺りで、より一層キリスト教の教えに触れる機会を得たとも言えるでしょう。 「海面を歩く」「盲目の少女の目を、手をかざすだけで治療する」などのエピソードがとくに有名ですが、これらのエピソードは『新約聖書』の中に類似のエピソードが存在しているため、「島原の乱に際して、天草四郎のカリスマ性を高めるために創作されたエピソードだ」とする考え方が、現在では有力視されているようです。 1637年12月 — 「島原の乱、勃発」 島原の乱において、一揆軍に破壊された仏像 島原の乱、勃発 島原の乱は、島原藩主である松倉勝家と、その父である松倉重政の長年の暴政を原因としています。 松倉父子は非常に見栄っ張りな性質で、城の改修のために領民から重税を巻き上げ、税を納められない者には、女や子供であっても残酷な拷問や処刑を行うという、まさに「暗君」を地で行く大名でした。 島原の民たちはその暴政にも何とか耐えてきましたが、決定的な事件が起きたのは1637年の10月。 税を納められなかった庄屋の妻が、身重のまま水牢に入れられ、その中で出産させられることになったのです。 村民たちは庄屋の妻を助けようと話し合いますが、庄屋の妻は6日間を水牢の中で苦しんだ末に、水中で産んだ子と共に死亡してしまいます。 これによって島原の民たちは決起を決意し、代官である林兵左衛門を殺害。 この事件によって、日本史上有数の大規模な民衆反乱・島原の乱が勃発することになったのでした。 天草四郎、島原の乱の総大将に抜擢 こうして勃発した島原の乱には、四郎の父である益田好次も参加。 そして四郎も、その圧倒的なカリスマ性と人気を買われて、旗印である総大将として、島原の乱に参加することになりました。 総大将となった四郎は、一説では「十字架を掲げて最前線で指揮をしていた」とも記録されていますが、実際はあくまで「旗印」として扱われ、一揆の実務面は浪人や庄屋などの大人たちが担っていたようです。 1638年2月 — 「勢いづく一揆衆~敵大将撃破~」 一揆衆討伐軍の大将だった板倉重昌を撃破したが… 原城の攻防 島原でキリシタンを中心とした一揆が勃発したことで、同じく暴政に苦しんでいた天草藩でもキリシタンによる一揆が勃発。 これと合流して合従軍となった一揆衆は、原城に立てこもり、幕府軍相手に一歩も退かない激しい攻防を繰り広げました。 原城に立てこもった一揆衆は、総勢3万7000人ほど。 原城の跡からは失火対策などが行なわれていた事が読み取れ、一揆衆が「一つの軍勢」として、厳しい規律でまとめあげられていたことが分かります。 そして、この一揆衆の勢いを重く見た幕府は、新たに「知恵伊豆」と名高い松平信綱を大将とした討伐軍第二陣の派遣を決定。 そしてこの決定こそが、島原の乱の行く末を決定づける一手となるのです。 板倉重昌の失策 「松平信綱の派遣」の報せに誰よりも焦ったのは、一揆衆ではなく討伐軍の大将・板倉重昌でした。 元々同僚である柳生宗矩からも「人望や石高を見ても、討伐軍を率いることは難しい」と評されていた彼は、信綱に手柄を奪われまいと焦り、無謀な総攻撃を行ってしまいます。 人望が薄く策もない重昌のこの指示は全く功を奏さず、幕府軍の死傷者はこの総攻撃だけで4000人以上。 大将である重昌も狙撃を受けて落命し、討伐軍の第一陣は、ここに完全敗北を喫することになってしまいました。 これによって一揆衆は更に勢いづくことになるのですが、「重昌戦死」の報を受けた幕府は、九州諸侯に更なる増援を指示。 時を同じくして松平信綱も討伐軍の大将として着陣し、戦いの風向きは、皮肉にもこの大金星によってひっくり返りつつありました。 1638年4月 — 「島原の虐殺~天草四郎、戦場に没する~」 天草四郎の墓や慰霊碑は、現在も各所に残っている ひっくり返る戦況 松平信綱の着陣によって持ち直した討伐軍は、豊富な兵力を用いて原城に対する包囲戦を展開。 オランダ船に依頼しての大砲による威嚇射撃や、補給線を塞いでの兵糧責めを断続的に行い、これによって一揆衆は徐々に苦しい戦いを強いられることになっていきました。 原城総攻撃~島原の虐殺~ そして1638年4月、討伐軍による総攻撃が開始。 この時の一揆軍には食料も弾薬もほぼ無く、戦いと言うよりは一方的な虐殺が展開されていったことが記録されています。 この総攻撃によって原城は落城。 天草四郎も肥後細川藩士である陣佐左衛門によって討ち取られ、その生涯を終えました。 この時の総攻撃は、文字通りに一揆衆を皆殺しにするまで続いたらしく、原城に立てこもっていた中で生き延びたのは、幕府に内通していた山田右衛門作だけだったと言われています。 1638年以降 — 「島原の乱の終結後…」 黒船の来航まで続いた鎖国体制は、島原の乱から始まった 島原の乱の戦後処理 島原の乱の戦後処理に当たった松平信綱は、まず島原藩主の松倉勝家と、天草藩主の寺沢堅高を処分。 勝家は江戸時代の大名としては唯一の斬首刑を受け、堅高は領地を没収された末に発狂の末に自害するという最期を迎えました。 また、松平信綱はこの一揆鎮圧の件で更に幕府から信頼を受けることになり、3万石の加増を受けて河越藩に移封。 徳川家を支える知将としての地位を築き上げました。 鎖国体制へ 島原の乱の平定から1年半後、幕府は松平信綱からの進言もあって、ポルトガルとの国交断絶を決定。 これによって江戸時代の日本の鎖国体制が、本格的に始まることになりました。 天草四郎の関連作品 おすすめ書籍・本・漫画 江戸人物伝 天草四郎 コミック版 日本の歴史 リンク 山田風太郎による小説作品の映画版です。 天草四郎は魔界からよみがえり幕府転覆を目論む悪役として登場しています。 そんな天草四郎を演じるのは沢田研二さん。 端正な顔立ちながら、そこから醸し出される不気味さと、インパクト抜群のラストシーンの熱演はそれだけでも見る価値ありの名演です。 作品自体に興味がなくとも、そこに関してはぜひ見ていただきたいと思います。 関連外部リンク• 天草四郎についてのまとめ 現在でも様々な創作のモチーフにされている天草四郎ですが、実のところ彼の実像を探るには、その周辺の歴史や人物を非常に深くまで掘り下げねばならず、生半可な知識だけで彼の実像を想像するのは、非常に困難を極めます。 天草四郎を知るにあたって、島原の民が蜂起に至った理由や、島原の乱の平定後の鎖国体制への移行などの前提知識が必要なことは、その最たるものでしょう。 実のところ「天草四郎の生涯」というのは「江戸時代初期のキリスト教史」とほぼ同義であると言えるのかもしれません。 「島原の虐殺に散った悲劇のカリスマ」という印象が有名な天草四郎。 その有名さの反面、彼自身の実像は非常につかみにくい人物ですが、この記事で少しでも天草四郎に興味を持っていただけたなら幸いです。 それでは、本記事におつきあいくださいまして、誠にありがとうございました。 どこかのサイトでそういう作品の二次創作小説を書いていたりもします。 学術的な部分よりも、その人物の人間的な部分やエピソードに興味を持つことが多いため、基本的に分野は広く浅く。 「チャールズ・バベッジ」や「ナイチンゲール」の記事は書いていますが、専門分野自体はからっきしだったりします。 歴史の面白さは、思考実験という名の妄想が効くところ。 一つの疑問から選択肢が無限に広がるのが他の学問には無い部分だと思います。 拙い記事書きですが、私の記事で歴史のそういう面白さが伝わってくれれば幸いに思います。

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