艦 これ 愚痴 wiki。 秋月型駆逐艦

松輪

艦 これ 愚痴 wiki

公試運転中の秋月 1942年5月17日 基本情報 種別 一等 運用者 同型艦 12隻 建造数 13隻 前級 次級 要目 (計画) 2,700 、または2,701英トン 3,470トン または3,485トン 3,888トン または3,899. 2トン 134. 20 水線長 132. 00m 垂線間長 126. 00m 最大幅 11. 60m 水線幅 11. 60m 深さ 7. 05m 公試平均 4. 15m 満載平均 4. 51m 空気余熱器付 3基 主機 高中低圧 2基 推進器 2軸 x 340 直径3. 650m、ピッチ3. 720m 出力 52,000 33. 計画時の名称から 、各艦名から 月型とも呼ばれる。 日本海軍が建造した最初で最後の防空駆逐艦の艦級である。 同型艦は12隻が竣工している。 なお、仮称艦名第361号艦以降を「冬月(ふゆつき)型 」、仮称艦名第365号艦以降を「満月(みちつき)型 」として区別するものもあるが、日本海軍の正式な類別(艦艇類別等級)では「冬月型」および「満月型」も『秋月型駆逐艦』である。 本稿では便宜上の分類も一括記載する。 建造背景 [ ] 以降、航空機の脅威の認識に差はありつつも航空機対策として各国ではに対空機銃や高角砲を装備するようになった。 その中でが(昭和10年)から旧式化していたの中から2隻を改装、備砲・発射管を全て撤去して10cm高角砲単装10基を搭載するとして就役させた。 更に1936年(昭和11年)からの計画を始め、その後実際に建造を実行に移した。 これに影響を受けたもまた防空専門艦の建造計画を推進し、結果を建造した。 日本海軍でも旧式化していた やを改装し防空巡洋艦とする案も出され、にも奏上した。 実際、候補になった艦の船体のサイズはC級軽巡と類似しており、また、とを除く軽巡は老朽化のため退役が予定されていたため理論上可能であった。 だが、当時の日本海軍は水雷戦隊の編成を優先しており、退役予定の艦も必要ならその任務に動員する予定だったためこの改装案は見送られた。 他にも、多額の予算をつぎ込んで候補の船を改装しても能力不足となってすぐに第一線での任務をこなせなくなっては意味がないと考えられた。 また、イギリス海軍の様に第一線での任務をこなせなくなった艦を等の輸送船護衛任務に投入することを考慮していなかったため、それを実行しても費用対効果が低いと判断された。 他にも新たに防空巡洋艦を建造するという計画が立てられたが、建造コストの高さから防空巡洋艦の建造計画は中止された。 [ ] 日本海軍で防空艦の計画が実現したのは昭和14年度()の海軍軍備充実計画 通称 での乙型駆逐艦 本型 6隻からになり 、(昭和15年)に1番艦が起工した。 日本海軍では乙型駆逐艦 本型 を量産し、・・航空戦隊の護衛に配備する予定だった。 計画 [ ] 本型の計画は(昭和13年)頃の軍令部要求から始まる。 当初の要求は、• 基準排水量 2,200トン• 速力35ノット以上• 航続距離18ノットで10,000カイリ• 長10cm高角砲8門、25mm機銃4挺、爆雷投射機近用2基 爆雷30個 、同遠用2基 同40個 その他に煙幕展張装置、飛行機救難デリックを装備などだった。 これは当時トンボ釣りと言われた空母直衛駆逐艦の代用として計画されたもので、魚雷の搭載は考慮されておらず艦種も「直衛艦」となっていた。 しかし航続距離の要求を満たした場合、重油搭載量は1,200トン、排水量は4,000トンを突破することになり、(昭和14年)4月にまとまった計画では速力33ノット、航続距離は18ノットで8,000カイリと縮小されることになる。 この時点では4連装魚雷発射管1基、魚雷8本の装備が含まれており、艦種は「駆逐艦」に変更されて建造されることとなった。 上記のようにで6隻され 、更に昭和16年度(1941年)の戦時建造計画 そのうちの内 で10隻の建造が計画された。 昭和17年度の軍備充実計画 で16隻が計画されたが、昭和17年度の戦時艦船建造補充計画 へ改訂の際23隻に増加し、合計39隻の建造が計画された。 このうちマル5計画の16隻、改マル5計画の最後の7隻は速力を増したいわゆるだった。 艦型 [ ] 設計主務者は。 基本計画番号 F51。 また重心対策として前部主砲の位置がなるべく低くなるように上甲板も船首楼下では前下がりの傾斜が付けられ、低船首楼型に近い船型になっている。 日本海軍の駆逐艦は艦首形状にいわゆるダブル・カーブド・バウを採用していたが、本型の艦首は直線に近い形状になった。 フレームスペースは場所によって5mm単位になっており、精密な設計が伺える。 なお舷外電路は秋月の竣工時から装備されていた。 艦橋 [ ] 日本海軍として初めての防空艦であり、艦橋は(昭和15年)春、舞鶴海軍工廠に実物大模型を作り検討が重ねられた。 艦橋構造は陽炎型と同じ3層構造ながら、前部主砲に視界を遮られないように高さが2m増している。 従来の日本海軍駆逐艦は操舵室が羅針艦橋の下に設けられていたが、本型では同様の理由で羅針艦橋に舵輪が設けられた。 羅針艦橋上部には露天の防空指揮所が設けられ、全周にブルワークがあり、前方には遮風装置が設置されている。 艦長は対空戦闘の指揮をここで執る。 トップには九四式高射装置が装備され、艦橋構造とは独立して3本の円柱で支えられ 、艦橋後方には支柱2本が外部に露出している。 電探装備 後述 の際に信号所下のセルター甲板を後方に拡大し、電探室を設けた 「高角砲と防空艦」p. 138の艦橋内の側面略図によると暗号室を後方に拡張し、電探室と兼用としている。 この時信号所甲板の床も拡張された。 羅針艦橋後方側面にあるブルワークは二式哨信儀が装備されて高さが低められた。 初月では哨信儀の位置のみ、以降の艦ではブルワーク全体の高さが低められている。 また冬月以降は艦橋基部を後方に拡大して内部容積を増やし、電探室を艦橋内に設け、信号所下の張り出しは無くなった。 春月は旗艦設備を艦橋内に設けたため、拡大した艦橋から更に甲板室や野菜室が信号所下に張り出した。 主砲 [ ] 詳細は「」を参照 従来海軍が採用していたに替わり、九八式65口径10センチ高角砲を装備している。 この砲は口径サイズこそ以前のものより小さいが口径長は長く、より長射程、高初速の砲となった。 通説では、砲身そのものの寿命 砲身命数 は短く、12. 7センチ砲が約1,000発なのに対し、10センチ砲は350発と三分の一程度となっており 、寿命の短さの対策として砲身を艦の設備でも交換できる用にしたと言われているが、それを実現すると構造が複雑化するため、実際はその設計が行われなかったとも言われる。 仮にできたとしても予備砲身を積んだ記録が確認できないため、少なくともそういった運用は考慮されていなかったと思われる。 砲の性能は高く、カタログスペックで最大射程19,500メートル、最大射高14,700メートル、発射速度毎分19発 というものであり 、八九式12. 7センチ砲に比べ、いずれも1. 4倍以上の能力向上を誇った。 だが、揚弾薬装置も長時間の使用で故障を生ずる可能性があり、その場合は人力で運ばねばならなかった。 砲側照準による目標の捕捉も可能であるが、実戦では難しいのが実情だった。 また連続発射後のガスで、砲手が気絶した事もあった。 本型では砲塔形式のA型連装砲を搭載 、船首楼甲板に背負い式に2基、後部甲板に背負い式に2基の計4基8門が搭載された。 最大仰角90度、俯角10度 、俯仰旋回は20kW電動機で行われた。 制式採用された中では最新の九四式高射装置が備え付けられていたが、米軍の射撃指揮装置・MK マーク 37射撃指揮装置 GFCS が測距を可能としていたのに比し、射撃用レーダーを持たず、対空目標との距離測定及びその照準追尾はによる人力であり、高角砲のコントロールも人手に拠ったため射撃の精度は乗組員の錬度に頼る点が大きかった。 当初の計画では九四式高射装置は前部と後部の2箇所に計2機装備するとなっていたが、実際には艦橋上の前部にのみ装備されて1機で全砲塔の射撃を指揮することとなり、後部に装備した艦は無かった。 後部高射装置部分には外筒のみ装着されていたが中身はなく、測距儀の出っ張りも無かった。 この部分は後の機銃増備時に機銃台に転用された。 マリアナ沖海戦における第61駆逐隊 初月、若月、秋月 のでは、後部高射装置の増設を強く訴えている。 機銃 [ ] 煙突の直後、魚雷発射管の直前に左右に渡る機銃台が設置され、25mm連装機銃2基が装備された。 射撃指揮装置はなく直接照準であり、操作も人力によった。 (昭和18年)の初めに煙突の缶用吸気口の乗せる形で左右に機銃台を設け、3連装機銃を各1基ずつ増備した。 同年には連装機銃は3連装機銃に交換した。 この時に機銃台も3連装用に拡張されたものと思われる。 同年末に後部高射装置設置予定の支筒の上に機銃台を設け、3連装機銃1基を増載した。 冬月以降の艦は竣工時から魚雷発射管直後に両舷に渡る機銃台を設け、3連装機銃を2基設置した。 秋月などに装備された煙突両舷の機銃台は無く、中部機銃台と合わせて3連装4基の計画になる。 冬月の竣工時 (昭和19年)5月 には秋月などと同様に後部高射装置支筒上の機銃台に3連装1基も搭載し、計3連装5基を搭載した。 1944年6月のまでに秋月型各艦は3連装機銃5基を装備したことになる。 各艦によって違いがあるが、あ号作戦以降は単装機銃を各所に増備した。 (昭和20年)2月には「春月」を除く各艦は艦橋の左右に機銃台を設けて3連装機銃各1基を設置、計3連装7基となった。 「春月」は旗艦設備を艦橋内に設けたためにこの増備は実施しなかった。 魚雷 [ ] 上述の通り、当初は魚雷を搭載しない計画だったが、途中で搭載することに計画が改められた。 兵装は陽炎型 艦隊型駆逐艦 の半分で、魚雷発射管は陽炎型と同じ次発装填装置付きの九二式4連装発射管4型1基、酸素魚雷8本 陽炎型は発射管2基、魚雷16本 を搭載した。 冬月以降は当初予備魚雷を搭載せずに魚雷は発射管内の4本のみの計画だった。 しかし1944年2月に予備魚雷の搭載が復活し、竣工時には秋月と同様の予備魚雷格納筺が設置され、魚雷8本の搭載が可能になっている。 爆雷 [ ] 九四式爆雷投射機2基、爆雷投下台6基を装備し、九五式爆雷54個を搭載した。 朝潮型から夕雲型の艦隊型駆逐艦では爆雷投射機1基、爆雷18個または36個 大掃海具を装備しない場合 で、本型では空母の直衛を任務にしたことからより強力な対潜兵装となっている。 1944年3月竣工の霜月以降は投下台から爆雷投下軌道2条に変更された。 以前の艦も同時期に投下軌道に変更されたものと思われる。 軌道の長さは爆雷6個分で右舷のものはそれより長く、運搬を兼ねて前方に延長されたと思われる 「あ号作戦後の兵装増備状況調査」掲載の略図によると、「若月」「霜月」は左舷側が延長されている。 電探 [ ] 電探の装備は計画になく 、秋月の竣工時にも電探は装備されていない。 照月は電探装備の機会が無く沈没している。 初月 1942年12月29日竣工 から冬月は竣工時から21号電探を装備しており 、これに伴い前部マストの形状が変更されている。 初月と同日竣工の涼月も同様の可能性がある。 秋月では1943年8月26日付訓令により、1943年11月はじめまでに前部マスト上にを1基追加装備した。 21号電探は大型の対空電探であり、戦艦・航空母艦や巡洋艦などの大型艦に装備されたが、駆逐艦で装備したのは秋月型のみである。 秋月では1944年7月上旬、後部マスト上にを1基追加装備した。 「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」にて、他の秋月型各艦でも同様に増備されていたことが確認できる。 13号電探は小型・軽量な対空電探だったため、他の駆逐艦にも装備された。 1944年10月のの前後に前部マストから21号電探を撤去し、跡に13号電探1基と1基を増備した艦があった。 13号電探は前後あわせて2基となる。 涼月・冬月では時期が不明だが写真でこの増備されたことが確認でき、霜月はで両方とも装備している事がわかる。 春月以降の艦は新造時よりこの形態をとった。 秋月はこの増備を行う前に戦没した。 22号電探は小型・軽量な対水上電探で他の駆逐艦にも装備された。 他の日本海軍の艦艇全般に共通することだが、電探を装備していても主砲・機銃を電探に連動させる照準装置が開発されていなかったことは秋月型でも同じだったため、射撃における電探の効力は限定されたものとなった。 それでも機数・編隊・方向・距離がわかるため、対空戦闘には不可欠の装備となっていた。 前部缶室にボイラー2基、後部缶室に同1基を搭載した 陽炎型は1缶1室。 主機は生産性を考慮して基本的に陽炎型と同じであるが、減速ギアは新設計になり、回転数は陽炎型の380rpmから340rpmに落とされた。 初春型以降、陽炎型までの駆逐艦の機械室は、前部機械室に左右のタービン2基を置き、後部機械室には発電機などの補機を置いていた。 一方秋月型では前部機械室に左舷タービン、後部機械室に右舷タービンを置いた。 それまでの配置だと、前部機械室が被弾などで浸水すると航行不能になるのに対し、後年建造されるが採用するほどではないが、片方の機械室の浸水だけでは航行可能で、残存性が高まることになる。 前部機械室の右舷側と後部機械室の左舷側は重油タンクに当てられた 陽炎型までは機械室舷側に重油タンクは無い。 で小沢機動部隊に所属していた霜月は至近弾による浸水を左舷機械室外側の重油タンクが喰いとめた例を紹介し、重油タンクのない右舷側後部で至近弾があった場合、後部機械室が一気に浸水する危険性を指摘している。 また、軽巡以降、日本海軍巡洋艦で採用されている「誘導煙突」を駆逐艦として初めて そして唯一 採用した。 艦の大きさやシルエットが夕張と似ているため、 ラバウル方面に配備された照月、新月を目撃したアメリカ軍は「日本軍は夕張を量産している」と誤報を出したという。 [ ] マスト [ ] 前部マストは下部は煙突をまたぐ4脚で、信号所甲板の高さから3脚になる。 艦橋トップに備えた高射装置の射界を広くとるために支柱の間隔は狭められ、位置も艦橋から離され 、軽く後方に傾斜している。 電探装備の際にマスト上部にフラットを設け、電探の後方にマストが延びるよう設計が変更された。 同時にマスト下部も補強がされている。 サブタイプ [ ] 日本海軍のにおいては命名された全13隻が『秋月型駆逐艦』である。 しかし秋月型駆逐艦は就役が戦時中だったため、後になればなるほど工期の短縮を図るために艤装の簡略化が進み、「同型艦」でありながら初期と後期の艦では外見上相違する部分がある。 各艦が属するサブタイプの呼称は文献によって見解や表記が異なる場合が多いため、以下にそれを列挙する。 秋月型 [ ] 秋月型 、 秋月型原型。 秋月から霜月まで マル4計画艦6隻とマル急計画の第360号艦 「高角砲と防空艦」では「霜月」までを秋月型、後述する冬月型・満月型を合わせた総称として 秋月級と仮に呼ぶとしている。 冬月型 [ ] 冬月型 公試から帰港した「冬月」 1944年5月下旬 基本情報 要目 (F53計画) 2,750 3,458 3,899 134. 20m 水線長 132. 00m 垂線間長 126. 00m 最大幅 16. 00m 水線幅 16. 00m 深さ 7. 05m 公試平均 4. 15m 満載平均 4. 50m ロ号艦本式ボイラー3基 主機 艦本式タービン2基 推進器 2軸 x 340rpm 推進器直径3. 冬月 第361号艦 から花月 第366号艦 まで• 「高角砲と防空艦」では「花月」 第366号艦 を 、「写真日本の軍艦第11巻」では「満月」 第365号艦 と「花月」を後述の満月型に含める。 冬月以降は計画番号 F53 秋月は F51 となる。 秋月の計画との相違点は以下のようなものがある。 秋月の艦首は下部でなだらかなカーブを描いて艦底と繋がるが、冬月以降は艦首は艦底まで直線状になっている。 なお宵月の艦首は水線下で一部斜めにカットされた形状となっているのが確認出来る。 これが宵月だけの特徴か、他の艦が同様だったかは確認できていない。 日本海軍駆逐艦独特の2番3番ボイラー用のお椀型吸気口が廃止され 、煙突側面と中部機銃台下にそれぞれ吸気口が設けられた。 後部甲板室はその前半部が省略され、後部操舵室は吸排気口上に探照燈台を兼ねて設置され後部甲板室から独立した上構となった。 後部マストは13号電探装備の関係から開脚が大きくなり、開脚方向も違っている。 柱の材料も円材から角材とアングルに変更されたようである。 機銃台や探照燈台が多角形の形状になっている。 機銃は25mm3連装機銃4基12挺で計画された 秋月の計画では連装2基4挺。 中部機銃台は秋月と同様の煙突後方、後部機銃台が後部操舵所両舷 発射管直後 に設置された。 機銃増備の代償重量として計画では予備魚雷の搭載を廃止したが、1944年2月頃に復活、冬月以降の各艦も竣工時には秋月と同様の予備魚雷格納筺を装備していた。 右舷側の魚雷用ダビットを廃止、それにより魚雷運搬軌道も途中に分岐点のある敷き方に変更されている。 爆雷は72個 秋月計画54個 に増載された。 21号電探の装備は計画から盛り込まれた。 艦載艇が8m内火艇と8mカッターに変更された。 同じ冬月型でも後期艦では1番ボイラー用吸気口や後部甲板室側面が曲面から平面を使用した形状に変更された。 満月型 [ ] 満月型、 清月型 、 改冬月型、 改改秋月型。 第367号艦 予定艦名「清月」 から第5076号艦 予定艦名「南風」 まで。 1944年5月5日に決裁されたマル19線表改定では、次期着工艦から大幅な工事簡易化がされることになった。 船体は直線を多用した形になり、特殊鋼の使用が中止され 、これにより排水量が若干増し、速度が低下することなった。 工期については、起工から竣工まで12カ月から13カ月かかっていた所を、平均8カ月から9カ月に短縮できる予定だった。 外観上は船体水上部や艦首の曲線を大幅に削除し、艦尾形状も外板の傾斜を廃止。 四式を艦底に搭載し、それにより艦底は膨らんだ形となる予定だった。 損傷復旧後の「涼月」の艦橋と艦首はこの型に準拠した形状と推定される。 「満月」 第365号艦 と「花月」 第366号艦 を冬月型とするか、満月型とするかで諸説ある。 「写真日本の軍艦第11巻」では2隻とも満月型としている。 「高角砲と防空艦」では「満月」は満月型、「花月」を冬月型としている。 のムック「太平洋戦史シリーズVol. 23 秋月型駆逐艦」では、「花月」は満月型に伝えられる大規模な工事簡易化が写真から確認できないことから冬月型に含めている。 上記の大幅な簡略化は「367号艦」 「清月」 から実施すると残された図面に書かれており、これを当てはめるとこの型は 清月型になる、としている。 改秋月型 [ ] 詳細は「」を参照 改秋月型 、 秋月改型 、 超秋月型。 マル5計画艦 仮称艦名第770号艦から同第785号艦 および改マル5計画艦のうち最後の7隻 仮称艦名第5077号艦から同第5083号艦 秋月型から機関出力を「島風」と同じ75,000馬力にして速力36. 7ノットを計画した。 艦名・戦歴 [ ] の6隻はとで3隻ずつ建造され、(昭和17年)6月に1番艦秋月が竣工した。 ではが加わり、でも1隻建造された。 日本海軍の現場からは、艦名からまとめて月型 月クラス と呼ばれることもあった。 これについて「の名前ばかりつけて」という冗談があった。 あきづき 1942年6月11日で竣工。 竣工直後、日本本土に空襲をかけるため接近中のアメリカ機動部隊迎撃のため駆逐艦2隻 、 と共に空母の護衛として出撃した。 その後、ソロモン諸島に向かう途中、攻撃してきたを1機撃墜した。 第四水雷戦隊旗艦として行動中、空襲を受けて中破する。 修理後は第十戦隊旗艦としてに従事。 1943年1月19日、輸送船妙法丸救助に向かったところ、その際米潜水艦の雷撃が右舷缶室下に命中した。 かろうじてトラック島に寄港できたものの、応急修理に40日以上を費やした。 サイパン島に寄港し佐世保に向かうこととなったが、その後突然艦橋下の構造物が切断した。 秋月はやむなくサイパンに戻り、艦橋を撤去した。 強度が落ち折れ曲がった船体前部を切断しに帰還、建造中だった霜月の艦首を流用して接合することで修理工期短縮を図ったが、それでも修理に9ヶ月を要することになった。 1944年10月25日に参加、機動部隊の援護射撃中爆発を起こして沈没した。 これは、「味方空母 瑞鳳 に接近した魚雷を自分が犠牲になって受けたため」とも「味方が打ち上げた高角砲弾の破片、または機関銃弾の不発弾が魚雷に当たり誘爆した 当時の艦長の憶測 」ともいわれている。 また、機関科士官として秋月に乗り込んでいたは著書「防空駆逐艦『秋月』爆沈す」 光文社NF文庫 の中で、敵機の爆弾命中による魚雷誘爆が原因という説を唱えている。 一部の書籍で秋月はアメリカ軍潜水艦の攻撃によるとするものがあるが、雷撃した時刻と沈没した時刻との関係からこれには否定的な見解が多い。 てるづき 1942年8月31日三菱で竣工。 同年10月、に参加する。 同年11月中旬のは二度の夜戦に参し、撃沈された金剛型戦艦2隻 、 から乗組員を救助する。 への物資輸送の警戒艦旗艦 司令官少将座乗 として行動中の12月12日、アメリカ軍の魚雷艇の攻撃を受け沈没した。 なお、アメリカ軍は秋月型を当初は TERATSUKI class 、終戦近くになって TERUTSUKI class と呼んだが、これらは綴りが異なるものの本艦の名が元になっている。 すずつき 1942年12月29日三菱長崎造船所で竣工。 完成後、物資輸送や艦隊護衛などの任務に就いた。 1944年1月16日にアメリカの潜水艦の魚雷により艦首の大部分と艦尾を喪失し初月に曳航され呉海軍工廠に帰還して大修理。 同年10月17日にもアメリカ軍潜水艦の魚雷により艦首の一部を喪失するが撃沈されず帰投している。 艦首の復旧時に新造された艦橋は形状を簡易化した角ばったものとなった。 これは清月以降の設計図によるものと考察されているが 、就役した艦でこの形状を持つものは涼月のみである。 しかし捷一号作戦直前に冬月と共に米潜水艦に雷撃され損傷。 やには参加していない。 時には戦艦および僚艦と共に出撃した。 だが戦闘中に艦橋近くに直撃弾を受け大浸水を来たす。 戦闘終了後、火災のため弾薬の一部が誘爆し艦が前方に傾斜したため前進不能になり、駆逐艦長判断によって後進での航行を余儀なくされる、磁気コンパスが狂い南東に進む、海図が全て燃え乗組員の記憶で日本地図を作成する、さらに雷撃を受けるも後進での操艦により難を逃れるなど佐世保に満身創痍で帰投した逸話が残る。 すでに沈没したと思われており、生還の知らせは驚きをもって迎えられた。 涼月は直ちにドックへ入れられたが、ドックの排水を待つことができず着底してしまうという、まさにギリギリの帰還だった。 帰投後は防空砲台として使用されて終戦を迎える。 1948年に解体され、涼月の船体は冬月と共に福岡県の防波堤となり、 軍艦防波堤と呼ばれた。 はつづき 1942年12月29日舞鶴海軍工廠で竣工。 マリアナ沖海戦で、初めて空母機動部隊を護衛して対空戦闘を実施した。 1944年10月25日のエンガノ岬沖海戦には瑞鶴の護衛艦として参加、瑞鶴の沈没時には救助活動を行い、その後、同型艦若月と軽巡と共に乗員の救助に向かう。 その救助作業中、少将指揮するアメリカ艦隊 重巡3・軽巡1・駆逐艦12 が接近し砲戦となる。 初月は撃沈されたが、実に2時間にわたり敵を拘束することになり、若月、五十鈴は無事に帰還できた。 この戦闘で、アメリカ軍巡洋艦4艦は徹甲弾を合計1,200発以上撃っており、前述のデュボーズ少将は麾下駆逐艦からの報告と併せ、初月を戦艦か少なくとも阿賀野型巡洋艦であると主張していた。 またこの時瑞鶴乗員救助中の内火艇が取り残されて漂流、21日目に台湾に流れ着き瑞鶴乗員17名、初月乗員8名が生還している。 にいづき 1943年3月31日、三菱長崎造船所にて竣工。 第11水雷戦隊、続いて第8艦隊に所属してラバウルへ進出。 7月6日、第三水雷戦隊旗艦としてコロンバンガラ島への輸送任務中、米艦隊との夜間水上戦闘で沈没、第三水雷戦隊司令官少将と共に全将兵戦死した。 秋月型駆逐艦の中で最も短い生涯を遂げた艦であった。 わかつき 1943年5月31日、三菱長崎造船所にて竣工。 第61駆逐隊に編入後、トラック泊地に進出。 1943年10月末、で夜間水上戦闘に参加。 で小破し、内地に帰投した。 1944年6月ので第一機動艦隊旗艦の沈没時すると司令長官中将は若月に移乗、その後は重巡に移乗した。 レイテ沖海戦(エンガノ岬沖海戦後)から生還。 奄美大島からフィリピンへ再進出し、レイテ島増援作戦に参加()。 11月11日、第三次多号作戦で、第二水雷戦隊旗艦等と共に米軍機の攻撃を受け沈没した。 しもつき 1944年3月31日、三菱長崎造船所にて竣工。 建造中に舞鶴工廠からのボイラーの配送待ちで工事が遅延していたところ、回航された秋月に本艦の艦首を移植したため工期がさらに遅延する。 マリアナ沖海戦、エンガノ岬沖海戦に参加した。 再びフィリピン方面へ進出後の1944年11月25日、旗艦として行動中にアメリカ潜水艦の雷撃で沈没、第三十一戦隊司令官少将も戦死した。 ふゆつき 1943年10月1日、『秋月型』に類別。 1944年5月25日、舞鶴海軍工廠にて竣工。 菊水作戦時には大和・涼月等と共に出撃。 帰投後は門司で防空砲台として使用されて終戦を迎えた。 戦後は工作艦として使用され、1948年に解体される。 船体は涼月と共に若松港の防波堤となった。 はるつき 1944年12月28日、にて竣工。 瀬戸内海での防衛任務で終戦を迎える。 復員船として使用されたあと、1947年9月25日に戦時賠償艦としてソ連へ引き渡される。 ソ連では駆逐艦「ヴネザープヌィイ」として短期間運用されたのち、練習艦「オスコール」として1955年まで運用、その後標的艦や海上施設として運用、1969年6月4日に除籍され解体された。 戦後復員輸送に従事し1947年戦時賠償艦としてと共にに引き渡され、中華民国艦「」と改名となるが、実質運用はされていない。 なお、秋月型の10センチ高角砲として書籍等に写真が載っているのは本艦の物だと言われていたが、後の研究で、この写真は引き渡された雪風 に搭載替えされた時点のものであることが判明した。 なつづき 1945年4月8日、佐世保海軍工廠にて竣工。 戦後復員輸送に従事。 1947年戦時賠償艦としてイギリスに引き渡されたが日本国内で解体された。 みちつき 、仮称艦名第365号艦 本籍は呉鎮守府、建造所は浦賀船渠を予定。 1945年1月3日、佐世保工廠で起工、同年12月竣工予定。 2月5日、『秋月型』に類別。 1948年2月に解体終了。 はなづき、仮称艦名第366号艦 1944年12月26日、舞鶴海軍工廠にて竣工。 5月20日付けでに編成された。 7月15日の第十一水雷戦隊解隊後は、第52駆逐隊(杉、樫、楓、梨、萩、樺)も三十一戦隊に編入されて海上挺進部隊に所属した。 同隊の松型駆逐艦は艦尾に特攻兵器の人間魚雷を1基搭載したが、花月は回天8基登載とされた。 天一号作戦のため出撃した第一遊撃部隊を豊後水道まで護衛する。 戦後復員輸送に従事。 1947年戦時賠償艦としてアメリカに引き渡され、で調査された後、1948年2月3日に沖で実艦的として処分された。 本艦以降竣工した艦は艦隊行動はほとんどおこなわず、瀬戸内海や日本近海より離れることはなかった。 建造中止艦 [ ] 戦時補充計画 での建造中止艦 仮称艦名 - 予定艦名 - 備考• 第367号艦 - 清月 きよつき - 当初浦賀船渠で建造予定、その後舞鶴海軍工廠に変更 、本籍は横須賀鎮守府を予定。 9月5日製造訓令 、12月14日建造中止。 第368号艦 - 大月 おほつき - 当初三菱長崎造船所で建造予定、その後世保海軍工廠に変更、本籍は横須賀鎮守府を予定。 1943年10月19日製造訓令 、1944年12月14日建造中止と推定。 第369号艦 - 葉月 はづき - 当初浦賀船渠で建造予定、その後舞鶴海軍工廠に変更 、本籍は横須賀鎮守府を予定。 1944年9月5日製造訓令 、1944年12月14日建造中止。 での建造計画艦 第770号艦から第785号艦までの16隻 改マル5計画に計画変更 での建造計画艦 仮称艦名 - 予定艦名 - 備考。 第5061号艦 - 山月 やまづき - 佐世保海軍工廠で建造予定、後に建造取り止め。 第5062号艦 - 浦月 うらづき - 佐世保海軍工廠で建造予定、後に建造取り止め。 第5063号艦 - 青雲 あおぐも - 舞鶴海軍工廠で建造予定、1944年5月5日佐世保海軍工廠建造に変更、後に建造取り止め。 第5064号艦 - 紅雲 べにぐも - 佐世保海軍工廠で建造予定、後に建造取り止め。 第5065号艦 - 春雲 はるぐも - 舞鶴海軍工廠で建造予定、1944年8月14日製造訓令、後に建造取り止め 1945年4月と推定される。 第5066号艦 - 天雲 あまぐも - 浦賀船渠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め。 第5067号艦 - 八重雲 やえぐも - 佐世保海軍工廠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め。 第5068号艦 - 冬雲 ふゆぐも - 浦賀船渠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め。 第5069号艦 - 雪雲 ゆきぐも - 佐世保海軍工廠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め。 第5070号艦 - 沖津風 おきつかぜ - 舞鶴海軍工廠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め。 第5071号艦 - 霜風 しもかぜ - 浦賀船渠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め。 第5072号艦 - 朝東風 あさごち - 佐世保海軍工廠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め。 第5073号艦 - 大風 おほかぜ - 浦賀船渠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め。 第5074号艦 - 東風 こち - 佐世保海軍工廠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め。 第5075号艦 - 西風 にしかぜ - 舞鶴海軍工廠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め。 第5076号艦 - 南風 はえ - 浦賀船渠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め。 第5077号艦 - 北風 きたかぜ - として計画、佐世保海軍工廠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め。 第5078号艦 - 早風 はやかぜ - 改秋月型駆逐艦として計画、浦賀船渠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め。 第5079号艦 - 夏風 なつかぜ - 改秋月型駆逐艦として計画、佐世保海軍工廠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め。 第5080号艦 - 冬風 ふゆかぜ - 改秋月型駆逐艦として計画、舞鶴海軍工廠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め。 第5081号艦 - 初夏 はつなつ - 改秋月型駆逐艦として計画、浦賀船渠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め。 第5082号艦 - 初秋 はつあき - 改秋月型駆逐艦として計画、佐世保海軍工廠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め。 第5083号艦 - 早春 はやはる - 改秋月型駆逐艦として計画、浦賀船渠で建造予定、1944年5月5日建造取り止め。 駆逐隊の変遷 [ ] 秋月型は戦時中に建造されたため、戦没と新造艦の編入が錯綜し、フル編成が完結する機会は少ない。 新月は駆逐隊編入の機会がないままに単艦で編入されて戦没している。 秋月型最終ロットが竣工する頃には、すでに艦隊行動が不可能になっており、駆逐隊も解隊されるものが続出した。 このため、春月は当初より護衛戦隊の第103戦隊旗艦、花月は第31戦隊旗艦となっており、新月と合わせ3隻が駆逐隊に属していない。 結果的に第六十一駆逐隊・第四十一駆逐隊の2個駆逐隊が編成された。 機動部隊である第10戦隊での活動がほとんどを占め、戦争末期にはのに所属し、主力駆逐艦らしい戦歴を重ねている。 第六十一駆逐隊 [ ] に所属した 秋月・ 照月で編成した最初の秋月型主体の駆逐隊。 第10戦隊に属して機動部隊の直衛を担うはずであったが、編成時の秋月は第四水雷戦隊旗艦としてに参加、照月は以降機動部隊と分離して等の水上戦闘に参加した。 涼月・ 初月の追加を待たず照月が戦没したほか、秋月や涼月が長期間の修理を要する被害を受けており、4隻体制を維持すること自体が困難だった。 若月の戦没により、残るは本土で修理を完了した涼月のみとなったために解散した。 昭和17年10月7日:秋月、照月で編成。 第61駆逐隊司令大佐。 ・第十戦隊。 昭和17年10月25日:秋月、第四水雷戦隊旗艦として行動中に損傷。 内地帰投。 昭和17年12月12日:照月、旗艦として行動中、で米軍魚雷艇の襲撃により戦没。 昭和18年1月15日: 涼月と 初月を編入、照月を除籍。 昭和18年1月19日:秋月 第十戦隊旗艦 、アメリカ潜水艦の雷撃により大破、第十戦隊司令官少将が負傷、少将に交代。 昭和18年2月3日:第61駆逐隊司令大佐。 昭和18年6月30日:秋月を除籍、予備艦に指定。 昭和18年8月15日:での練成を終えた 若月を編入。 昭和18年10月31日:秋月を再編入。 昭和18年12月12日:第61駆逐隊司令大佐 昭和19年1月16日:涼月が高知沖で被雷大破、泊駆逐隊司令が戦死した。 昭和19年3月20日:第61駆逐隊司令大佐。 昭和19年8月3日:涼月の修理が完了、戦線に復帰する。 昭和19年10月16日:涼月、宮崎沖で被雷大破。 には秋月、初月、若月が参加。 昭和19年10月25日:レイテ沖海戦で秋月、初月戦没 天野駆逐隊司令戦死。 12月10日除籍。 昭和19年11月11日:若月、オルモック作戦中に戦没。 涼月、修理完了、戦線復帰。 昭和19年11月15日:解隊、涼月と若月 書類上在籍 は第41駆逐隊に転出。 第四十一駆逐隊 [ ] に備えて単艦で第10戦隊に編入されていた 霜月に第十一水雷戦隊での練成を終えた 冬月を加えて昭和19年7月15日に編成した。 前に冬月が大破したため、駆逐隊単位での行動はほとんどなく、六十一駆から転入した 涼月と修理が完了した冬月がに参加したのが駆逐隊として唯一の作戦行動である。 菊水作戦によって、両艦とも損傷を蒙ったため、稼動できるのは追加された 宵月と 夏月だったが、燃料の払底のために活動することはなかった。 にの を編入している。 戦後の武装解除時に解隊した。 昭和19年7月15日:霜月、冬月で編成。 第41駆逐隊司令大佐。 第三艦隊第10戦隊。 昭和19年10月12日:冬月が被雷大破、レイテ沖海戦には霜月のみ六十一駆指揮下で参加する。 昭和19年11月15日:に転籍。 解隊した第六十一駆逐隊より 涼月、 若月 書類上在籍 を編入。 昭和19年11月19日:旗艦大破。 霜月を旗艦に指定。 昭和19年11月25日:で霜月が戦没、第三十一戦隊司令官少将および41駆司令脇田大佐も戦死した。 昭和20年1月20日:霜月、若月除籍。 昭和20年3月1日:第41駆逐隊司令大佐。 昭和20年4月6日:に涼月、冬月ともに参加。 昭和20年4月20日:連合艦隊直属第31戦隊に転属。 昭和20年5月20日:第十一水雷戦隊での練成を終えた 宵月を編入。 昭和20年5月25日:第十一水雷戦隊での錬成を終えた 夏月を編入。 昭和20年7月5日:涼月を除籍、同艦は第四予備艦となった。 昭和20年8月15日:解隊されたより を編入。 戦後解隊。 秋月に関する通説 [ ] 秋月が初戦で3機と遭遇し、前部砲塔と後部砲塔を別々の目標に指向して2機を撃墜した。 これは古賀彌 本艦初代艦長 が戦後記述した文章が基となっている。 しかし艦艇研究家のも調査の中で、• 公式記録 「駆逐艦行動調書」 では、B-17撃墜は1機、消費弾薬は108発となっている。 乗組員への聞き取り調査によると後部の高射装置は竣工時から未装備であった。 また、初戦に限らずいかなる実戦でも分火を行った記憶が無い。 秋月を建造した舞鶴工廠に勤務していた方々への聞き取り調査でも一部で未装備だったという証言があり、秋月公式図の写図には前部高射装置が実線、後期高射装置は一点鎖線で書かれている。 秋月竣工直後に赴任した元技術大尉は「写図に実線で描かれていないのなら完成時に装備されていなかったことを示すもので、写図に誤りがあるとは考えられない」と語っている。 以上により、艦橋上の1基しかなく同時に2機の目標に照準を合わせることは不可能だったとしている。 また別の記録として連合艦隊参謀長の「戦藻録」では、9月29日に秋月がブカ島でB-17爆撃機2機と交戦、1機を撃墜し「防空駆逐艦の価値を始めて発揮せり」と記述している。 そのためアメリカ軍は秋月型には不用意に近づかないよう警告を発した。 このことについて田村は同じく調査の中で、• 基となるアメリカ側資料が自力調査しても全く見当たらず、海外の友人に協力してもらっているがそれでも見つからないこと。 同じように警告に関する通説も海外の文献に登場しないこと。 以上から「通説は日本のみで言われていることではないか」と推測している。 「警報を発した」説は、が雑誌「丸」昭和46年12月号に寄稿した記事にある。 この記事において福井は「ソロモン海域に新鋭艦が出現したという警報は、ただちに全軍にたっせられたらしい。 」と、あくまでも伝聞として記述している。 この項の参考文献 [ ]• 田村俊夫、「駆逐艦『秋月』の実像」歴史群像太平洋戦史シリーズVol. 23『秋月型駆逐艦』、学習研究社、1999年、p79-110。 作者は最後のである平山の孫にあたる。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 以下同じ。 歴史群像秋月型p. 109〜110では、乗組員の証言として「揚弾器の性能が毎分15発であり、即応弾を打ち尽くせば毎分15発を超えて撃てない」「訓練では4秒1発を目標としたが実戦ではそれを下回った」とある。 158では生産性を考慮して減速ギアを新設計にしたとしている。 アメリカ海軍Office of Naval Intelligence発行 ONI 222-J THE JAPANESE NAVY 1945年6月回付分 p. 4では公試排水量3,485トンになっている• 付録にある『秋月型公式図 冬月型「花月」補音器室横壁構造』 昭和19年12月2日製図 では、花月の線図として四式水中聴音機補音器室の船体フレームの一部が掲載されている。 しかし注記として「実際に搭載したか明らかではなく、図の通り船底部がふくらんだ船体として完成したかも確認されていない」としている。 88では、建造訓令を1944年(昭和19年)9月から10月としている。 出典 [ ]• 144上写真と解説。 上巻p. 428• 788-789、附表第2 艦艇要目表 6. 駆逐艦及び水雷艇要目表• 下巻p. 1695• 画像19、一等駆逐艦定員表其の7 昭和16年内令第764号別表。 士官8人、特務士官2人、准士官3人、下士官75人、兵185人。 秋月1944年10月25日戦没時点。 歴史群像秋月型p. 103。 28『達第二二號 昭和十九年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦四隻、潜水艦一隻及海防艦六隻ニ左ノ通命名ス 昭和二十年二月五日 海軍大臣|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 満月 ミチツキ 舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 栃 トチ 株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 若櫻 ワカザクラ 横須賀海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 矢竹 ヤダケ 呉海軍工廠ニ於テ建造 伊號第二百七潜水艦 日本鋼管株式會社鶴見造船所ニ於テ建造 第百七號海防艦 三菱重工業株式會社神戸造船所ニ於テ建造 第二百二十三號海防艦 第二百二十九號海防艦 川崎重工業株式會社ニ於テ建造 第百四十二號海防艦 株式會社播磨造船所ニ於テ建造 第百六十號海防艦 三菱重工業會社長崎造船所ニ於テ建造 第百九十八號海防艦』• 1『内令第二千二十六號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス|昭和十八年十月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|驅逐艦、一等秋月型ノ項中「霜月」ノ下ニ「、冬月」ヲ加フ 潜水艦、一等伊十型ノ項中「伊號第十二」ノ下ニ「、伊號第十三」ヲ加フ 同二等呂三十五型ノ項中「呂號第四十九」ノ下ニ「、呂號第五十」ヲ加フ 海防艦、御蔵型ノ項中「千振」ノ下ニ「、草垣」ヲ加フ 掃海艇、第十九號型ノ項中「第三十三號」ノ下ニ「、第三十八號、第四十一號」ヲ加フ 驅潜艇、第十四號型ノ項中「第五十四號、」ノ下ニ「第五十五號、」ヲ加フ』• 45『内令第九六號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和二十年二月五日 海軍大臣|驅逐艦、一等秋月型ノ項中「夏月」ノ下ニ「、満月」ヲ、同松型ノ項中「楡」ノ下ニ「、栃」ヲ、「初櫻」ノ下ニ「、若櫻」ヲ、「雄竹」ノ下ニ「、矢竹」ヲ加フ 以下略 』• 154• 196• 21『四. 防空艦ニ改装豫定ノ天龍、龍田ヲ第一戰隊ニ編入致シマシタ』• 156「秋月型建造行程一覧」• 25『別表第六 昭和二十五年度帝國海軍戰時編制案 聯合艦隊ノ部』• 154-155• 1535、日華事変より太平洋戦争までの建艦計画。 同書下巻p. 1536、太平洋戦争中の建艦計画。 222• 42-43• 130,132• 56-57• 128• 8-10• 158• 146-148、「艦橋」• 138「図79 艦橋の拡張」• 156• 29『 二 一般ニ九八式十糎高角砲ハ軽妙ナルモ揚弾薬装置其他ノ故障多ク多弾発射ノ場合ハ強靭ナラザル点アリ一抹ノ不安ヲ感ズ』• 24-25『 三 主砲ニ於テ高射器射法中ハ方向盤ニ依リ目標捕捉極メテ容易ナリシモ高射器故障ノ為砲側照準ニ移リシ後ノ目標捕捉状況ハ極メテ不良ニシテ今後演練ノ余地大ナリ』• 22『 ロ 砲室後煙排除装置ノ強化ヲ要ス 後煙ノタメ初月一番砲手一名卒倒其ノ他被害大ナリ』• 123• 86〜91• 「当初高射装置2基装備」「前後の主砲を分火可能」「後部撤去は生産が間に合わず修理も多かったため」等の通説は、「軍艦メカVol. 4」p. 10、「軍艦メカニズム図鑑」p. 35等でも書かれている。 22『 イ 後部高射器ノ装備ヲ要ス 分火実施上其ノ他絶對必要ナリ』• 155-156、「兵器」• 152、「後部甲板室」• 276-277,280-281「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」• 80-81• 130-131• 102• 歴史群像秋月型pp. 9-11。 ただし、初月はマスト形状は電探対応タイプだが電探そのものは写真には写っておらず、竣工と訓令の日時も前後している。 13,25,143-156• 152-155、「マスト」• 歴史群像秋月型pp. 98-99,102• 軍艦メカ4 p. 歴史群像秋月型p. 101、p. 103• 12〜13、p. 18〜19、p. 22〜25。 軍艦メカ4 p. 103• 19『 ホ 敵ハ偽瞞紙ヲ相當使用セルヲ認ム 敵ノ偽瞞防止上モ前項ニ関聯追尾ヲ容易ナラシムル爲指揮装置、自動追尾装置ノ實現ヲ要ス』• 24-25『 ロ 敵機探知状況 電波探信儀ハ22號13號共敵機ノ来襲ヲ予想セラルル期間常時配員シ対空哨戒ニ全幅利用セシトコロ敵機ノ感度ハ22號ニ於テハ約120粁附近ヨリ13號ニ於テハ約100粁附近ヨリ現ハレ敵機ノ反射波ガ我ガ飛行機ニ比シ極メテ顕著ナル特徴ヲ呈スルニ依リ敵味方ノ識別容易ニシテ且其ノ機数編隊数モ概ネ判別セラレ対空戦準備ヲ整フルコトヲ得従ッテ戦闘力ノ発揮ニ遺憾ナキヲ得タリ 電波探信儀ハ対空戦上不可欠ノモノニシテ更ニ敵機来襲前ニ高角測空可能ナラシムルノ要切ナルモノアリ』• 1759-1760、機関配置略図• 102-104• 23『一. 秋月型駆逐艦ニアリテハ是非共機械室外側ハ両舷共重油「タンク」若クハ空所ヲ設クル要アリト認ム。 今次至近弾ニ依ル被害ハ左舷側ナリシタメ重油「タンク」ノミノ破損浸水ニテスミタルモ若シ右舷側ナリシナラバ忽ニシテ後部機械室浸水シ重大ナル結果ヲ招来シタルベシ』• 水谷清高「秋月型の基礎知識」. 144、乙型駆逐艦概観• 153-154の写真と解説• 65、復元性能• 29、士官7名、下士官2人、准士官3人、下士官兵260人• 86-87「表34 19線表による計画変更 1944. 5決裁 」• 144-145、「船体」• 149-152、「中部機銃台」「後部甲板室」• 112「表42 要目表 続 」• 153• 113「表42 要目表 続 」• 115「表42 要目表 続 」• 1163「表42 要目表 続 」• 水谷清高「秋月型の基礎知識」. 149-152、「図6 煙突比較」「図11 後部甲板室比較」• 85,87• 155「改マル5計画建造予定艦」• 133-134• 89-93、4. 超秋月型計画• 画像48-49、昭和16年5月15日附達第156号• 画像11、昭和16年10月25日附達第328号• アメリカ海軍Office of Chief of Naval Operations and Bureau of Aeronautics発行 Naval Aviation News 1943年9月15日号 p. 2、発行 ONI 41-42 Supplement Aerial Views of Japanese Naval Vessels 1943年7月期回付分 p. 19など。 アメリカ海軍Office of Naval Intelligence発行 ONI 222-J THE JAPANESE NAVY 1945年6月期回付分 p. 61など• 海軍大臣達『1月』第24画像 昭和17年1月20日付 海軍大臣達第18号。 命名に係る本令達で用いられている漢字は 涼である。 画像1、昭和17年3月1日附達第62号• 画像39-41、昭和17年5月15日附達第157号• 画像19-21、昭和17年8月20日附達第233号• 画像3-4、昭和18年3月5日附達第42号• 画像1-2、昭和18年10月1日附達第235号• 画像1、昭和19年10月5日附達第341号• 83「表32 昭和16年度戦時建造計画艦名 1942. 19決裁 」• 画像6-7、昭和19年8月25日附達第279号• 、396-397頁「海上挺進部隊の編成」• 、397頁「第十一水雷戦隊の解隊」• 、398頁「決号作戦時の作戦要領」• 95「表38 秋月級艦歴表」• 画像25-26、官房艦機密第5288号 第368号艦製造の件訓令。 83「表33 改マル5計画艦名案 1943. 27 」• 88「表35 20線表による計画変更」• 33『内令第千八百六十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年十月七日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第三十四驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ 第六十一驅逐隊 秋月、照月 』• 「」 Ref. C13072087200• 7『内令第十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年一月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第六十一驅逐隊ノ項中「秋月、照月」ヲ「秋月、涼月、初月」ニ改ム』• 「」 Ref. C13072089500• 「」 Ref. C13072089600• 7-8『内令第千二百八十八號 駆逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年六月三十日 海軍大臣嶋田繁太郎|第六十一驅逐隊ノ項中「秋月、」ヲ削ル』-『内令第千二百八十九號 佐世保鎮守府予備驅逐艦 驅逐艦 秋月 右第二予備艦ト定ム|昭和十八年六月三十日 海軍大臣 嶋田繁太郎』• 29『内令第千六百六十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年八月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第六十一驅逐隊ノ項中「初月」ノ下ニ「、若月」ヲ加フ』• 38『内令第二千二百四十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「朝雲、」ヲ削ル|第十驅逐隊ノ項中「風雲」ノ下ニ「、朝雲」ヲ加フ|第二十四驅逐隊ノ項中「涼風」ノ下ニ「、満潮」ヲ加フ|第六十一驅逐隊ノ項中「若月」ノ下ニ「、秋月」ヲ加フ』• 「」 Ref. C13072094800• 「」 Ref. C13072096800• 「」 Ref. C13072102800• 4-5『内令第一二七一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年十一月十五日 海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「清霜」ノ下ニ「朝霜」ヲ加フ|第七驅逐隊ノ項中「潮」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ|第十八驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、初霜、若葉」ヲ「初春、初霜、時雨」ニ改ム|第三十一驅逐隊ノ項中「長波、朝霜、岸波、沖波」ヲ「長波、岸波、沖波、濱波」ニ改ム|第三十二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月」ノ下ニ「、涼月、若月」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項ノニ左ノ一項ヲ加フ |第五十二驅逐隊 桑、檜、桐、杉、樫| 第六十一驅逐隊ノ項ヲ削ル』• 21『内令第八百六十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年七月十五日 海軍大臣|第三十二驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ二項ヲ加フ 第四十一驅逐隊 霜月、冬月 ・ 第四十三驅逐隊 梅、竹、松、桃 』• 「」 Ref. C13072100100• 7『昭和二十年一月十日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「早霜、秋霜」ヲ削ル|第四驅逐隊ノ項ヲ削ル|第七驅逐隊ノ項中「曙、」ヲ削ル|第十七驅逐隊ノ項中「浦風、」ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、」ヲ削ル|第三十驅逐隊及第三十一驅逐隊ノ各項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「霜月、」及「、若月」ヲ削ル』• 「」 Ref. C13072103700• 22『内令第四四七號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和二十年五月二十日 海軍大臣|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月、」ノ下ニ「宵月、」ヲ加フ 第四十三驅逐隊ノ項中「榧、」ノ下ニ「椎、」ヲ加フ 第五十二驅逐隊ノ項中「楓、」ノ下ニ「梨、萩、」ヲ加フ』• 29『内令第四百六十四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和二十年五月二十五日 海軍大臣|第十七驅逐隊ノ項中「磯風、」ヲ削ル 第四十一驅逐隊ノ項中「宵月、」ノ下ニ「夏月、」ヲ加フ』• 1『内令第六〇〇號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年七月五日 海軍大臣|第四十一驅逐隊ノ項中「、涼月」ヲ削ル』• 28『内令第七三四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年八月十五日海軍大臣|第十七驅逐隊ノ項ヲ削ル 第四十一驅逐隊ノ項中「夏月」ノ下ニ「、雪風」ヲ加フ』• 10-11頁• 83-91• 196頁• 110• 日本駆逐艦物語p. 211に同記事を再録 参考文献 [ ]• 秋元実・編 『ガイドブック 日本連合艦隊編』改訂版 静岡模型教材協同組合、2007年10月改訂 4945187990224• 遠藤昭『高角砲と防空艦 オンデマンド版 』原書房、2009年8月(原著1975年)。 片桐大自 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1988年。 『日本駆逐艦物語』福井静夫著作集第5巻、光人社、1993年1月。 新装版あり• 雑誌「丸」編集部『丸スペシャル No. 19 日本海軍艦艇シリーズ 駆逐艦朝潮型 秋月型』(潮書房、1978年) 雑誌コード 8343-7• 新装版あり。 同内容が『図解 日本の駆逐艦』 としても刊行。 雑誌「モデルアート」 艦艇模型テクニック講座 vol. 森恒英『軍艦メカニズム図鑑 日本の駆逐艦』(グランプリ出版、1995年)• 「歴史群像」編集部著、田村俊夫、水谷清高『歴史群像太平洋戦史シリーズVol. 23 秋月型駆逐艦』学習研究社、1999年。 雑誌「歴史群像」 太平洋戦史シリーズ Vol. 45 『真実の艦艇史』(学習研究社、2004年)• 「駆逐艦 一般計画要領書 附現状調査 昭和十八年七月」1943年7月。 防衛省防衛研究所• 『昭和20年2月1日〜昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報 3 』。 Ref. C08030103200。 『昭和19年6月20日〜昭和19年7月10日 第61駆逐隊戦闘詳報 1 』。 Ref. C08030150500。 『昭和18年10月1日〜昭和18年10月31日 佐世保鎮守府戦時日誌 3 』。 Ref. C08030348600。 『昭和19年9月1日〜昭和19年9月30日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。 Ref. C08030358100。 『昭和19年10月25日 駆逐艦霜月戦闘詳報』。 Ref. C08030590100。 Ref. C12070109500。 Ref. C12070111000。 レファレンスコード:C12070114100 海軍大臣達『1月』 昭和17年1月• Ref. C12070114400。 Ref. C12070114800。 Ref. C12070115300。 Ref. C12070118400。 Ref. C12070120400。 レファレンスコード:C12070120400 海軍大臣達『10月(1)』 昭和18年10月• Ref. C12070124800。 Ref. C12070151300。 Ref. C12070151900。 Ref. C12070165700。 Ref. C12070175100。 Ref. C12070178400。 Ref. C12070179600。 Ref. C12070181100。 Ref. C12070181500。 Ref. C12070195500。 Ref. C12070497400。 Ref. C12070497900。 Ref. C12070502000。 『自昭和20年1月. Ref. C12070503600。 『自昭和20年1月. Ref. C12070503800。 『自昭和20年1月. Ref. C12070505100。 『自昭和20年1月. Ref. C12070505700。 Ref. C12070530000。 『昭和14年度帝国海軍作戦計画及同戦時編制に関する御説明』。 Ref. C14121205900。 『昭和19年度戦時編制案 昭和13年10月』。 Ref. C14121175900。 『昭和25年度戦時編制案 昭和13年10月』。 Ref. C14121176400。 『昭和22年. 25年度 帝国海軍戦時編制案 昭和16. 1 別表第1〜別表第6 』。 Ref. C14121192600。 ONI 41-42 Supplement, Aerial Views of Japanese Naval Vessels 1943年7月期回付分、、1943年• ONI 222-J THE JAPANESE NAVY 1945年6月期回付分、Office of Naval Intelligence、1945年• Naval Aviation News 1943年9月15日号、Office of and 、1943年 関連項目 [ ]•

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エムゾネ事変

艦 これ 愚痴 wiki

2()年、で公試中の金剛。 3本の煙突からは、もうもうと黒煙が上っている。 このときの全力公試では27. 54ktを記録した。 6m 219. 4m(第二次改装) 最大幅 28. 0m 31. 0m(第一次改装) 推進 蒸気タービン2基、4軸64,000馬力 蒸気タービン4基、4軸136,000馬力(第二次改装) 速力 27. 5 26kt(第一次改装) 30. 3kt(第二次改装) 航続距離 8,000(14kt時) 10,000浬(14kt時、第一次改装) 9,800浬(18kt時、第二次改装) 乗員 士官、兵員2,367名 兵装 竣工時 45口径35. 6cm連装砲4基 50口径15. 2cm単装砲16基 53cm魚雷発射管8門 最終時 35. 6cm45口径連装砲4基 15. 2cm50口径単装砲8基 12. 7cm連装高角砲6基 25mm3連装18基 同連装8基 同単装30挺 (機銃は推定) 装甲 舷側:8 203. 2 -3in 76. 2mm 甲板:2. 25in 57. 2mm -2. 63in 66. 8mm 砲塔:10in 254mm -9in 228. イギリスに発注された最後の主力艦である。 2度の改装後は高速戦艦として、でも活躍した。 なお金剛は、日本海軍が太平洋戦争で使用した唯一の外国製日本戦艦でもあった。 艦歴 [ ] 金剛のはとの境にあるにちなんで命名された。 艦名は 明治10年 進水のに続いて2代目。 計画時の名称では「伊号装甲巡洋艦」と呼ばれとして計画されていたが、建造中にに艦種変更され金剛と命名された(日本海軍の命名慣例についてはを参照)。 戦艦には旧国名が命名されることが多いが、金剛が戦艦に艦種変更されたのは第一次改装中の1931年(昭和6年)6月1日付であり、竣工当初は巡洋戦艦であったためである。 また金剛は、日本の主力艦として初の艦であると同時に、改修に改修を重ねたのちは快速を誇る「高速戦艦」として、期には旧式化していながらも盛んな活躍を見せたのでもある。 現代のでは、開発国以外では世界初となるの1番艦「」にその艦名が受け継がれている。 建造までの経緯 [ ] 終結2年後の(明治40年)に金剛の建造が決定された。 最初はとして計画されたが、がに画期的戦艦のを完成させて以来あまりに戦艦の進歩は飛躍的になり、設計はまとまらなかった。 には弩級巡洋戦艦3隻が竣工 、には(ドレッドノートを超える戦艦という意味)が起工されるとともに当時世界最大艦となる超弩級巡洋戦艦が計画されるという事態に鑑み、(明治44年)に「金剛」を超弩級巡洋戦艦として建造すべく計画を変更した。 予算が通過したのは(明治43年)である。 この当時日本海軍は1907年(明治40年)計画の国産を建造中であったが、構想や技術的に欧米に劣る点も多く認められたため、金剛は技術導入を兼ねてイギリスに設計・建造を依頼した。 建造にとヴィッカース が名乗りを上げたが、設計試案と技術力を検討しを建造した実績からヴィッカースに決定した。 建造 [ ] 基本計画はによる。 計画にあたり日本海軍はイギリス海軍と違う戦略、伝統、その他の事情による意見を出し、の技術者と詳細な意見交換を行なった。 設計にはヴィッカースの主任設計師卿()が当たった が、の指導に負うところも多いという。 サーストンはに輸出予定だった戦艦 発注時はレシャド5世)を元に巡洋戦艦を設計する。 この艦は当局の課す設計上のさまざまな制限から自由に設計できたため、14in砲8門を搭載した、極めてバランスの取れた素晴らしい軍艦と認められた。 その際立った特徴は、射界の狭い船体中央の砲塔を廃して、主砲塔を前後二基ずつ配置したことである。 14in砲は当時イギリスが採用していた13. 5inより少しでも威力のある砲を、と採用したものだが、これは日本海軍が世界最大の艦砲を持った最初の例となった。 イギリスが図った便宜 [ ] 軍艦を建造する造船所はそれぞれ他社にはない独自の技術を持っており、一般に企業秘密として公開しない。 しかし、ヴィッカースは戦艦、を建造した実績があり、日露戦争での日本海海戦における三笠の活躍を誇りとしており、日本海軍と親密な関係が保たれていた。 発注に際し日英両国の間で次の約束がされた。 日本海軍の造船、造機、造兵各技術者を派遣、長期に渡り金剛の工事の一切を監督、調査する。 砲塔その他一切の船体、機関などの図面を日本は入手し、引き続き利用して同型艦を日本国内で建造する。 ヴィッカースは快く派遣要員を受け入れ、技術指導を実施した。 日本より建造立ち会い監督官、船体、機関、武器各部門の技術士官、2番艦()を建造する横須賀工廠の工員が多数派遣され、また3番艦()や4番艦()を建造する神戸とから技術者や工員が建造技術取得と調査のために渡英した。 金剛の設計図は契約に基づき日本に引き渡され、同型艦3隻は本艦の図面を元に国内で建造された。 特に日本が立ち後れていた艦内電気艤装工事の技術は大きな収穫となり、日本の造船技術を一躍世界超一流に引き上げる結果となった。 日本海軍ではこれを「技術輸入」と称していたという。 後に戦艦の46cm主砲を製造した秦千代吉もこの時派遣された者の一人である。 進水式 [ ] (明治45年)5月18日に進水。 同日附で「伊号装甲巡洋艦」は正式に金剛と命名された。 外国では艦首に吊るしたシャンパンボトルを割るのが通例であったが、日本側の要望で日本式に鳩の入ったを用いたところ、イギリス人が珍しがって喜んだという。 (大正2年)、金剛廻航員はにおいてと謁見した。 、中佐(金剛副長兼艦政本部艤装員)はメインデリック試験中に事故で大怪我を負い、退艦した。 後任の金剛副長は中佐。 回航 [ ] (大正2年)に竣工。 同日附で、巡洋戦艦金剛としてに登録される。 これは卯号装甲巡洋艦比叡の登録日(大正元年11月21日附)より遅く、書類上は巡洋戦艦-比叡-金剛という順番だった。 回航は、日本海軍の乗員により行なわれ、大艦であったためを通れず回りで横須賀に到着した。 11月10日、横須賀で特別観艦式がおこなわれ、は戦艦「」を御召艦として諸艦を親閲した。 建造後の影響 [ ] 世界最大、世界最強の戦艦として完成以来金剛の名は世界に轟き、日本海軍の戦力は空前絶後の飛躍を遂げた。 なお、タイガー型巡洋戦艦には全く関係はない。 シーメンス事件 [ ] アームストロング・ホイットワースとヴィッカースは軍艦の建造受注を巡って競争していた。 ヴィッカースの日本代理店にはした(元予備海軍造船総監)がおり、艦政本部長と交流があった。 協議の結果、三井取締役はヴィッカースに対し金剛のコミッションを2. 1910年(明治43年)3月、海軍機関大佐は渡英してアームストロングとヴィッカースから提出された新型巡洋戦艦の調査を行い、8月にヴィッカース有利の報告を出した。 11月17日、三井物産は230万7100ポンドで日本政府と金剛の建造契約を調印する(巡洋戦艦は209万2214ポンド)。 藤井は交友のあったヴィッカースのバーロウ造船所長から20万円の謝礼を受け取った。 松本は約40万円を受け取った。 また姉妹艦の蒸気タービン製造を三菱造船所が断ったため、ヴィッカースは1911年(明治44年)3月25日に13万2000ポンドで契約調印、藤井は1万円の謝礼を受け取った。 詳細は「」を参照 (大正3年)3月、ドイツの企業シーメンスを巡る裁判でが発覚、松本らはにかけられ処分された。 総理大臣率いるもに追い込まれた。 第一次改装までの小改装 [ ] 第一次改装までに小改装が繰り返された。 年代別に記載する。 1914年10月から翌春 - 羅針艦橋上部に前檣と結ぶ露天甲板設置。 7、8番の90cm探照灯を110cm探照灯に換装した。 1915年7月 - 1、2番の90cm探照灯を110cm探照灯に換装した。 1916年末 - 前部三脚マスト頂部の射撃観測所に方位盤照準装置を設置 し約22,000mまでの砲戦が可能となった。 主砲塔上にあった子砲(ねほう、短8cm砲)を撤去し 、8cm外筒砲を装備した。 逆風時に排煙が艦橋に流入するのを防ぐため第一煙突を高く改正、煙突頂部に防煙盾を設置した。 射撃命中率向上のため前部マストヤード前面に測的所を設置した。 1918年3月4日 - 1、2番煙突両舷最上甲板の短8砲を 8cm単装4基に換装。 前部マスト基部張り出しと第一煙突横後方の両舷探照灯を廃止、第一煙突と第二煙突の間に探照灯台を設置し、探照灯を移設した。 第二煙突の頂部に煙路雨水浸入防止キャップを取り付け。 砲塔と艦橋前面にを設置。 前部三脚マストを廃止し、射撃指揮所を含めた櫓式艦橋とした。 1925年11月1日より - 主砲仰角を25度から33度に引き上げ 、これにより最大射程を25,000mから28,500mに延伸。 砲室屋根鈑を3inから6inに増厚。 後部三脚マスト上の射撃観測所を撤去した。 第三砲塔後部の上部構造上に水上偵察機を搭載し、これに伴い機を吊り上げるデリックポストと起倒式ブームを右舷に設置した。 第一次改装 [ ] 第一次改装後の金剛 1928年(昭和3年)10月より1931年(昭和6年)9月15日まで横須賀工廠 で、主として水平・水中防御力の強化と重油への燃料移行が行なわれた。 1931年(昭和6年)6月1日付けで戦艦に艦種変更された。 主缶()である(ヤーロー式缶)36基を取り外し、改良型であるロ号艦本缶の重油・石炭混焼缶を6基、重油専焼缶を4基の計10基に変更した。 水平防御の強化。 弾火薬庫上部甲板に厚さ4inのNVNC装甲板を、機関区画は缶室や機械室上の下甲板に厚さ3inのHT強度材を追加した。 砲塔支筒の円筒部装甲板と砲塔天蓋装甲板を3in増厚し、6inとした。 煙路、通風路、揚弾筒が防御甲板を貫通する部分を4inから7inの範囲で増厚した。 対魚雷と至近炸裂弾による水中弾片防御としてバイタルパート部の側外板に厚さ1inのHT材を3-4枚張り重ねた。 主缶室外側の燃料庫内に厚さ2inのHT材縦隔壁を新設した。 前後部は水防区画、中央部は燃料タンクとして用いた。 艦の幅が広くなり水中抵抗と排水量が増加したため速力は低下したが、復原性能上有効であった。 煙突を一本減らし2本煙突となった。 重油使用の増加により従来あった石炭庫の一部は油密され給油配管艤装され重油タンクとなり、このため重油搭載総量は5,000tとなり、航続距離が14ktで2,000海里延伸された。 また煙の色が薄くなるため遠方から発見される確率が低くなった。 艦橋構造を変更し檣楼頂部に射撃指揮所を設置した。 三番主砲塔の後方に水上偵察機3機搭載設備を設置した。 水中魚雷発射装置4基を撤去した。 その他艦内全般に渡り諸艤装の改正が施された。 第一次改装から第二次改装までの小改装 [ ]• 8cm単装高角砲7基を撤去し、12. 7cm連装高角砲4基を装備した。 40mm連装機銃2基を装備した。 カタパルトを装備した。 副砲の1番、2番15cm単装砲を撤去し、砲廓開口部を閉鎖した。 第二次改装 [ ] 1935年(昭和10年)6月より1937年(昭和12年)1月まで横須賀工廠で、主として機械の換装による速力増加と兵装強化が行なわれた。 機関出力は136,000馬力に上昇し、速力30. 3kt。 燃料搭載量は6,480t、18ktでの航続距離は9,800海里となり、近代的な高速戦艦となった。 従来装備していた主缶を取り外し、ロ号艦本式大型重油専焼缶8基とした。 主機械を艦本式ギヤードタービン4基に換装した。 缶配置を変更し缶室区画を廃止、燃料タンクとした。 船体抵抗に関して有利にするため艦尾を7. 4m伸長した。 凌波性を向上するため船首材を鋭利な形状に変更。 艦橋構造と関連諸室を大幅に改造。 檣楼頂部に10mを設置、射撃指揮装置を新形式の機器に換装した。 これらの機器の振動防止のため艦橋構造檣楼の背後に太い補強支柱を設置した。 後部艦橋構造を大型化し、第二煙突からの煙と熱を避けるため傾斜をつけた。 主砲仰角を33度から45度に引き上げ、これにより最大射程を28,500mから33,000mに延伸した。 副砲仰角を30度とし最大射程を延伸、砲台座と砲廓を改正した。 水中発射管を全廃、倉庫または燃料タンクとした。 40mm機銃を撤去し25mm連装機銃を10基搭載した。 その他艦内諸艤装の改正を実施し、居住性が向上した。 第二次改装から第二次世界大戦までの小改装 [ ]• バルジ内に鋼管を配置した。 磁気機雷防止のため舷外電路を取り付けた。 注排水装置を新設した。 防毒装置を新設した。 主砲塔の装甲板を増厚した。 鋼鈑に関する風説 [ ] 金剛の装甲鋼鈑には、ヴィッカースの特殊鋼板 VC鋼板なる物が使用されており、後に日本で建造された同型3艦にもこの技術は導入され、国産化されたと伝えられている。 なお後年の改装の際に「ドリルで装甲鈑に穴を開けようとすると、国産3艦はやすやすと通ったにもかかわらず、金剛だけはドリルが折れてしまうということがあった」という話が紹介されることがあり、「ヴィッカース社製の甲鈑が使用された金剛とは違い、冶金技術で劣る国産品を使用したため」と解説されることもある。 ただし、実際には比叡も全てヴィッカーズから供給された資材を使用して建造されており 、当該装甲の部位、厚み、材質などにはまったく言及されておらず、風説の域を出ない。 ただし、改装内容そのものが比叡とその他の3隻で異なることなど考慮されてしかるべき面もある。 比叡は第一次改装で練習戦艦とされたため、金剛のように増加装甲を取り付ける必要はなかった。 正木生虎(終戦時、海軍大佐)は少尉候補生時代に1年間金剛甲板士官を勤め、第三戦隊参謀時にも金剛に乗艦した。 父親のが竣工前金剛副長として関わっていた本艦について「金剛の出来栄えは素晴らしかったと思います」「国産三艦(比叡、榛名、霧島)は細かい所でちぐはぐな点が目についたが、金剛は違った」「(艦尾延長後)船は生き物のようなもので年老いてからでも、若かりし頃の気質をそのまま、三つ児の魂百まで、依然スマートな気持ちのよい軍艦でした。 」と回想している。 第一次世界大戦 [ ] 当時、イギリスはドイツ帝国と交戦状態にあった。 日本はイギリスと日英同盟を結んでいたことから欧州への陸軍派遣と金剛型戦艦の貸与の要請を受けたが、この日英同盟は日露戦争のため結ばれていた同盟であったため、日本は遠方であることを理由に挙げてその要請を断った。 しかしドイツ軍が中国にあるを租借地として東アジアに拠点を築いたためこれを攻略するため日英同盟に従い、日本はドイツに対して宣戦布告を行った()。 これに伴い1914年8月18日、に備えて金剛は同型艦の比叡とともにに編成された。 軍縮条約 [ ] 第一次世界大戦を終えて、1921年11月11日から1922年2月6日にが開催された。 その内の軍事条約によって戦艦・航空母艦の所有数に制限が課せられた。 詳細は「」を参照 日本海軍は計画に基づき金剛と同種の巡洋戦艦を新たに8隻建造予定であったが、ワシントン海軍軍縮条約の締結によってすべて計画変更(の4隻)または計画中止(の4隻)となった。 この条約を受けて金剛は1933年には艦齢が20年に達し代艦の建造が可能となることから、の建造が計画された。 これにあわせて造船少将と造船中将がそれぞれ設計案を提出したが、1930年に開催されたで戦艦建造中止措置の5年延長が決定したため、計画は中止された。 またロンドン海軍軍縮会議での既存艦の削減を受けて、同型艦の比叡は一時的に練習戦艦となったが、日本とイタリアはで脱退を表明。 軍縮条約の期限切れを待って比叡は戦艦へと戻された。 御召艦として台湾行啓 [ ] 近代化改装後の「金剛」 時には既に現役戦艦としては艦齢のもっとも古い老艦であったが、攻防速全ての点で問題があったや操縦性に難のあるとは異なり、第二次世界大戦において活動する機会の多い艦となった。 金剛型は当初巡洋戦艦として設計されたが、第一次改装で防御の強化が行われ、垂直・水平防御は著しく強化され、改装の結果14in砲への対応防御を備えた戦艦となった金剛型は、長門型に次ぐ有力な戦艦へと生まれ変わった。 しかし、長門型以前の日本戦艦同様に全体防御方式を取る金剛型の場合は、舷側、甲板、バイタルパート部だけでなく、非バイタルパート部にまで及ぶ広範囲を防御したため、元々余裕のない装甲部分が全体的に薄くならざるを得ず、金剛型の防御は長門型と比べた場合見劣りするものであった。 ところが、金剛型は水雷戦隊とともに前衛として夜戦への参加を可能とするため に第二次改装時に機関の換装が行われた。 これにより第二次世界大戦に参加した日本戦艦では唯一30ktを超える高速戦艦となった結果、金剛型に限っては主力艦として温存するのではなく、駆逐艦並みの扱いをするようにとの意見も出された。 特に、当時の第三戦隊司令官少将(1940年11月 - 1941年9月)は、きたるべき日米戦争は局地戦の連続になると想定。 第三戦隊をあらゆる局面に積極的に投入するため『万事駆逐隊並に扱う位のつもりで鍛え上げておかねばならない』と訓戒した。 各方面の意見を集約した結果、金剛型戦艦はその性能を生かし、水雷戦隊とともに警戒部隊として機動部隊に随伴することとなった。 南方作戦 [ ] マレー沖海戦(1941年12月10日) 詳細は「」を参照 金剛型戦艦4隻(金剛、比叡、榛名、霧島)は第三戦隊(司令官中将)を編制し、さらに第三戦隊第2小隊(金剛、榛名)は太平洋戦争開戦時のに参加し、南方攻略部隊の支援任務に就いた。 に進出していたイギリス海軍の旗艦 HMS Prince of Wales と対峙する事となったが、新鋭(プリンス・オブ・ウェールズ)よりも全ての点で大幅に性能の劣る巡洋戦艦金剛型2隻による砲戦は企図されず、航空隊と水雷戦隊によってイギリス艦隊を迎え撃つことが計画された。 作戦行動中の戦艦が航空機によって沈められることはないと考え、1機の護衛戦闘機もつけず、日本側の航空機を過小評価(イタリア軍と同等以下)していたイギリス側は、この海戦の結果によって戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦 HMS Repulse を失った。 しかし、金剛型による交戦は企図されていなかったものの、実際にはプリンス・オブ・ウェールズと砲戦が可能な距離にまで一時接近していたことが作戦後に判明した。 その後、第三戦隊は金剛型4隻そろって南雲機動部隊(空母、、、、)の随伴艦となりインド洋に進出した。 3月6日、(司令官少将:蒼龍、飛龍)、第三戦隊第2小隊(榛名、金剛)、第一水雷戦隊・第17駆逐隊(、、、)は機動部隊本隊から分離、へ向かった。 空母2隻の護衛に17駆第2小隊(浜風、磯風)を残すと、別働隊4隻(金剛、榛名、谷風、浦風)はクリスマス島に対し艦砲射撃を実施した。 続いて(1942年4月5日 - 4月9日)には第三戦隊として金剛型4隻揃って参加。 (1942年6月5日 - 6月7日)には、第三戦隊第2小隊(比叡、金剛)として攻略部隊に参加する。 その後6月9日から北方作戦支援へ従事した。 ソロモン諸島の戦い [ ] ヘンダーソン基地艦砲射撃(1942年10月13日) 詳細は「」を参照 ミッドウェー海戦の敗北後、大規模な艦隊編制替により第十一戦隊(司令官少将:比叡、霧島)が編制され、第三戦隊は金剛型2隻(金剛、榛名)となった。 また中将は新編の司令長官に補され、後任として中将(前職第七戦隊司令官)が三戦隊司令官に着任した。 1942年(昭和17年)8月上旬以降のに参加。 10月13日、挺身攻撃隊指揮官三戦隊司令官の指揮下、挺身攻撃隊(第三戦隊〈金剛、榛名》、第二水雷戦隊〔第二水雷戦隊司令官少将〕、第15駆逐隊〈、、〉、第24駆逐隊〈、、〉、第31駆逐隊〈、、〉)という戦力でヘンダーソン飛行場(現)を砲撃した。 同飛行場を一時機能停止に追い込んだが完全に破壊することはできず、第四水雷戦隊が護衛していた輸送船団は空襲で大打撃を受けた。 続いて(1942年10月26日)ではのガダルカナル島での総攻撃支援に従事。 (1942年11月12日 - 15日)では挺身攻撃隊(第十一戦隊、第十戦隊)や前進部隊(第二艦隊、第四水雷戦隊)を支援。 この作戦で金剛型2隻(比叡、霧島)が沈没した。 その後(1943年2月1日 - 7日)ではガダルカナル島からの日本軍撤退のための艦艇支援に従事した。 その後、第三戦隊(金剛、榛名)をふくめ日本海軍の戦艦部隊が大規模な海戦にのぞむことは暫くなかった。 1943年7月、「金剛」と「榛名」の艦載水雷艇4隻が武装されてトラックからソロモン諸島へ派遣された という。 (1944年6月19日 - 20日)では、第二艦隊司令長官中将を指揮官とする小沢機動部隊・前衛部隊(第一戦隊〈、〉、第三戦隊〈金剛、榛名〉、第四戦隊〈〔前衛部隊旗艦〕、、、〉、第七戦隊〈、、、〉、第二水雷戦隊〈、、、、、、、〉、〈、、〉)としてアメリカ軍機動部隊艦載機と交戦、本戦闘で被弾した榛名の被害は重くレイテ沖海戦時でも最大発揮速力は26ノット程度だった。 捷号作戦 [ ] レイテ沖海戦(1944年10月23日 - 25日) 詳細は「」を参照 金剛はサマール島沖にて護衛空母、駆逐艦、護衛駆逐艦の撃沈に貢献したとされている。 栗田艦隊は10月22日にブルネイ湾を出撃、第三戦隊司令官少将は引続き金剛座乗、第二艦隊(第一遊撃部隊)指揮官第二艦隊司令長官(旗艦愛宕)の一艦としてレイテ湾を目指した。 23日早朝にはパラワン島沖で米潜水艦2隻(、)に襲撃され、重巡「」(第二艦隊旗艦)と重巡「」が沈没、重巡「」が大破して駆逐艦2隻(朝霜、長波)に護衛されて離脱という被害を出した。 愛宕沈没後の第一遊撃部隊指揮官中将は、大和に将旗を掲げた。 10月24日、第一遊撃部隊・第二部隊(第三戦隊〈金剛、榛名〉、第七戦隊〈熊野、鈴谷、筑摩、利根〉、第十戦隊〈、浦風、浜風、磯風、、、〉)はシブヤン海の対空戦闘に参加。 アメリカ軍機は主に第一戦隊(大和、武蔵、長門)を攻撃し、戦艦が沈没、重巡も脱落という被害を受けた。 第三戦隊はほぼ無傷であった。 10月25日午前6時45分、第一遊撃部隊は沖で少将率いる第七七・四任務部隊の第三群(通称タフィ3戦隊)と遭遇。 米護衛空母群は戦艦部隊(大和、長門、榛名、金剛)の先制砲撃を受け折しも到来していたスコールへと退避するために東方へと遁走。 煙幕を展張し、7時6分から次々とスコールへと逃げ込んだ。 栗田長官率いる第一遊撃部隊は第五、第七戦隊を先頭に追撃を開始し、金剛は第五、第七戦隊に後続する形で東方へと向かった。 榛名もこれに続いたがマリアナ沖海戦での推進機類故障が直っておらず26ktしか出せず金剛との距離が離れ第三戦隊は各艦がバラバラに進撃することになった。 28ktで突撃する第七、第五戦隊の後方に続行していた金剛は7時14分に駆逐艦に砲撃を加えた後スコールに突入。 同22分には航空機からの機銃掃射を受け主砲を破損(9時に修理が完了)し、スコールに突入したことから7時25分には砲撃を中止する。 同33分にはホーエルから発射されたとされる魚雷を回避する事態もあったが、その後はアメリカ艦隊を視認し予測位置とされる東南東に向けて全速で突撃した。 同59分にスコールを脱した金剛は米空母群を南西方向に発見し、8時2分から主砲副砲による砲撃を再開したのち、同5分に今度は南方へと艦先を変え落伍していたガンビア・ベイに追い迫り、重巡部隊と共に攻撃を加えた。 同20分にガンビア・ベイは金剛主砲の至近弾による機雷効果、もしくは重巡部隊主砲の水中弾により前部機関室が浸水、速度が11ktまで低下する。 その結果金剛と重巡部隊の集中攻撃を受け同45分に航行不能に陥り、9時11分に沈没した。 金剛は8時50分に「空母一隻大火災大爆発」を報じ、射撃を中止している。 金剛は同55分に「われ一四〇度方向の空母に向かう」と報告し南東方向の空母群へと向かおうとしたが、栗田長官は位置的に近い榛名に攻撃を命じたため、金剛は南西方向の空母群へと向かった。 その途中、金剛は重巡部隊の砲撃によって40発もの命中弾を受け満身創痍の状態となった護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツと9時2分に遭遇し、これに主砲を一斉射し直撃弾を与えた。 金剛の主砲弾を前部5in砲塔と後部機関室に受け、致命傷を負ったサミュエル・B・ロバーツは同35分に総員退去を行った。 この後軽巡洋艦と第十七駆逐隊(駆逐艦、、)」からの止めの砲撃を受け、10時5分に沈没している。 しかし金剛は、サミュエル・B・ロバーツとの戦闘により空母群の追撃から脱落することになってしまった。 9時11分に旗艦大和より発信された「逐次集レ」の集結命令を同25分に受信した金剛は命令に従い北上を開始した。 午後1時28分、金剛は航空機からの集中的な急降下爆撃を浴びこれまでにないかなりの損傷を受けた。 28日ブルネイに帰投した。 サマール島沖で金剛が消費した弾薬数は以下のとおりである。 主砲=98発、211発• 副砲=170発、四式通常弾177発• 高角砲=三式通常弾薬包100発、通常弾薬包2,028発• 機銃=50,230発 なおガンビア・ベイをどの艦が撃沈したか、に関しては著書によっては異説も存在し、金剛の他に大和 、羽黒 、筑摩 、利根 などの名前が上がることもある。 金剛は海戦の戦果報告として空母一隻の共同撃沈と駆逐艦一隻の撃沈を報じており 、ガンビア・ベイの戦果を単艦ではなく共同撃沈として挙げる資料もある。 また、サマール島沖での重巡洋艦の被弾に関して、第四戦隊壊滅後に鳥海が配属された第五戦隊(司令官中将)旗艦の乗組員だった戦史研究家の石丸法明が、鳥海の被弾を羽黒の艦橋で目撃した同艦通信長元良勇、被弾した鳥海からの通信を羽黒電信室で受信した信号兵南里国広二等兵曹、および当時の金剛乗組員3人の証言から、『金剛による誤射があった』という説を述べている。 金剛の見張員はすぐに鳥海を誤射したことに気付いて艦橋に報告し、金剛の島崎利雄艦長は、同艦を追撃戦から脱落させた。 金剛が鳥海を誤射したことについて、羽黒では艦長、副長から厳しい箝口令が敷かれたという。 石丸によれば誤射の原因は橋本司令官の命令を待たずに突撃した鳥海の側にあったとしている。 戦艦金剛の戦闘詳報では砲戦状況について次のように記している。 「 イ 遠距離射撃 二四〇以上 今次戦闘に於いて視界不良なると共に空母の艦型よりして測的困難にして射撃効果の発揮困難なりき」 「 ロ 中距離以内の射撃 測的比較的容易となりたるのみならず概ね電測測距を利用し煙幕内に於いても敵の発砲の青白き閃光により保續照準をなし得相当の効果を収め得たるものと認む」 沈没 [ ] サマール沖海戦後の第三戦隊(金剛、榛名)はフィリピンやブルネイを転々したのち、日本本土への帰還が決定した。 戦艦3隻(大和、長門、金剛)、軽巡洋艦1隻(矢矧)、駆逐艦6隻(第17駆逐隊〈浦風、磯風、雪風、浜風〉、〈、〉)という編成である。 11月16日、艦隊は榛名や第二遊撃部隊各艦をブルネイに残置して外洋へ出た。 11月20日、駆逐艦2隻(梅、桐)が艦隊から分離して台湾の馬公へ向かった。 これにより、護衛の駆逐艦は第17駆逐隊の4隻だけとなった。 川畑(当時桐駆逐艦長)によれば、悪天候のため大和から『桐は大丈夫か』と度々心配され、台湾基隆沖合で直衛任務を解かれたという。 川畑は「もう少し(桐と梅が)護衛を続けていたら金剛も無事だったかもしれない」と回想している。 磯風乗組員によれば、金剛側に燃料補給を依頼すると『やる油はないから、後からついてこい』との返事があったという。 11月21日零時、先頭金剛、2番長門、3番大和の順で航行する日本艦隊は正体不明の電波を探知、をやめ速度をあげて現場海域を突き切ろうとした。 艦隊の先頭を矢矧が、戦艦戦隊の右舷側を浦風と雪風、左舷側を浜風と磯風が航行していたが、台風に突入したためレイテ沖海戦で損傷していた矢矧は落伍、駆逐艦も危険な状態となっていた。 シーライオンは6本の魚雷を発射し午前3時6分、12ktで航行していた金剛左舷艦首と2番煙突下の缶室に合計2本の魚雷が命中した。 この時、長門を狙って外れた魚雷1本が護衛の第17駆逐隊司令駆逐艦の浦風に命中して浦風は轟沈、第17駆逐隊司令部、浦風の艦長以下乗組員全員が戦死している。 3隻となった第17駆逐隊は、雪風が大和と長門の護衛として現場海域を離脱。 金剛は『六・八罐室浸水、十六節、傾斜十四度』等を報告し、磯風と浜風に護衛されへ退避することになった。 鈴木司令や島崎艦長は金剛夜戦艦橋にて指揮をとった。 当時、金剛はすでに艦齢30数年と老朽化が進んでおり、レイテ沖海戦でも至近弾で浸水被害を受けていた。 魚雷命中破孔に加えての継ぎ目などからも浸水、徐々に破損箇所が広がって傾斜が増大する。 傾斜12度になり、艦長は左舷副砲指揮官兼衛兵司令の佐藤中尉を呼び、艦長公室の御真影を艦橋に移させた。 午前5時の時点でも11ktで航行しており、乗組員の誰もが魚雷2本で沈むとは考えず楽観視していたため、駆逐艦を接舷させての乗員退避は実施されなかった。 応急決死隊が潜水具をつけて作業にあたるも手遅れであり、傾斜18度で司令官及び艦長より総員退去命令が出される。 5時20分には機関が停止、10分後の午前5時30分に転覆した。 沈没直前、弾薬庫の大爆発が起きて艦中央付近にいた多くの乗員が吹き飛ばされ犠牲となった。 被雷してから沈没まで2時間があったにもかかわらず、損害の軽視、総員退艦の判断の遅れなどにより、島崎利雄艦長、第三戦隊司令官少将以下1,300名とともに沈むこととなった。 磯風、浜風は準士官以上13名、下士官兵224名、計237名を救助したとされる (浜風:准士官以上7名、下士官兵139名。 磯風:准士官以上副長以下6名、下士官兵85名)。 23日、浜風は矢矧に金剛生存者を引き渡した。 この後、第17駆逐隊は日本帰還後、横須賀へ回航される長門護衛任務につき、折り返して、を改造したの呉回航の護衛任務につくことになった。 なお金剛は、日本戦艦で唯一潜水艦の雷撃により撃沈された艦でもあった。 第二次世界大戦中に潜水艦に撃沈された3隻の戦艦の一つとなった(残りはイギリスの、イギリスのロイヤル・オークであり、いずれもイギリス製であった)。 一部連合国側戦史では、金剛を日本海軍戦艦の最高殊勲艦とされている [ ]。 (昭和20年)1月20日、金剛と重巡2隻(、)は除籍された。 戦後 [ ] 呉市海事歴史科学館に展示されている金剛のヤーロー缶 現在、金剛の慰霊碑は長崎県佐世保市の旧海軍墓地にある。 1930年の第一次改装で取り外された金剛のボイラーは現在に展示されており、に(未来技術遺産)第00002号に認定された。 金剛の沈没時に艦首に掲揚されていた軍艦旗は乗員によって回収され、この乗員が捕虜になった関係から一時、に接収されていたが、1969年に同国政府より返還され、海軍のOB会「黒潮会」によって管理されていた。 その後、2009年に会員の高齢化によって同会が解散した際、旗を回収した乗員の地元である福岡県飯塚市に寄贈され飯塚市歴史資料館に保存されている。 年表 [ ]• - イギリスのヴィッカース、造船所 で起工。 - 進水。 同日附で伊号装甲巡洋艦は「金剛」と命名。 - 竣工。 同日附で艦艇類別等級表に登録(巡洋戦艦)。 に回航される。 横須賀鎮守府に入籍。 - 横須賀に到着。 - における太平洋航路保護のため方面哨戒。 〜 - 第一次改装実施。 水平・水中防御を強化改善した結果、排水量が増え速度が低下したため、6月に戦艦に艦種変更された。 〜 - 連合艦隊旗艦となる。 その後はに移される。 〜 - 連合艦隊旗艦となる。 その後は陸奥に移される。 〜 - 連合艦隊旗艦となる。 その後はに移される。 〜 - 佐世保鎮守府移籍。 第二次改装実施。 ボイラーと主機を換装、また長距離砲戦能力を強化した。 機関出力は2倍になり速度は建造時を上回る30ktに達し、高速戦艦に生まれ変わった。 12月〜 開戦時ににいたイギリス海軍東洋艦隊の旗艦と対策として僚艦のとともに。 その後、空母機動部隊に随伴してに参加。 - 榛名とともにの。 10月 - に参加、サマール島沖でサミュエル・B・ロバーツを損傷、ガンビア・ベイに距離2,000mまで接近し砲撃。 - からの帰還中にで午前3時6分、アメリカ海軍のの魚雷攻撃に遭い魚雷6本中2本が金剛左舷に命中し、午前5時30分に北方で沈没した。 - 除籍。 主要目一覧 [ ] 要目 新造時計画 (1913年) 1次改装後 (1930年) 2次改装後 (1938年) 最終時 (1944年) 常備:27,500t 基準:29,330t 基準:32,200t 公試:36,314t 全長 214. 6m 222m 全幅 28. 04m 31. 02m 吃水 8. 38m 8. 65m 9. 6m 主缶 式混焼缶36基 4基 同混焼缶6基 ロ号艦本式缶8基 主機 式直結タービン2基4軸 4基4軸 軸馬力 64,000shp 136,000shp 速力 27. 5kt 26kt 30. 6cm連装砲4基 副砲 毘式15. 2cm単装砲16門 同14門 同8門 高角砲 なし 短8cm砲7門 12. 副砲廓152mm? 空白は不明。 1944年は推定を含む。 公試成績 [ ] 状態 排水量 出力 速力 実施日 実施場所 備考 竣工時 27,580t 78,275shp 27. 54kt (大正2年)5月8日 英国クライド湾 1改装後 25. 374kt (昭和6年)8月4日 館山沖標柱間 2次改装後 30. 大佐:1912年12月1日 - 1913年12月1日 *兼海軍艦政本部艤装員(- 1912年8月16日)• 大佐:1913年12月1日 - 1914年12月1日• 松岡修蔵 大佐:1914年12月1日 - 1915年12月13日• 荒川仲吾 大佐:1915年12月13日 - 1916年12月1日• 大佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日• 金丸清緝 大佐:1917年12月1日 - 1918年4月9日• 大佐:1918年4月9日 - 1919年4月1日• 大佐:1919年4月1日 - 1919年11月20日• 田尻唯二 大佐:1919年11月20日 - 1920年11月12日• 大佐:1920年11月12日 - 1921年11月20日• 武光一 大佐:1921年11月20日 - 1922年12月1日• 関干城 大佐:1922年12月1日 - 1923年11月20日• 大佐:1923年11月20日 - 1924年11月1日• 大佐:1924年11月1日 - 1925年12月1日• 大佐:1925年12月1日 - 1927年12月1日• 大佐:1927年12月1日 - 1928年12月10日• 池中健一 大佐:1928年12月10日 - 1930年12月1日• 池田敬之助 大佐:1930年12月1日 - 1931年12月1日• 日暮豊年 大佐:1931年12月1日 - 1932年12月1日• 大佐:1932年12月1日 - 1933年11月15日• 三木太市 大佐:1933年11月15日 - 1934年11月15日• 大佐:1934年11月15日 - 1935年11月15日• 大佐:1935年11月15日 - 1936年12月1日• 大佐:1936年12月1日 - 1937年12月1日• 大佐:1937年12月1日 - 1938年11月15日• 大佐:1938年11月15日 - 1939年10月20日• (兼) 大佐:1939年10月20日 - 1939年11月15日• 大佐:1939年11月15日 - 1941年4月15日• 大佐:1941年4月15日 - 1941年8月15日• 大佐:1941年8月15日 - 1942年12月26日• 大佐:1942年12月26日 -• 島崎利雄 大佐:1943年7月17日 - 1944年11月21日戦死 同型艦 [ ]• 金剛に関係した軍備計画 [ ] いずれも計画のみで実際には計画変更や中止によってほぼ実現しなかった計画である。 (、)• () 金剛のプラスチックモデルキット [ ]• 109 「日本戦艦 金剛」() ウォーターラインシリーズ。 1993年発売。 023 日本海軍高速戦艦 金剛 1944年10月()• 006 日本海軍高速戦艦 金剛 1944年10月(フルハルモデル)(フジミ模型)• 35 第二艦隊 第三艦隊 1944年 金剛・榛名セット(フジミ模型)• ちび丸艦隊シリーズ No. 3 ちび丸艦隊金剛(フジミ模型)• 07 艦娘 戦艦 金剛(青島文化教材社)• 05 日本海軍高速戦艦 金剛(フジミ模型)• 同シリーズの霧島の流用品。 1057-1087、昭和3年2月14日 内令43 艦船要目公表範囲のp. 1058では、明治45年4月2日進水となっている。 ただし、前弩級戦艦であった敷島型戦艦が工作艦として太平洋戦争に実戦参加。 この2社は1927年に合併しとなった。 長崎県佐世保市の佐世保東山海軍墓地にある金剛の慰霊碑の碑文の文字の中に「 10月25日敵機動部隊とサマール島沖にて遭遇、数千米の至近距離にて一大砲撃戦を展開、空母1駆逐艦2を撃沈せり」という一文が刻まれている。 風上が東であった。 直線的に突き進んだ他の艦艇は激しいスコールと護衛駆逐艦の煙幕に視界を奪われた。 31kmの長距離射撃をガンビア・ベイに命中させたという類のものが多い。 出典 [ ]• 1058-1059、昭和3年2月14日 内令43 艦船要目公表範囲。 3『達第百九號 艦艇類別等級別表中比叡ノ次ニ金剛ヲ加フ|大正二年八月十六日 海軍大臣 男爵 斉藤實』• 229-231• 71-83「日本初の超弩級金剛型の誕生」。 213-234「金剛型の建造」。 2『金剛 戦艦 199. 21米 28. 04米 8. 38米 基準29,330頓 速力26. 0節 短艇籔13 英国毘社 明治44-1-17 明治45-5-18 大正2-8-16 36cm…8 15cm…16 12. 7cm高角 発射管-4 探照燈6 タルビン4 艦本式10 推進器數4 馬力64,000』• 落合康夫「戦艦『金剛』行動年表」、39頁。 31『内令第五〇號 軍極秘 呉鎮守府在籍 軍艦 熊野 佐世保鎮守府在籍 軍艦 金剛 軍艦 那智 右帝國軍艦籍ヨリ除カル 昭和二十年一月二十日 海軍大臣』• 222• 『歴史群像太平洋戦史シリーズ65 決定版 金剛型戦艦』p. 133• 『日本戦艦物語1』p. 346• 6『達第五十八號 英國ニ於テ建造ノ伊號装甲巡洋艦ヲ金剛ト命名セラル 明治四十五年五月十八日 海軍大臣 男爵 齋藤實』• 5『艦艇類別等級表 軍艦 戦艦 金剛型 金剛、榛名、霧島』• 121頁• 43-44• 『日本戦艦物語I』p. 59-61「戦艦史をかざる四人の造艦設計者」• , pp. 119-120軍艦金剛廻航員に謁を賜ふ• 73頁• 18『達第五十三號 艦艇類別等級別表中巡洋戦艦ノ欄伊吹ノ次ニ比叡ヲ加フ|大正元年十一月二十一日 海軍大臣 男爵 斉藤實』• , p. 122頁• 136頁• 133頁• 『歴史群像太平洋戦史シリーズ65 決定版 金剛型戦艦』p. 115「建造ドキュメント:第2章 巡洋戦艦『金剛』の建造」• 『日本海軍艦艇写真集 戦艦金剛・比叡』38頁(光人社)• 『日本海軍艦艇写真集 戦艦金剛・比叡』38頁(光人社)• 111頁• 『歴史群像太平洋戦史シリーズ65 決定版 金剛型戦艦』p. 125• 『戦史叢書 海軍軍整備 1 』p. 610• 86頁• 田口康生「愛しの「雪風」わが忘れざる駆逐艦 海の真剣勝負に勝ちぬいた栄光の武勲艦の記録」『駆逐艦「神風」電探戦記 駆逐艦戦記』光人社、2011年、、93ページ• 『日本海軍艦艇写真集 戦艦金剛・比叡』34頁(光人社)• 186-189「サマール島沖での一大追撃戦」• 『日本海軍艦艇写真集 戦艦金剛・比叡』35、36頁(光人社)• 『日本海軍艦艇写真集 戦艦金剛・比叡』37頁(光人社)• 『日本海軍艦艇写真集 戦艦金剛・比叡』37頁(光人社)• 佐藤和正『レイテ沖海戦 下巻』 光人社NF文庫• 『歴史群像太平洋戦史シリーズ65 決定版 金剛型戦艦』や雑誌「丸」2014年3月号『金剛型戦艦』等• 19、442頁• 443頁• 241頁• 7、381頁• 384頁• 243-245頁• 103頁• 382頁• 「」 Ref. C13072081700 参考文献 [ ]• (防衛省防衛研究所)• 軍艦金剛』。 Ref. B07090362100。 外務省外交史料館• Ref. Ref. Ref. Ref. Ref. C13072003500『昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿巻2. Ref. Ref. C08030147000『昭和19年11月1日~昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報 1 』。 Ref. C08030567100『昭和19年10月22日~昭和19年10月28日 軍艦金剛捷号作戦戦闘詳 3 』。 Ref. C08030037400『昭和19年10月17日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦闘詳報 比島方面決戦 1 』。 井上理二『駆逐艦磯風と三人の特年兵』光人社、1999年9月。 泉江三『 軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上』グランプリ出版、2001年4月。 著、発行人『戦藻録 明治百年史叢書 第九版』原書房、1968年1月。 小沢提督伝刊行会編『 回想の提督 小沢治三郎』原書房、1971年3月。 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。 片岡紀明『最後の海空戦 若き最前線指揮官たちの日米戦争』光人社、2003年12月。 図書寮編『大正天皇実録 補訂版 第四 自明治四十五年至大正四年』株式会社ゆまに書房、2019年6月。 『艦長たちの太平洋戦争 続編 17人の艦長が語った勝者の条件』光人社NF文庫、1995年12月。 「勝敗の分岐点」<駆逐艦「桐」艦長・川畑誠少佐の証言>• 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 『雪風ハ沈マズ 強運駆逐艦栄光の生涯』光人社NF文庫新装版、2004年。 ・・『連合艦隊・戦艦12隻を探偵する』株式会社PHP研究所、2011年12月。 『福井静夫著作集第1巻 日本戦艦物語I』光人社• 福田幸弘『連合艦隊-サイパン・レイテ海戦記』時事通信社、1981年。 防衛研修所戦史室『海軍軍戦備 昭和十六年十一月まで』第31巻、、1969年。 防衛庁防衛研究所戦史室『戦史叢書 海軍捷号作戦 2 』朝雲新聞社、1972年。 『正木義太傳および補遺 一海軍士官の記憶』文藝春秋、2009年11月。 、訳『モリソンの太平洋海戦史』光人社、2003年8月。 『大英帝国の』、1997年8月。 『歴史群像太平洋戦史シリーズ21 金剛型戦艦』学習研究社 1999年• 『歴史群像太平洋戦史シリーズ65 決定版 金剛型戦艦』学習研究社 2008年• 『日本海軍艦艇写真集 戦艦金剛・比叡』光人社• 画報社、1913年11月。。 関連項目 [ ]• (サマール沖海戦)• - でを教えていたことが縁で(大正6年)に巡洋戦艦時代の金剛へ搭乗し、その時の体験を『』に記している。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 、 無軒書屋ほか, 1931.

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Гангут два

艦 これ 愚痴 wiki

占守型海防艦の改良型として建造され、 佐世保鎮守府の部隊に配属されました……。 船団護衛や、対潜掃蕩部隊として働きます。 船団の被害を減らすため……敵潜水艦と戦いました……。 でも……。 潜水艦は……怖い……。 あの……択捉ちゃん……私も…頑張ります……。 はい、松輪は……あの、佐世保へ……。 あけまして、おめでとう、ございます。 今年もよ、よろしく、おねがいいたします。 桜がきれい……。 択捉ちゃん、海防艦でお花見? はい。 松輪もお料理、作ります。 五周年、おめでとうございます! 松輪も、私もお祝い、いたします。 七周年、おめでとうございます! 松輪もお祝いいたします、はい。 択捉ちゃん、私も、てるてる坊主作ります。 ……怖い。 ……すみません。 少し苦いけど、美味しいです。 私、好きです。 ……あ、択捉ちゃん、ケーキを……はい。 ここも、こうやって拭いて……ここも磨いて…… ケッコンカッコカリ 反転 択捉ちゃん、なに? え、司令が? 私を? 何か大きな失敗してしまった…あ、あの択捉ちゃん! ごめんなさい、付いて来てもらっても…え、だめ?! そ、そんなぁっ! ケッコン後母港 反転 あの、指令! お茶を…あ、あつっ?! あ、すみません! 今、拭きますから…。 編成 海防艦、松輪…抜錨、です! 出撃 第一海上護衛隊、松輪。 出撃いたします……! 海防艦、松輪…抜錨、です! 遠征選択時 敵潜?……あ……違うみたい……。 アイテム発見 敵潜?……あ……違うみたい……。 開戦 ふぇ?ふえぇ?ふえぇぇ!?て、敵、ですか? 夜戦開始 突入します、みなさん続いてください。 補給 助かり、ます……。 敵潜?……あ……違うみたい……。 入渠(小破以下) す、すみません……! 入渠(中破以上) す、すみません、ごめんなさい……!はぅ……。 建造完了 新造艦が、お待ちのようです。 戦績表示 報告書ですか……?お待ちください……。 轟沈 反転 怖い……、怖い……!怖い!司令っ!助けて! 時報 放置時 司令、あの……!あ、……お忙しそう、ですね……あの、司令……私、ここで待って、ます……。 ゲームにおいて• 2017年8月12日、夏イベント「西方再打通!欧州救援作戦」の後段作戦開放と共に実装。 E-5のボスでドロップする。 2017年9月29日より開始されたで1-5 未邂逅限定 ,6-1,6-5のボスでドロップした。 開始当初はという告知だったが、同様に常設化した可能性がある。 姉であるのお買い物mode(三越の描き下ろしイラスト)の左腕に提げていたカゴに彼女のぬいぐるみが描かれていたため、実装が示唆されていた。 姉のと同様に幼い容姿であり、気弱な性格も相まって父性や母性を刺激される提督が増えつつある模様。 そばかすがある。 第1期ではわかりにくかったが、第2期で解像度が上がったことにより、わかりやすくなった。 肩をパフスリーブ状に膨らませており、もこもこの前で袖が絞っているなど制服にお嬢様っぽいアレンジがされている。 また、袖のもこもこと同色のリストバンド付き手袋を着けているのが中破時の左手首で判る。 この手袋は択捉型の標準装備のようだ。 1942 2. 20 「松輪」と命名 11. 13 進水 1943 3. 23 竣工。 同日附で佐世保鎮守府に置籍し、佐世保鎮守府警備海防艦となる 4. 1 南西方面艦隊第1海上護衛隊北支隊に編入 以降は主に船団護衛を行う 1944 1. 26 佐世保にて機関修理・電波探知機設置工事を行う(~1. 31) 4. 25 佐世保にて整備を行う(~5. 13) 7. 28 草垣と共に第3掃蕩小隊を編成 8. 7 草垣が戦没。 第2掃蕩小隊に編入 8. 16 谷口信義中佐以下第3掃蕩小隊を再編( 松輪///) 8. 17 ヒ71船団について行動 8. 22 マニラ湾に入港する直前、米軍潜水艦2隻の奇襲を受け日振、佐渡と共に戦没。 艦長以下134名戦死 8. 24 第3掃蕩小隊解散 10. 05 - 1943. 23 第1代 1943. 23 - 1943. 12 第2代 藤本榮左 少佐 1943. 12 - 1944. 25 - 1944. 22戦死• 艦名は千島列島の中部にある松輪島にちなむ。 戦前及び戦後に同名の艦はいないため現在1代限りである。 松輪島は火山島で、戦時中は海軍の飛行場があり、最大で8000名ほどの兵が駐留していた。 彼らは1944年6月、松輪島大和湾に侵入し、停泊する輸送船を次々と攻撃した米潜水艦「ヘリング」を陸上砲台で砲撃し撃沈している。 命名元の島も対潜攻撃で戦果を挙げていた? なお、島の火山である「芙蓉山 ロシア名:サリチェフ山 」は、「千島富士」と呼ばれる程山体が美しい山として知られているが、近年は噴火活動が活発となっており、2009年の噴火では噴煙の影響で航空路が一時閉鎖になっている。 松輪は現在一般的には「択捉型2番艦」として認知されているが、当時の海軍の艦艇類別等級では「占守型6番艦」であり、択捉型という類別自体存在していない。 まあ千歳型も龍鳳型も類別上は「瑞鳳型」としていた海軍では、択捉型と占守型の差など些細なものだったのかもしれないが……。 竣役後はと入れ替わる形で第一海上護衛隊に所属し、台湾やフィリピン方面で海上輸送護衛に従事する。 完成後、彼女は酒保物品を呉で満杯に詰め込んだ。 ところが事務の手違いだろうか、佐世保に行くとそこでも「予定していたから持っていけ」と1隻分の酒保物品が支給された。 丸々2隻分の酒保物品を満載した彼女は、南方前線基地にとってはまさに宝船。 松輪は行く先々で大歓迎を受けたという。 なんせ小さな艦なので酒保倉庫も小さい。 溢れた物資は近くの兵員居住区の床に山積みとなった。 下士官兵たちはハンモックを使わず、白鹿や千福といった銘酒の大箱、あるいは虎屋の羊羹や各種お菓子の大箱の上で寝ている始末だったという。 実は彼女も騒動を巻き起こしている。 それも・の敬礼問答とは逆の形で。 竣工後はじめての海上護衛任務で、門司から無事に台湾・高雄港へ入港したときのこと。 港には大型の特設軍艦や輸送船、颯爽とした駆逐艦たちが目白押しに停泊しているなか、小さな彼女はその隅っこへ遠慮がちにもぐり込んだ。 翌朝、松輪主計長の部屋に信号下士官が慌てて飛び込んできた。 「本艦が港内の最先任艦のようです!軍艦旗揚げ方の指揮艦になれと他の艦がしきりに催促しています!」 驚いて見回せば、港内全艦船が手旗信号や発光信号を総動員、「貴艦ノ小田原中佐ガ最先任ナリ指揮ヲ執ラレタシ」と大騒ぎで松輪へ呼びかけていた。 朝の軍艦旗掲揚はその場の最先任の艦長が指揮を執る決まりである。 各種大型艦船がズラリと居並ぶ中で、なんと一番小さな松輪が最先任だったのである。 時すでに掲揚5分前、もはや迷ったり調べているヒマはなかった。 とっさの決断で「本艦、指揮を執れ!」の命一下、なんとかギリギリで五秒前の信号旗掲揚に間に合った。 なぜこんなことが起きたか。 松輪も最初は御紋章を付けた軍艦になる予定だったところ、建造工事中に海防艦は軍艦籍から外された。 しかしすでに「軍艦」に見合った艦長の予定者として、大佐昇進の間近い小田原中佐が松輪艤装員長に内定していた。 一旦決まった人事異動はポストの兼ね合いでそう簡単には変更できない。 やむなくそのまま、小艦艇には不釣り合いな艦長をいただいていたのである。 そんな艦が「これだけ艦船がいれば誰か上級者がいるだろう」とノンビリしていた結果、軍艦旗が揚がらないという帝国海軍始まって以来の大椿事を起こしかけたのだった。 1944年5月、松輪は妹で旗艦の「壱岐」と「第九号海防艦」「第十五号海防艦」と組み、本土からマニラ経由でシンガポールへ向かう輸送船団「ヒ63」を護衛する。 マニラに無事寄港し、シンガポールへ向かったが、5月24日に米潜水艦「レイトン」の攻撃を受ける。 船団を守る事は出来たが妹の「壱岐」は真っ先に攻撃を受け沈没、松輪も損傷しシンガポールで応急修理の上佐世保に帰還、ドック入りする事になる。 尚、壱岐沈没時に座乗していた第一護衛船団司令官の伊集院松治少将も戦死する。 父は海軍元帥で伊集院信管を発明した「伊集院五郎」、弟はやの艦長を歴任した「大野竹ニ」少将という海軍一家の出身で、自身も開戦時は第二艦隊旗艦の艦長として第三次ソロモン海戦等に参戦、その後第三水雷戦隊司令官としてブーゲンビル島沖海戦を戦い、旗艦沈没後も漂流中を潜水艦に救助され生還するなど、殆どを前線で戦っていた人物であった。 最期は1944年8月22日午前5時頃、バシー海峡での対潜掃蕩を打ち切り、マニラ港に向かう最中のことだった。 『駆逐艦殺し』の異名を持つ米潜水艦「ハーダー」とその僚艦「ハッド」という、ベテラン中のベテランの群狼チームに捕捉されてしまったのである。 「ハーダー」の発射した魚雷は松輪の前部へ命中、松輪は艦橋より前方の艦首部をもぎ取られ航行不能に陥った。 またこのとき、ほぼ同時にへも「ハーダー」の魚雷が、さらにには「ハッド」の魚雷が命中、3隻が一瞬にして航行不能に陥ってしまったのだった。 次第に明るくなる夜明けの海上で、松輪は残った艦後部が海に逆立ちし三番砲が虚空を向いた哀れな姿となり、日振に至っては後甲板のみがわずかに浮いているだけだったという。 しかし、松輪は諦めなかった。 その残った三番砲で砲戦用意をかけ、あくまで敵潜水艦に対抗するかまえを見せた。 だが午前7時30分、「ハーダー」「ハッド」の攻撃が再び3隻を襲った。 動けない半死半生の3隻は、もはや俎上の鯉に等しかった。 松輪は凄まじい轟音とともに大爆発を起こし轟沈。 日振も瞬時にして轟沈。 佐渡は迫りくる魚雷へ主砲、機銃、さらには小銃までも必死に撃ちまくったが効果なく、同じく轟沈の運命をたどった。 投げ出され漂流する3隻の乗員たちの眼の前で、敵潜水艦は堂々浮上して盛んに写真を撮り、悠々充電して去っていったという。 最後の戦闘となったヒ71船団およびマニラ沖での戦闘では、護衛していた多数のタンカーや輸送船だけでなく、多数の護衛艦艇が沈没している。 ヒ71船団では護衛空母、給油艦、陸軍特殊船玉津丸、海防艦、海防艦松輪、海防艦。 さらには、ほぼ同時にマニラに接近していたタマ24A船団の駆逐艦、駆逐艦夕凪。 なお、これらに攻撃を行い大戦果を上げていた米潜水艦「ハーダー」もまた、反撃で沈没している。 アメリカ軍がとった複数の潜水艦による「群狼戦術」を前に、日本の護衛艦艇の能力では全くの無力で、逆にほぼ一方的に狩られることになってしまい、以降の海上護衛体制の見直しを迫られることとなってしまった。 最新の15件を表示しています。 マツワチャン…アンヨヲヒロゲテ オマタヲミセテ…アッアッ… -- 2020-01-24 金 09:18:13• 艦これには、変態提督ばかりじゃなくて、キャラクターを純粋に好きなファンだっているんだから、こういう性的な書き込みを少しは規制して欲しいわ。 俺からしたら、変態も荒らしと同レベル。 -- 2020-01-24 金 09:44:15• まぁ、それは他のページにも言えることだし、今更でもあるんだけど。 ただ、個人的にここのコメント欄はワンパターン過ぎて面白くない。 半角カタカナばっか。 -- 2020-01-24 金 10:24:14• 自分の気に入らんものは排除されるべきって考えも同レベルだってそれ一 -- 2020-01-24 金 22:46:54• 朝潮あたりから既にひどかったから、ヒワイな書き込みをしても当たり前という風潮が浸透してしまった、、、その当時から節度を欠いた書き込みが総叩きされていれば違っていたとは思う 多分、もう手遅れ -- 2020-01-25 土 04:28:27• うーん、どう考えても上の書き込み内容おかしいでしょ。 厳格なwikiはやりづらいけど、ここはちょっと野放しすぎる -- 2020-01-25 土 05:14:23• 無価値なお気持ちだ。 壁とでも話してるんだなってやつ -- 2020-02-01 土 09:24:21• まだ7-2-1で落ちるのか・・・たまげたなぁ。 -- 2020-01-26 日 21:07:14• 中破入渠ボイスで過呼吸起こしそうになった ざいあくかん すごい -- 2020-01-27 月 22:43:18• 演習相手の松輪単艦にレベル1伊168で完全敗北。 満足した。 -- 2020-01-29 水 20:14:58• この娘ら豆何粒くらい食べるんだろね。 歳のせいか最近豆まきの豆が美味くて年齢以上食べてしまうわ -- 2020-01-29 水 20:32:54• 炒り大豆で少し食った後、醤油味付けした出汁に浸して味付け大豆にするといくらでも酒が消える -- 2020-02-01 土 19:50:30• 豆交換画面のボイスって新規なの? バレンタインのボイスのボツテイクを使ったとかかな? -- 2020-02-05 水 21:55:30• ワイはバレンタインボイスを切り取った…と思った -- 2020-02-18 火 11:12:40• 海防艦の改修任務でどん底に突き落とされたら集積の所でマツワチャン。 君はいつもここで海防!って願った時出てくれるよなぁ…7-2-1でも何度も会えたし、流石にこっちも思い入れが生まれるよ。 -- 2020-03-06 金 06:48:02• カーソル合わせで出てくる台詞が、夏限定グラにクリスマス時のが反映される。 更にクリスマス限定グラの方は生ファイル名になってるね -- 2020-03-16 月 18:14:39• 直してみた。 -- 2020-03-29 日 18:15:04• 7周年イラストでベ~イの血を引いたマツワチャン -- 2020-05-08 金 18:08:22• 6周年の時もやで -- 2020-05-09 土 18:08:28• 改めて大破を見ると、お尻に悪戯したくなるなあ・・・。 -- 2020-06-24 水 12:18:28• 座薬を差し込みたい、ぽろん! -- 2020-06-24 水 12:20:28• マツワチャンのレモンシロップ…アッアッ… 味見させてね… -- 2020-07-05 日 12:02:21• 松輪味のかき氷 松輪ちゃんのおしっこシロップ -- 2020-07-15 水 18:57:09• ぜったい美味しい -- 2020-07-21 火 22:22:00• 新しい海防艦の子がいう「松のあねご」に超反応して、松輪が俺のもとから離れなくなったわ -- 2020-07-18 土 15:41:29• イヨ掘りの為に、E-4で最終ボスマスに向かう度に「敵潜?…あ…違うみたい…」と言うマツワチャンに「や、敵潜水艦だし」とツッコミを入れている今日この頃 -- 2020-07-26 日 08:47:16.

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