皇后 年齢。 神功皇后の年代 : 古代史探訪

神功皇后の年代 : 古代史探訪

皇后 年齢

神功皇后の年代推定 古代史の復元) 神功皇后の年代推定 日本書紀の年代改ざん 大陸及び朝鮮半島の出来事は、百済及び新羅がAD345年を境に半年一年暦から中国暦に変わったと考えればほぼ完全に資料が一致する。 しかし、日本書紀の年代は神功皇后時代は部分的に一致しない時期がある。 ここでは、仲哀天皇崩御から仁徳天皇即位までの日本書紀の年代と中国史書の年代の照合をしてみようと思う。 日本書紀では神功皇后を卑弥呼の時代に重ねるために、神功皇后前後の年代を120年ずつ引き延ばしているのである。 神功皇后よりも前は垂仁天皇で60年、景行・成務両天皇で60年の合わせて120年の加算がなされていた。 それに合わせて、神功皇后の後の時代も120年加算されている。 応神天皇から雄略天皇の間に120年の加算がなされているのである。 神功皇后よりも前の加算は干支が加算前とほとんど一致しているので、元の出来事を復元するのにそれほど苦労はしないが、神功皇后より後の加算は、半年一年暦の干支と中国暦の干支が混在しているので、大変複雑となっている。 この項と倭の五王の項でそれを解明してみようと思う。 古代史の復元で推定した、天皇の在位期間と古事記・日本書紀との比較 古事記日本書紀 古代史の復元 世数 代数 天皇 崩年干支 宝算 太歳干支 崩年干支 在位 即位前空位 宝算 即位 崩年 中国干支 半年干支 在位 7 10 崇神 戊寅 168 甲申 辛卯 68 120 245. 5 278 辛卯 32. 5 8 11 垂仁 153 壬辰 庚午 99 140 278. 5 297. 5 庚午 19 9 12 景行 137 辛未 庚午 60 106 298 320 乙卯 22 10 13 成務 乙卯 95 辛未 庚午 60 107 321 327. 5 庚午 6. 5 11 14 仲哀 壬戌 52 壬申 庚辰 9 1 52 328 332. 5 庚辰 4. 5 11 神功 100 辛巳 己丑 69 100 333 389 己丑 34 12 15 応神 甲午 130 庚寅 庚午 41 110 367 394 甲午 27 13 16 仁徳 丁卯 83 癸酉 己亥 87 2 397 427 丁卯 30 14 17 履中 壬申 64 庚子 乙巳 6 70 428 432 壬申 4 14 18 反正 丁丑 60 丙子 庚戌 5 433 437 丁丑 4 14 19 允恭 甲午 78 壬子 癸巳 42 1 438 459 癸巳 21 日本書紀は神功皇后の年代を卑弥呼の年代に重ねるために、神功皇后と倭の5王時代の間に120年ほど挿入している。 その関係で古事記の崩年干支と日本書紀の干支が一致していない。 応神天皇の崩年以降は古事記の崩年干支が外国資料とよく一致している。 よって、345年以前は日本書紀の年代がほぼ正確であるが、それ以降は古事記の年代がほぼ正確といえる。 神功摂政元年の謎 神功摂政元年は333年前半の半年間である。 日本書紀のこの期間の出来事をまとめると次のようになる。 仲哀9年(332年後半) 春2月 仲哀天皇崩御 3月1日 皇后斎宮に入る。 3月17日 香椎宮から松狭宮に移る。 3月20日 層増岐野に行き羽白熊鷲を殺害 3月25日 山門県に行き、田油津姫を殺害 4月3日 肥前国松浦県訪問。 香椎宮に戻る 9月10日 諸国に令して船舶を集め、兵を練る。 10月3日 新羅征伐に出港 12月14日 応神天皇生誕 神功摂政元年(333年前半) 2月 豊浦宮に移る。 香坂・忍熊皇子が反乱をおこす。 3月5日 忍熊王殺害 この半年間にあった出来事は日本書紀だけでこれだけある。 神社伝承を探ると、神社本庁発行平成祭データに神功皇后の具体的訪問伝承を持つ神社が、大阪府16社、兵庫県31社、和歌山県10社、岡山県5社、広島県5社、香川県2社、愛媛県1社、山口県13社、福岡県53社、長崎県7社、大分、熊本1社ずつである。 「滞在した」「兵を集めた」「神を祀った」というものが多い。 この他にも瀬戸内沿岸から北九州地方にかけて、地域伝承が相当数存在して整理することすら困難な状況である。 季刊邪馬台国97号「特集神功皇后第2弾」によると旧筑前国だけで186か所の伝承地が記載されている。 この伝承の中にはでたらめもあるかもしれないが、ほとんど真実を伝えているとすると、半年(180日前後)の間にこれだけの地域を回っていることになる。 また、これら伝承は神武東遷伝承と違い一つの伝承にまとまっているわけではなく、近くにある伝承も互いに関連性が薄いことが多い。 これらの結果から神功関連伝承は半年の間の出来事ではなく、数年(あるいは数十年)の間の出来事が半年の間の出来事に集約された者と考えられる。 これらさまざまな伝承をもとに、真実の姿を復元してみよう。 新羅征伐年代の特定 日本書紀によると、神功皇后が新羅征伐をしたのは332年後半であるが、当の相手国である新羅の記録にはこの時の記録がないのである。 都合が悪いので記録されなかった可能性はあるが、新羅の記事との関連性を検討してみよう。 新羅本紀の倭国関連記事 新羅本紀には奈解王12年(276年=崇神63年)に新羅に倭人が侵入して以来、散発的な戦いの状況が記録されているが、基臨王2年(322年=景行49年)に使者を交換して和平が成立し、その後しばらくは争った記録がない。 次に争いの記録が登場するのは、訖解王36年(346年=神功26年)の記事である。 「春二月、倭王が国交断絶の国書を送ってきた。 倭軍が突然襲来し、辺境地帯を侵した。 さらに金城までを包囲して攻撃したが、城を閉じて持久戦に持ち込んだところ、倭軍は退散した。 」 というものである。 この後は奈勿王9年(364年=神功44年)の記事 「夏四月、倭兵が大挙して侵入してきた。 王は草人形を数千個作らせて衣服・兵器を持たせ、吐含山の麓に並べさせた。 さらに勇士千人を伏兵として待ち受けさせ、敵をおびき寄せてから不意打ちを仕掛けさせたところ、首尾よく倭兵を打ち破った。 」 この後倭国と和平が成立したのは、実聖王元年(402年=仁徳11年(半年暦))で、 倭国と国交を結び、奈勿王の王子・未斯欣を人質とした。 と記録されている。 新羅本紀ではこの期間が倭と新羅の戦いの期間となっている。 日本書紀の新羅関連記事 仲哀9年(332年後半) 新羅の王波沙寝錦(寝錦は王の意)は、微叱己知波珍干岐を人質とし、金・銀・彩色・綾・羅・糸兼絹を沢山の船にのせて、軍船に従わせた。 それ故新羅王は、常に沢山の船で、貢を日本に送っているのである。 一説 新羅王宇留助富利智干は、お出迎えして頭を地につけ、「手前は今後、日本国においでになる神の御子に、内官家として、絶えることなく朝貢をいたします」と申し上げた。 5年(335年) 新羅、人質だった微叱許智伐早(ミシコチホッカン)王子を取り戻す。 葛城襲津彦、新羅に到り草羅城を落とす。 47年(367年) 百済が久? ・弥州流・莫古を送って朝貢させたが、途中で新羅に捕らえられ、朝貢品を無理やり交換させられたと言うので、千熊長彦を遣わして真偽を問わせる。 49年(369年) 春3 月に荒田別、鹿我別を将軍とし、久? 等と共に軍士を率いて渡り卓淳国に至り新羅を襲撃しようとした。 その時誰かが言った。 「兵士の数が少なく新羅を撃破できません。 もう一度沙白と蓋盧を奉じてまつり上げ軍士を増員するよう要請しましょう」 そこで木羅斤資と沙沙奴跪〈この二人はその姓を知ることのできない人物である。 ただ木羅斤資という者は百済の将軍である。 〉に命じ、精兵を率いさせ沙白、蓋盧と共に送った。 みな卓淳に集まり新羅を攻め破った。 これにより比自、南加羅、国、安羅、多羅、卓淳、加羅の7国を平定した。 再び軍士を移動し西へ回り古奚津に至り、南蠻、忱彌多禮を取り百済に与えた。 そこで、その王肖古と王子貴須も軍士を率いて来て集まった。 この時比利、辟中、布彌支、半古の4 邑が自ら降伏した。 62年(382年) 葛城襲津彦に新羅を討たせるが、美女に惑わされて討たず、かえって加羅国を攻撃する。 百済の木羅斤資を遣って討たせ、加羅を恢復する。 このように新羅本紀と日本書紀は全く照合しない。 そこで、内容を細かく検討してみることにする。 仲哀9年神功皇后が新羅征伐をした時の新羅王は波沙寝錦とされているが、これは、第4代新羅王婆娑のことと思われ、3世紀前半の人物である。 新羅王婆娑と戦ったのは卑弥呼と思われ、卑弥呼の事績が神功皇后の事績として挿入されていることになる。 次に同じ仲哀9年1説中の新羅王宇留助富利智干は第10代奈解王の長子であり、第16代訖解王の父である「于老」のことであると思われる。 于老と倭の関係は新羅本紀によると、 助賁王の四年(289年=垂仁21年)の七月に、倭人が東辺を侵攻して来たので、于老は、沙道でこれを迎え撃ち、風に乗じて火を放ち敵の戦艦を焼いた。 敵は溺死してほとんど全滅した。 沾解王の3年(297年=垂仁37年)倭国の使臣、葛那古が来朝して客館に滞在していた。 于老はその接待の役に任ぜられた。 彼は倭の使臣に戯れて「近いうちに汝の王を塩作りの奴隷にし、王妃を炊事婦にする」といった。 倭王はこれを聞いて怒り、将軍、于道朱君を派遣して、わが国に攻めて来た于老は倭軍の陣に赴いて失言をわびたが、倭人は許さず、于老は捕らえられて焼き殺されてしまった。 于老の死後、味鄒尼師今の時代になって倭国の大臣が新羅に訪れたとき、于老の妻が味鄒尼師今に願い出て、私的に倭国の大臣を饗応した。 大臣が泥酔したところを壮士に命じて庭に引きずりおろして焼き殺し、怨みを晴らした。 このことが原因で倭人は新羅の首都金城を攻撃してきたが、勝てずして引き上げたという。 これらの記事を比較すると、仲哀9年の1説は新羅本紀の297年の記事と重なる。 日本書紀は垂仁天皇末期の出来事を神功皇后の事績に組み入れていることになる。 神功摂政5年の記事にある微叱許智伐早は奈勿王の王子・未斯欣のことであろうと思われる。 新羅本紀には 実聖王元年(402年=仁徳11年(半年暦))倭国と国交を結び、奈勿王の王子・未斯欣を人質とした。 とある。 神功皇后の時代より後の記事が神功皇后5年に挿入されていることになる。 新羅本紀は百済本紀を345年までの半年一年暦とすると、中国暦の高句麗本紀や中国史書との出来事はほぼ一致しており、年代に関しての矛盾があまり見られない。 しかしながら、その出来事の経緯や結果に関しては日本書紀や好太王碑文などとの食い違いが見られる。 そこで、新羅本紀は出来事の年代はほぼ正しく、出来事の詳細は日本書紀や好太王碑文で修正する必要がありそうである。 そうすると、神功皇后が新羅征伐をしたのは346年(神功26年)ということになる。 香坂・忍熊両皇子の反乱について 香坂・忍熊王の反乱はいつのことだろうか。 さまざまな情報を元に推定してみよう。 日本書紀・古事記から推定した香坂・忍熊両皇子の反乱 新羅征伐後、神功皇后は群臣・百寮を率いて、穴門の豊浦の宮に遷った。 そこで仲哀天皇の亡骸を収めて、海路で大和に帰還することにした。 その時、大和にいた香坂王と忍熊王は 「天皇が崩御された。 また皇后が西を討って、あわせて皇子が新たに誕生された。 」 と聞いて、 密かに話し合って、 「今、皇后には御子がいる。 群臣はみな従っている。 必ず共に謀って、若き御子を天皇に立てるだろう。 吾らは兄なのにどうして弟に従えるか。 」 と言った。 そこで偽って、天皇の為に御陵を作るふりをして、播磨に行って、御陵を明石に興した。 こうして、船団を編んで、淡路島に渡して、 その島の石を運んで御陵を造った。 その時、人毎に武器を持たせて皇后を待った。 倉見別とイサチの宿禰は共に香坂王に付き、そこで将軍として東国の兵を集めて率いた。 この時に、香坂王はトガノで、戦いの吉兆を占うために「うけひ狩り」をしたが、赤いイノシシが急に出て来て、香坂王を食い殺してしまった。 忍熊王は「ここで敵を待ってはならない。 」と、軍勢を引いて、住吉に駐屯した。 この時、神功皇后は忍熊王が軍勢を起こして、待っていると聞いて、武内宿禰に命じて、皇子を抱かせて、迂回して南海から出て、紀伊水門に停泊させました。 皇后の船はまっすぐ難波を目指した。 神功皇后は船から軍隊を降ろして、忍熊王の軍と戦った。 忍熊王は軍勢を宇治まで退却させ、軍勢を立て直しを図った。 これを見た皇后は、紀伊国に行って、日高(産湯八幡神社・日高郡日高町)で皇子に会った。 群臣と協議して、忍熊王を攻撃するために、さらに小竹宮(小竹八幡神社・御坊市薗)に遷った。 皇子は、建振熊命を将軍に任命した。 戦いは皇太子側が優勢で、戦闘は忍熊王が後退していき、山城まで至ったが、その後、忍熊王は持ち直して、膠着状態となった。 建振熊命は 「神功皇后は、すでに亡くなりました。 これ以上、戦う理由はありません」 と言い、すぐに弓のツルを切り、降伏した。 すると伊佐比宿禰はその嘘を信じて、同様に弓のツルを外し、武器を収めた。 この機を逃さず、神功皇后の軍勢は、髪を束ねていた紐を弓に張って、戦闘を再開し、忍熊王の軍勢を追撃した。 忍熊王は戦いに敗れて逃げたが、追撃を受け隠れる所が無くなり、瀬田の渡し場で身を投げた。 その後武内宿禰はその遺体を探させたけれども、見つからなかったという。 兵庫県・和歌山県の神功皇后関連の伝承を持つ神社は以下のとおりである。 旧矢田部郡北野村鎮守として奉斎されています。 そこで、皇后は「鏡の池」で斎戒沐浴して当社を鎮祭し、晴を祈願されたという。 節分に行なわれている東天紅の古式はこれにちなんだものだといわれている。 八幡大神(應神天皇)神功皇后が三韓を征伐せられまして、御還行の御時KAGO坂忍熊の二皇子が、東國の兵をくりだし、皇軍を拒かんとて、淡路の海峽を扼して、待たしめられました皇后は当國萩原の浦(今の揖保村内)に御上陸せられまして、此岡に登られ、兵を集めて評議せられました、其縁で八幡宮を祭祀して居ります此岡を黒岡と云ひます。 昔は、評議することを「ことあげ」と申します。 黒岡と云ふのは「ことあげ」の訛であると播磨風土記に見へてあります。 又その時に皇后の着衣を、松の枝に掛けて干されたのが、風にたなびいて錦のように美しく見えたので、当地を「錦ケ浦」と名付けられたと云われております。 帰国の途中、この地に船を寄せられ、国家鎮護のため、大己貴命をまつられたのが高砂神社のはじまりです。 その通りなされると、大成功をおさめた。 お還りの時、この地で船が動かなくなったので、占い問うと神の御心なりと。 皇后が御みずから綿津見三神をお祭りになり、御祈願されましたところ、たちまち風波がおさまり御無事に都へお還りになりました。 その時神功皇后が綿津見三神をお祭りになったところに御社殿を建て、御神徳を仰いだのが鎮座の由来であります。 神功皇后と品陀皇子が其處を尋ね来られ鎮座された。 住民は弓の弦で餅を切り献上したことから地名を「糸切」と呼ぶようになった。 里人畏み、忌井をほり、忌火を燧っておん産湯を奉った。 こののち社殿を創設して崇敬する」とあり、当地名の起因するところでもある。 七ッ井戸の一つと伝えられているところが一ヶ所現存する。 なお皇后当地での御滞在は御子誉田別命の御身辺に心を配られたためであり、此の地は武内宿称生誕の地で、一族が阿備柏原(市内松原字柏原、当社南東1粁、宿称誕生之井あり)に居を構えて勢力をほこっており、安心して皇子を託すことが出来たからである。 やがて忍熊王の乱、武内宿称により平定されるや、皇后100僚を従えて紀の川筋を都へと還幸された、その後道中御休息、御宿泊の地、海南市旦来、名賀郡貴志川町等々各地に八幡宮が御造営されたが、当社は紀伊国御路次中ふり出し第一の八幡宮で紀伊国名所図絵も「当社は日本最初の御旧跡なり、当時皇后の御船紀水門に泊し給い、後日高に還幸し給うと雖も、皇子を留め置かせ給う所は則ちこの安原郷なり」と記している。 新羅征伐は複数回実施されている 伝承をまとめると以下のようになる。 1 新羅征伐に出発前に立ち寄った。 2 新羅征伐後に立ち寄ったが忍熊王の反乱が関係ない。 3 妊娠中に立ち寄った。 4 新羅征伐後に立ち寄り忍熊王の反乱にあった。 記紀伝承によると神功皇后は仲哀9年に仲哀天皇がなくなった後、九州で兵を集め九州から出発したことになっているが、大和から出発しているようである。 また、妊娠中と応神天皇を連れている場合があるので複数回立ち寄っていることが分かる。 凱旋時も忍熊王の反乱にあった時とそうでない時と伝承が存在している。 以上のことから神功皇后は新羅征伐に複数回出向いていることになる。 和歌山県の神功皇后に関連する伝承は、40番の八幡神社以外は忍熊王の難を逃れたことが明記されているものがないのが特徴である。 39番野上八幡神社に至っては3年間も滞在したことになっている。 平和的な滞在もあるように見える。 また、神功皇后が紀伊国を訪問しているのは忍熊王の難を逃れる以外に武内宿禰の生誕地であることも理由のようである。 忍熊王の年齢 仲哀天皇は332年に現年齢計算で26歳の若さで亡くなっている。 この直後に応神天皇が誕生しているのである。 香坂・忍熊王はその兄であり、仲哀天皇即位前に生まれており、誕生は328年前後と思われる。 日本書紀で忍熊王の反乱があったと記録されている神功摂政元年は333年であり、忍熊王は5歳前後となり、幼児である。 この年齢で反乱をおこすことは明らかに不可能であり、香坂・忍熊王の反乱は350年以降のことと思われる。 そうすると、神功皇后は忍熊王・香坂王と共に大和に住んでいた時期があることになる。 このとき、応神天皇は即位していないので、おそらく忍熊王が天皇に即位していたのではないかと思われる。 そうすると、忍熊王の反乱の直後に応神天皇が即位していると思われる。 その年代特定をしてみよう。 応神天皇の即位年 日本書紀では応神天皇の即位は庚寅の干支の年である。 この年は中国暦に従うと390年であるが、日本書紀は応神天皇から倭の五王時代にかけて明らかに年代が附け加えられている。 それを元として、半年一年暦の干支だとすれば、応神天皇即位は367年後半となるのである。 その場合忍熊王の反乱はその直前で366年頃と決定する。 日本書紀ではこの年は神功47年に相当し、百済と新羅が共に朝貢してきた年となっている。 応神天皇の即位を祝っての朝貢と考えられる。 新羅本紀364年の記事 夏四月、倭兵が大挙して侵入してきた。 王は草人形を数千個作らせて衣服・兵器を持たせ、吐含山の麓に並べさせた。 さらに勇士千人を伏兵として待ち受けさせ、敵をおびき寄せてから不意打ちを仕掛けさせたところ、首尾よく倭兵を打ち破った。 とある。 367年に新羅は倭に朝貢しているので、この戦いの勝敗は逆ではないかと思われる。 神功皇后は364年に新羅征伐をし、新羅を降伏させた。 その凱旋途中で忍熊王の反乱があったと考えれば、出来事がスムーズにつながるのである。 神功62年(382年)に神功皇后は新羅へ襲津彦を派遣し、新羅を討たせているが、同様な記事は応神16年にもある。 この二つが同じ年だとすると、神功62年=応神16年となる。 これをもとに応神元年を計算すると367年となる。 このように応神天皇即位を367年とすれば、新羅本紀、日本書紀、神社伝承がスムーズにつながることが分かる。 応神天皇は367年に即位したと推定する。 この時、神功皇后は存命であった。 神功49年以降は日本書紀の記事が急に多くなっている。 これは、応神天皇が即位し、大和朝廷の実権が神功皇后に移ったためと考えられる。 日本書紀の仲哀9年から神功摂政元年までの記事は332年~367年までの記事を集めているということになる。 この25年の間に具体的に何があったのかを推定していきたいと思う。 神社伝承による年代特定 神功皇后伝承の中で日本書紀の年代に合わない年代伝承を伝えている神社は以下のとおりである。 魚吹八幡神社(兵庫県姫路市網干区宮内193)伝承 神功皇后摂政3年、大陸交渉の際、御艦を当宇須伎津に御滞泊あらせられた際、神功皇託(神様のお告げ)をお受けになりこの宇須伎津の浄地を開き、一小社を建立し、玉依比賣(神武天皇の御母、海の神様)をお祀りし、敷嶋宮と号した。 これが当社創建の起源であります 三之宮神社(枚方市穂谷2丁目7番1号)伝承 神功皇后が神功皇后9年秋、朝鮮出兵の時当地を通られたが、山が深く谷も険しくて難路であったため、天神地祇にご祈願されたところ、神様が現れ「難路故各所二物ヲ置キ導キ奉ラント告ゲ給ウ」とのお告げがあり、行軍の先々に白幣を竹筒に挟んだものを所々に置き道案内をした。 そして「皇后ニ軍謀秘策ヲ告ゲ給ウ」とし、その後皇后は無事に凱旋できたことを喜ばれて幣白を寄進された。 住吉大社伝承 神功皇后は、住吉大神のご加護の下、新羅遠征から凱旋の帰路、大神の信託に基づいて住吉の地に大神を祀ったとされる。 この大神を祀った日(住吉大社の創建日)が、神功皇后摂政十一年、辛卯年の卯月の上の卯日だった。 これらの神社伝承の内容は、日本書紀・朝鮮半島記事と合わない。 そこで、換算干支を用いて16年後ろへずらしてみた。 神社伝承の年の半年一年歴の干支と同じ干支を持つ、換算干支の年は、神功皇后摂政3年が神功19年(342年)、神功皇后9年が神功25年(345年)、神功皇后11年が神功皇后26年(346年)、神功皇后18年が神功29年(349年)となる。 新羅本紀によると、新羅に対して国交断絶の国書を送ったのが345年で、新羅襲撃が346年である。 神社伝承は、まさに、新羅本紀の記事と一致している。 神社伝承の記録は換算干支を半年一年干支と間違えて年数計算したものと判断できる。 忍熊王との戦いの場 日本書紀では忍熊王の難を逃れるために和歌山を迂回していることになっているが、古事記には和歌山を迂回した記録がない。 和歌山県に残っている神功皇后の伝承の多くは戦いの直前であることを示してはいない。 実際に戦いの場は難波から、淀川上流にかけての地域で、和歌山で軍を上げて攻め込むには大和盆地の北の方で戦っているのと状況が合わない。 これらのことから、和歌山迂回は忍熊王の反乱とは関係なく、武内宿禰の勢力圏であったために立ち寄ったと考えるのが妥当であろう。 和歌山に滞在していたのは伝承内容からして、応神天皇幼少時のことのようである。 337年から338年あたりであろうか。 この頃は、神功皇后は新羅との交渉を頻繁に行うために、大和ではなく、九州方面に滞在することが多かったと思われる。 そのため、皇子を大和に於いておくのに不安を感じて和歌山の武内宿禰のもとに疎開させていたのではないかと推定する。 野上八幡宮(海草郡野上町小畑623) 当八幡宮の縁由は古く、神功皇后が三韓より御帰還なさる途中三年間の頓宮の跡といわれる。 木本八幡宮(和歌山市西庄1) 神功皇后が三韓から凱旋された時、大臣武内宿禰が幼帝応神天皇をお守りして、この海口(日本書紀にいわゆる紀伊水門の地)に泊り、この地に上陸して頓宮(仮の宮)を造り、暫く留まられた。 このように、皇子の滞在地は転々としているようであり、皇后が戻ってきて会いにきているという伝承もあるのがこれを裏付けている。 このころはおそらく忍熊王が天皇であり、忍熊天皇が大和を統治していたと思われる。 忍熊天皇としては応神天皇に皇位を奪われるのではないかという不安もあったのではないかと思われる。 神功皇后は忍熊天皇が応神天皇を殺しはすまいかと不安を感じていたのであろう。 忍熊王と神功皇后との戦いは古事記・日本書紀共に神功皇后が罠をしかけるという形で勝利している。 正々堂々とした戦いでもなく、忍熊王の行動が悪意に満ちたものでもない。 事実はおそらく、忍熊王の反乱ではなく、神功皇后のクーデターで忍熊王から皇位を簒奪したものと考えられる。 成務天皇即位から応神天皇即位までの年表 西暦 和暦 中国干支 半年一年干支 換算干支 日本書紀 修正・推定 半島歴 百済本紀 新羅本紀 中国 高句麗本紀 325 景行55 成務1 乙酉 乙丑 丙寅 庚戌 辛亥 305 326 2 3 丙戌 丁卯 戊辰 壬子 癸丑 307 327 4 5 丁亥 己巳 庚午 甲寅 乙卯 309 第16代新羅王訖解即位 327 328 空位 仲哀1 戊子 辛未 壬申 丙辰 第14代仲哀天皇即位 311 倭の国王が使臣を使わして、息子のために求婚したので、阿食の急利の娘を倭国に送った。 328 329 2 3 己丑 癸酉 甲戌 丁巳 戊午 敦賀に笥飯宮を立てる。 南海道巡幸。 熊襲が叛く。 穴門に移動。 豊浦津に泊る(仲哀2年,330) 313 330 4 5 庚寅 乙亥 丙子 己未 庚申 315 331 6 7 辛卯 丁丑 戊寅 辛酉 壬戌 新羅・熊襲豊浦津を攻める(仲哀7年・忌宮神社) 317 第16代高句麗王故国原即位 331 332 8 9 壬辰 己卯 庚辰 癸亥 甲子 筑紫行幸、9月熊襲を攻撃するも勝てないで帰還(仲哀8年) 2月第14代仲哀天皇崩御(仲哀9年) 319 333 神功1 2 癸巳 辛巳 壬午 乙丑 丙寅 新羅征伐。 香坂王・忍熊王の乱 神功元年) 321 334 3 4 甲午 癸未 甲申 丁卯 戊辰 大和磐余に宮を作る。 若桜宮という(神功3年 323 335 5 6 乙未 乙酉 丙戌 己巳 庚午 325 336 7 8 丙申 丁亥 戊子 辛未 壬申 327 慕容? は自ら燕王と称し、前燕を建てた 337 9 10 丁酉 己丑 庚寅 癸酉 甲戌 329 338 11 12 戊戌 辛卯 壬辰 乙亥 丙子 331 後趙の石虎が数十万の兵を率いて来攻した。 は四男の慕容恪を遣わして撃退し、東晋より征北大将軍・幽州牧に任ぜられる。 高句麗王故国原即位 339 13 14 己亥 癸巳 甲午 丁丑 戊寅 333 340 15 16 庚子 乙未 丙申 己卯 庚辰 335 慕容? は石虎の将軍石成と遼西で戦い、勝利する。 340 341 17 18 辛丑 丁酉 戊戌 辛巳 壬午 337 東晋より燕王の章璽を持つことを許された。 また、陽裕らに竜城(同遼寧省朝陽県)を築かせて、新たな都とした。 341 342 19 20 壬寅 己亥 庚子 癸未 甲申 大陸交渉中に敷島宮(姫路)に滞在。 神功3年 魚吹八幡神社 339 庶兄の慕容翰、五男の慕容垂、長史の王寓等を遣わして高句麗征伐に赴いた。 慕容翰は高句麗王の高釗(故国原王)を敗走させ、高句麗の首都を落とした。 高句麗は前燕に臣従した。 342 慕容翰に丸都城を落とされ、高句麗王は世子を派遣して、燕王慕容? に朝貢した。 342 343 21 22 癸卯 辛丑 壬寅 乙酉 丙戌 341 高句麗、燕、晋に朝貢 343 344 23 24 甲辰 癸卯 甲辰 丁亥 戊子 343 倭国が使者を使わして婚姻を乞うたが、断った。 344 345 25 乙巳 乙巳 丙午 己丑 庚寅 新羅国征討(三ノ宮神社 神功9年) 345 春二月、倭王が国交断絶の国書を送ってきた。 345 燕王慕容? が攻めてきて南蘇を落とされた。 345 346 26 丙午 丁未 戊申 辛卯 壬辰 新羅征伐(神功1) 皇后凱旋(神功11年 住吉大社) 第13代百済王近肖古即位。 倭軍が突然襲来し、辺境地帯を侵した。 さらに金城までを包囲して攻撃したが、城を閉じて持久戦に持ち込んだところ、倭軍は退散した 346 347 27 丁未 己酉 庚戌 癸巳 甲午 348 28 戊申 辛亥 壬子 乙未 丙申 慕容儁、第2代燕王となる。 349 29 己酉 癸丑 甲寅 丁酉 戊戌 神功皇后摂政18年三韓征伐の帰路に住吉太神宮に祈って、当国に太神降臨し給う宮処を教え給えと、海辺に茂る藤の木を、本未打ち断ちて海中に投げ入れれば坂島(宇和島)の郷那多に着いた。 よって、此処に宮居を営み、藤住吉太神宮と称したという。 多賀神社(宇和島市藤江1339) 伝承 350 30 庚戌 乙卯 丙辰 己亥 庚子 後趙の石虎が死去して後趙内部で皇位継承争いが起こり、事実上国内が崩壊すると、この好機を見逃さなかった慕容儁は後趙に侵攻し薊(現在の北京に当たる領域)を奪い、そこを前燕の都とした。 350 351 31 辛亥 丁巳 戊午 辛丑 壬寅 苻健は1月に東晋から独立し、長安を首都と定めて前秦を建国した。 352 32 壬子 己未 庚申 癸卯 甲辰 353 33 癸丑 辛酉 壬戌 乙巳 丙午 354 34 甲寅 癸亥 甲子 丁未 戊申 355 35 乙卯 乙丑 丙寅 己酉 庚戌 高句麗は前燕から〈征東将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王〉に冊封された。 355 高句麗は征東将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王に封じた 355 356 36 丙辰 丁卯 戊辰 辛亥 壬子 第17代新羅王奈勿即位 356 357 37 丁巳 己巳 庚午 癸丑 甲寅 358 38 戊午 辛未 壬申 乙卯 丙辰 359 39 己未 癸酉 甲戌 丁巳 戊午 360 40 庚申 乙亥 丙子 己未 庚申 361 41 辛酉 丁丑 戊寅 辛酉 壬戌 362 42 壬戌 己卯 庚辰 癸亥 甲子 363 43 癸亥 辛巳 壬午 乙丑 丙寅 364 44 甲子 癸未 甲申 丁卯 戊辰 第二次新羅征伐 夏四月、倭兵が大挙して侵入してきた。 王は草人形を数千個作らせて衣服・兵器を持たせ、吐含山の麓に並べさせた。 さらに勇士千人を伏兵として待ち受けさせ、敵をおびき寄せてから不意打ちを仕掛けさせたところ、首尾よく倭兵を打ち破った。 364 前燕、東晋から洛陽を奪う 365 45 乙丑 乙酉 丙戌 己巳 庚午 366 46 丙寅 丁亥 戊子 辛未 壬申 斯摩宿禰を卓淳國に遣す。 (神功46年) 忍熊王の反乱(神功1) 使臣を新羅に使わして修交した 366 367 47 応神1 丁卯 己丑 庚寅 癸酉 甲戌 百済と新羅が共に朝貢に来た。 新羅は百済の貢物を横取り(神功47年) 応神天皇即位。 百済と新羅が共に朝貢に来た。 誉田別命は、先王の望んでおられた国の人々がやってきたことを喜んだ。 新羅の貢物に比べて百済の貢物が劣っていた。 新羅が百済の貢物を奪ったためであった。 新羅を討つことを決意。 (神功47) 慕容評が前燕の実権を握り、国内を腐敗させた。 368 神功48 応神2 戊辰 辛卯 壬辰 乙亥 丙子 仲姫 皇后 応神2) 新羅に使いして、良馬2頭を送った。 368 次 関連.

次の

美智子皇后の若い頃!幼少期から婚約決定まで!絶世の美女でしょこれ

皇后 年齢

令和天皇階下の生年月日 誕生日 は?年齢はいくつ? 歴代2番目となる高齢即位 出典: 令和最初の天皇階下の誕生日は 昭和35年2月23日となります。 改元日となった2019年5月1日時点では 59歳となります。 これは記録が残っている歴代天皇の中では、2番目となる高齢での即位となりました。 ちなみに明治天皇は14歳、大正天皇は32歳、昭和天皇は25歳とかなり若い年齢での即位となっていました。 令和元年の祝日はどうなる? 新天皇階下の誕生日となる2月23日は祝日となることがすでに決定しています。 2019年の2月23日はすでに過ぎているため、 来年2020年 令和2年 以降の2月23日が祝日となります。 また、平成の天皇 上皇階下 の誕生日は12月23日となっていますが、2019年の12月23日は平日扱いになります。 退位後の上皇誕生日を祝日にしてしまうと、新天皇との二重権威に映ってしまう懸念があるため、上皇在位中の祝日化は避けるべきとの議論を反映しているようです。 そのため、 2019年は天井誕生日による祝日がない年となります。 呼び方 呼称 と敬称は? 令和天皇はNG 記事のタイトルでは「令和天皇階下」と記載しましたが、本来この呼び方はNGとなります。 「平成」や「令和」など元号を冠した呼称は、ご崩御なされた後に付けられる諡(おくりな)となります。 諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。 「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。 引用元: 正しい呼び方は、「天皇」や「天皇階下」「今上天皇(きんじょうてんのう)」とお呼びすれば良さそうです。 なお、すでにご崩御されている明治天皇や昭和天皇などは、頭に元号を付けても問題ありません。 天皇退位後の呼び方は? 出典: それでは、平成時代の天皇階下の呼び方はこれからどうなるのでしょうか?今回はご崩御ではなく、生前退位による改元となるため、先ほどと同じ理由で平成天皇」という呼び方はNGとなります。 退位後の呼称については、「上皇階下」(呼称を上皇、敬称を階下)とお呼びすれば良いようです。 ちなみに「平成上皇」という呼び方も、元号が冠につく「おくりな」となりますので、生前退位されている階下への呼称としては不適切となります。 雅子様や美智子様の呼び方は? 平成から令和に改元したことにより、皇太子様が新天皇に、皇太子妃雅子様が新皇后に即位されてました。 雅子様の呼び方については、 「皇后階下」で問題なさそうです。 また、同じく退位された美智子様は 「上皇后階下」とお呼びすれば良さそうです。 まとめ.

次の

神功皇后と応神天皇(第15代)

皇后 年齢

令和改元という節目の年に、歴代天皇の事績をふりかえります。 今回は 「神宮皇后」「応神天皇」をお届けします。 摂政 神功皇后 皇紀860年=仲哀9年(200年)12月14日、仲哀天皇の皇后・神功皇后は神託を受け、朝鮮半島を攻めた(三韓征伐)。 神託の通り、新羅は戦わずして降伏し、日本に服属を誓った。 そして三韓征伐から帰朝されてすぐに誉田別命(ほむたわけのみこと、応神天皇)が宇瀰(うみ、福岡県糟屋郡宇美町)で誕生される。 皇紀861年=仲哀10年(201年)、神功皇后摂政元年とする。 誉田別命(応神天皇)が誕生されて直ぐに即位されたとして、母である神功皇后が摂政に就かれたのである。 仲哀天皇には大中姫命(おおなかつひめのみこと)を母とする麛坂皇子(かござかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)がおられたので、生後間もない誉田別命が即位するわけにもいかず、かといって皇后・神功皇后が即位するということも当時としては考えられず、結局神功皇后が摂政となられた。 誉田別命が成長するまでの間、皇后である神功皇后が政務を執るということで決着したのである。 翌神功皇后2年2月、皇后は群卿百寮を率いて穴門豊浦宮(下関市)に移られ、仲哀天皇のご遺体を収めて海路で都に向かわれる。 この時、仲哀天皇の皇子で妃・大中姫命(景行天皇の孫女王)を母とする麛坂皇子と忍熊皇子が、皇后に皇子が誕生されたことを知り謀反を企てる。 誕生した皇子は異母弟ではあるが、皇后の皇子であるから、皇位継承の最有力候補者であるとも考えられる。 そこで今のうちに亡き者にしようと企んだのであった。 誉田別命(応神天皇)の異母兄に当たるこの二人の皇子は、皇位継承に関する神意を占うため、祭壇を設けて仮の桟敷におられた。 そこに赤猪が突然飛び出して来て、桟敷に登って麛坂皇子を食い殺した。 これを見た忍熊皇子は慌てて退却して住吉に移動し、その後、山城方面に移動され宇治に逃れるが、そこで武内宿禰(たけしうちのすくね)軍に敗れ、瀬田の渡りで身を投げて薨去される。 反乱はこうして鎮定された。 なお古事記では、誉田別命(応神天皇)は誕生まもなく薨去され、ご遺体を運ぶと偽りの連絡をされた上で、都に上られたとある。 皇紀863年=神功皇后摂政3年(203年)春1月3日、4歳になられた誉田別命を立てて皇太子とされる。 前述の通り立太子の前年、異母兄の麛坂皇子と忍熊皇子が反乱を起こすが鎮圧され、誉田別命が立太子されたのであった。 神功皇后は『日本書紀』『古事記』には詳述されているが、現在の歴史教育では存在が無視されている。 先の大戦までは学校教育の場で教えられ教科書にも載っていたが、戦後GHQの命令で教科書から削除された。 ここから古代の日本と半島の歴史が始まるのであり、日本の歴史上は極めて重要な皇后(摂政)である。 ここで神功皇后が実在しないとしたら、古代の日本と半島との関係は全く分からなくなる。 GHQの命令で日本は歴史を改竄させられ、それを未だに直していない。 また宇佐八幡神宮をはじめ全国の八幡さま(八幡神社)の御祭神は仲哀天皇と応神天皇であり、合わせて神功皇后を祀っていることも多い。 また神功皇后は大正の御世に至るまで天皇とされることも多かった。 明治14年に政府が発行した改造1円札や明治41年発行の五円切手などは神功皇后の肖像である。 皇紀929年=神功皇后69年(269年)夏4月17日、神功皇后は稚桜宮(わかさくらのみや)にて100歳で崩御された。

次の