織田信長 俳句。 【織田信長】の名言・格言集 22選!

向日葵や信長の首切り落とすこの俳句の解釈を教えてください

織田信長 俳句

誰でも知っている歴史上の人物「織田信長」。 「泣かぬなら殺してしまえホトトギス」は、信長の性格を表している俳句として有名ですね。 織田信長の人生、実際にはどうだったのか年表形式でまとめていきます。 織田信長の年表を完全まとめ では、早速、重要事項を中心に年表形式でまとめていきます。 出生 1534年~ 1534年出生 織田信長は1534年に、織田信秀の長男として尾張(現在の愛知県)で生まれました。 父信秀は那古野の小領主でしたが、次第に頭角を現し仕える家をしのぐ家柄となっていました。 戦国大名の嫡男という非常に恵まれた環境で生を受けたといえるでしょう。 幼少から青年期にかけて奇行が多く、「尾張の大うつけ」などと称されていました。 「うつけ」というと知能が低いような意味合いを感じますが、信長の場合幼少期から合理的精神が発達していて、しきたりや慣習にはこだわらないために大胆に行動していたようです。 こうした合理的精神は、楽市・楽座といった慣習にこだわらない自由に経済活動を許すといった形で成人してからも発揮されていきます。 1551年家督相続 18歳になった信長は、死去した父に代わって織田家を継ぎました。 出世 1554年~ 1557年(24歳)家督争いに勝利 家督を継いだ信長でしたが、父信秀の主君で「織田大和守家」の織田信友は父信秀の勢力拡大を阻止するべきく信長の弟信勝を支持して家督争いを起こしました。 大きな戦いになりましたが最終的に信友を殺害、信勝は自害となり、信長は当主の立場を確立しました。 1560年(27歳)桶狭間の戦い 尾張を統一した信長に対して、駿河(現在の静岡)を本拠地とする今川義元が攻め込みました。 今川の大軍2万~4万に対して約5千の織田勢でしたが、奇襲により勝利し、今川義元を打ち取りました。 1562年(29歳)清州同盟 この後、今川家の敗退により自由を得た美濃(現在の愛知県)の徳川家康と同盟を結ぶこととなりました。 この同盟は信長の死後まで維持されることとなり、信長の天下統一にとって決定的に重要な意味を持つことになりました。 多くの敵対勢力に対して織田軍単独ではなく織田・徳川連合軍として対峙することができたのです。 天下統一 1567年~ 1568年(35歳)上洛と将軍擁立 当時の日本の中心地、京都では将軍家足利家が混乱の渦中にありました。 そんな中信長は足利義明の要請を受けて上洛を果たしました。 義明の対立勢力を排除した信長は義明を第15代室町幕府将軍に擁立しました。 1571年(38歳)比叡山延暦寺焼き討ち 足利義明を将軍に据えた後も京都の混乱は収まりませんでした。 さまざまは反乱がおこりましたが、その中でも延暦寺の焼き討ちは有名です。 独自の軍事組織を有した延暦寺は、浅井、朝倉両氏とともに信長に反抗していましたが、その中で退避、中立勧告を無視した延暦寺を焼き討ちにした事件です。 寺社を焼き討ちにするのは例外的なことではありますが、軍事力を有して敵対し勧告にも従わなかったことを考えると、合理主義者の信長にとっては排除するのが自然なことだったのでしょう。 1573年(40歳)室町幕府滅亡 足利義昭を将軍に擁立し、自らはその家来となった信長でしたが、実際の敵対勢力への対応姿勢など重大な論点で次第に対立が深まっていきました。 その後、信長と対立していた武田勝頼が三河の野田城に侵攻したときに義昭は武田側に加担するなど義昭の反抗が収まらなかったため、結局信長は義昭を追放することとなり、これをもって室町幕府は事実上消滅しました。 この事件の後元号が天正に改まっているので、朝廷も幕府の滅亡を認めていると言えます。 1575年(42歳)長篠の戦い 甲斐の戦国大名、武田勝頼は信長に対して犯行を続けていました。 信長がわに寝返った元の家臣奥平貞昌を攻めたことから戦いが始まり、武田勢1万5千と織田・徳川連合軍3万8千の戦となりました。 この戦いは織田側は用意した千丁余りの火縄銃による射撃などもあり、織田軍の勝利で終わりました。 この戦いの後信長の「天下人」としての台頭が始まります。 1575年(42歳)天下人公認 その後信長は朝廷から権大納言、右近衛大将を任ぜられました。 右近衛大将は征夷大将軍に匹敵する職位と言われ、実際信長は御所に公卿を集め、室町将軍の就任式に倣った儀式を挙行させました。 信長の呼び名は「上様」となり、将軍と同等と見做されるようになりました。 このことから朝廷は信長を事実上「天下人」として公認したと言えるでしょう。 征夷大将軍にならなかった信長が天下を統一したと見られる所以です。 晩年 1576年~ 1576年(43歳)安土城築城 朝廷による天下人公認を果たした信長は次に安土城築城に取り掛かりました。 翌年完成した城は五層七重の豪華絢爛さを誇り、来日していたイエズス会宣教師は「ヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうる」と感嘆しています。 それまで居城だった岐阜城は、織田家の家督とともに息子に信忠に譲りましたが、これは一大名としての家督を譲ったものであり、天下人として引き続き織田政権の政治・全軍を総括する立場にありました。 1582年(49歳)本能寺の変 安土城築城後、実質的な天下統一に向けて、各地で挙兵する反乱勢力との戦いに明け暮れていた信長でしたが、その活動は完成を待たず本能寺の変で終わることとなりました。 6月2日に信長の家臣の明智光秀が謀反を起こして京都の本能寺に宿泊していた信長を襲撃しました。 寝込みを襲われた信長は本能寺に火を放ち自害して果てました。 嫡男の信忠も自害することとなり、織田政権は崩壊しました。 その後、光秀もすぐに信長の家来の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に討たれ、時代は豊臣時代への移り変わっていきます。 織田信長の重要ポイントとまとめ 織田信長の人生について、とくに重要な事実を時代順に見ていきました。 そのなかでも重要なポイントについて意義や影響を振り返っていきいます。 天下統一を引き寄せる「桶狭間の戦い」 「桶狭間の戦い」は、尾張を統一した信長が領地の外に進軍を始める最初の戦いとなりました。 当時強さを誇っていた今川義元に勝利したことも重要ですが、この戦いの後徳川家康を味方に引き入れることができたことは特に重要です。 その後の信長の戦績を見ていきますと、多くの戦いで、織田・徳川連合軍が敵対勢力を破っていったことがわかります。 「桶狭間の戦い」で織田・徳川の連合体制が確立し、以後連合体制での戦いが可能となりました。 この連合体制は信長の死後までも存続することになりました。 無念の自害「本能寺の変」 「歴史にもしもはない」と言われますが、「本能寺の変が起こらなかったら?」という問いは多くの人を魅了してきました。 信長による天下統一は実現し、豊臣秀吉の治世は実現しなかったのかもしれません。 その意味で「本能寺の変」は信長にとって本当に無念な事件だったことでしょう。 「本能寺の変」は天下統一が直前に迫っている中で起きた事件と言えますが、信長が大名の領地を召し上げて息子たちに与えるといった行動が次第に目立ち始めてきていたので、不満を持った大名の反乱にあうのは時間の問題だったのかもしれません。 まとめ:織田信長の人生とは 織田信長は合理主義者であったことが年表のいたるところで見られたと思います。 合理的に行動することで「天下人」になったものの、家臣の反発を招く部分もあり、最終的には本能寺で自害することになりました。 幼少期の奇行をみると生まれつきそうした部分があったことがわかります。 なにかとしがらみに捉えられてなかなか合理的に振舞えない多くの日本人は信長の行動にある種の痛快さを感じてきたのでしょう。 自分にはできないことを平然とやる信長の憧れと恐れを感じる。 これが人気の秘密なのだと思います。 【関連記事】.

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比叡山焼き討ち (1571年)

織田信長 俳句

織田信長 辞世の句 人間50年 下天のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を受け 滅せぬもののあるべきか 織田信長(おだ のぶなが) 生誕:天文3年5月12日(1534年6月23日) 死没:天正10年6月2日 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。 三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 父の代から力をつけ、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、領土を拡大した。 足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令。 後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼし、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。 これによって他の有力な大名を抑えて戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。 すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で没し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。 信長の辞世の句を考える 人間50年 下天のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を受け 滅せぬもののあるべきか 意訳: 「人間の一生は所詮50年にすきない。 天上世界の時間の流れに比べたらはかない夢や幻のようなものであり、命あるものはすべて滅びてしまうものだ」 ご存知の通り「本能寺の変」にて憤死した信長公。 そのため直接的な辞世の句は伝えられていません。 しかし彼の死生観を象徴するものとして「敦盛」の一節が、辞世の句として言い伝えられています。 「本能寺の変」については、犯人の明智光秀は間違いないとして、その首謀者や、動機についていまだに議論になっています。 飼い犬に手を噛まれる形で、自軍に襲われた信長でしたが、最後の言葉として、「是非に及ばず」(意訳:しょうがない)という言葉が伝わっています。 人間50年 下天のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を受け 滅せぬもののあるべきか 織田信長は、この節を特に好んで演じたと言われています。 とくに有名なのは、桶狭間の戦い前夜、「敦盛」の一節を謡い舞い、陣貝を吹かせた上で具足を着け、立ったまま湯漬を食したあと出陣したという逸話が『信長公記』に残されています。 天下取りは叶わなかったものの、のちの世に様々な影響を残した信長公の48年の生涯。 まるで自分の人生の終焉さえも予見したような見事すぎる約50年の人生こそ、合理主義者・信長の一世一代のマネジメントだったのかもしれません。 辞世の句と伝えれる「敦盛」の一節と、「是非に及ばず」とのメッセージに、魔王とも言われ、時代をつくった信長という人物とは対照的な「諸行無常」な人生観を感じるばかりです。 すべては信長からはじまった 司馬遼太郎さんは、その著作のなかで、信長をこう評してします。 「 すべては、信長からはじまった。 」(「この国のかたち」より)信長は、全てにおいて独創的であり、近世の基本については信長が考え、かつ布石を施したというのが司馬さんの考えです。 ゼロから1の距離は、一から千の距離よりも遠い アメリカ大陸を発見したコロンブス。 そんな時、彼を妬んだ男が、「ただ航海中にたまたま見つけただけじゃないか。 」といいだします。 コロンブスは、一同に向かって卓上のゆで卵を取り出して、「誰かこの卵を立てることが出来ますか?」と問いかけ、ゆで卵をポンと殻を割って立てました。 皆が、「なんだ簡単じゃないか。 」といった時、コロンブスは静かに、「何事も、後から種を明かされたら簡単に見えるものなのですよ。 」といったと言われています。 信長の革新性は、「コロンブスの卵」に満ち溢れています。 後の時代から見れば、どれも当たり前すぎて、その革新性の実感がわかないものばかり、たとえば、それまで戦の道具でしかなかった城に天守閣をもうけその権威をみせつけた点。 強力だが運用がむずかしった火縄銃を三段うちの戦法を用いて活用した点、なにより、秀吉や光秀など、信長に仕えるまでどこの誰か分からない馬の骨を飼いならし?天下に名だたる武将に仕立てあげた点などあげられます。 のちに天下人となる秀吉や家康は、信長がつくったグランドデザインにそって天下統一を果たしたにすぎないのではないでしょうか?「ゼロから一の距離は、一から千の距離よりも遠い」との格言があるそうです。 戦国時代、それまでの多くの常識を打ちこわし、ゼロから一をつくった男、信長。 すべては信長からはじまった。 司馬遼太郎の表現は、まさに過不足ない賛辞です。 「桶狭間」勝利の真因とは… 常識的発想を超越し、新たな時代を切り開いた信長。 商品取引の拡大円滑化を図った「楽市・楽座」や農業兼業の地侍たちを「兵農分離」によって銭で雇う専業の戦闘集団に変えたことはよく知られるが、堺屋さんの目に映る信長のすごみは、その柔軟な発想を行動につなげ、さらに組織内で多数の部下の納得を得たことにある-としている。 その一例は1560年の桶狭間の戦いだ。 約2万5000の今川軍に対し約3000の信長軍。 「強大な今川軍にはかなわない」という通説が広がる中、信長軍は急襲に成功し今川義元(1519~60年)を討った。 「桶狭間の勝利は、果敢な決断と総力を挙げての奇襲という戦術面ばかりが評価されているが、それはむしろ枝葉のことだ」と指摘。 その上で、重要なのは「一人の裏切り者も出なかったことであり、織田軍の行動を今川方に通報する者が全くいなかったという事実である」と強調する。 所領を拡大させた信長の既成概念にとらわれない発想は、「決して気まぐれではないことが(中略)多くの人々に理解され納得された」。 これこそが勝利の核心だったというのだ。 目的のためなら… 信長のユニークさは他にもある。 「日本史のなかで、織田信長ほど自己の目的を明確に示した政治家は珍しい」。 その象徴が「天下布武」。 桶狭間の戦いで義元を討った信長は、「天下布武」の印章を用いながら天下統一に向け猛進する。 そして「自己目的に実に忠実であり、すべてをこの目的に沿うかどうかによってのみ評価した」。 強固な中央集権国家を構想し、その目的を達成するために動いていたような信長だが、必ずしも「既成概念の全面的破壊者ではなかった」と堺屋さん。 足利将軍義昭を利用し、経済力に富む堺の自治を許し、無神論者でありながら日蓮宗やキリスト教の布教活動に便宜も…。 これらは「彼の信奉する唯目的的尺度から見てプラスが多いと判断したからである」。 直線的に目的を実現することだけにとらわれず、総合的に物事を吟味、判断する-。 こうした点も信長の魅力のようだ。 人間性理解に限界 能力主義を重んじる信長の人間評価項目の中で、門地や出生はもちろんのこと、過去の実績さえ重要ではなかった。 重要視されたのは信長の目的に沿った機能を持っているかどうか、だった。 長年仕えた重臣を処罰することすらいとわなかったが、一方で「全体的な人間性と社会の粘着性の把握を欠いた」。 それは致命傷にもつながった。 内部反乱もあった信長の生涯について、堺屋さんは「仮に(明智)光秀が信長殺害に失敗していたとしても、第二、第三の光秀が現れ、信長の寝首をかいたのではないか」と大胆な見方を記す。 というのも、信長は明智光秀ら有能な人材が抱く「使い捨て主義」への不安に「無頓着であり過ぎた」からだという。 信長のために身を粉にして働き、手柄をあげながらも、目的達成とともに「用済み」として破棄される-。 かつては一枚岩を誇った織田家の中にも、やがて古参たちの間に不平と不満が充満していく。 堺屋さんは「織田信長は、偉大な生産者、新製品の提供者ではあった」と評価するが、人間心理への洞察に欠けた、と指摘することも忘れない。 一方で今でもさわやかなイメージがあり、特に若者に人気がある理由をさぐる。 その答えは、信長の偉大さを象徴する新しいものの提供者である面こそ、日本人には欠けた部分だからである-と 天下人のそれぞれのビジョン 信長を経営者として例えると、ベンチャー企業の創業者タイプ。 秀吉は、たたき上げの敏腕の後継ぎ。 家康は・・・経理あがりの古参の幹部が、ちゃっかり天下を担ったといところでしょうか?戦国時代を終わらし、天下を収めるためには、既得権益や宗教、そして権威と、それまでの時代をつくりかえる必要があります。 たとえば、武田信玄は戦上手であったが天下統一ができない理由がありました。 その理由とは、冬にしか戦争が出来ない点。 半農半士が主戦であった武田氏は、春になると農作業に戻る必要がありました。 反対に信長は傭兵を雇い史上初めて、1年中戦うことのできる軍団を整備しています。 傭兵=サラリーマンの導入は、それまでの身分制度のなかで埋もれてきた人財を発掘することにつながります。 優秀なものが、活躍する。 あるいは強いものが勝つ。 当たり前に思えるシンプルなロジックを作り上げたものが、信長の合理性であり、コロンブスのタマゴの1つです。 スーパーワンマンタイプの信長は、家臣を駒のように使い天下統一をめざしました。 しかしきつすぎる上下関係に嫌気がさしたのか、駒であったはずの光秀に自らの命をとられることとなりました。 秀吉は、百姓の身分から成り上がり、信長の意思をつぎ、天下人となります。 秀吉の特徴は「人たらし」。 飴とムチを見事に使い分け多くの支持をとりつけますが、後継者の指名に失敗し、死後、家康に天下をゆずることとなります。 そして家康は、2人の天下人のひいたレールにのり、天下の安定のため様々な仕組みをつくりあげます。 傑出した武将や家臣達がおさめた信長、秀吉の天下は、「ひと」にたよった治世です。 一方、家康は、仕組みをつくり、凡庸な主人であっても国をおさめることのできる「仕組み」を創設しました。 信長が必要だった時代、秀吉が必要だった時代、そして家康が必要だった時代。 それぞれの天下人のビジョンが絶妙に絡み合い、日本は西欧にさきがけ、近代的な国家に成長していくのでした。 (参照:産経ニュース) 「楽市楽座」は、元祖規制緩和 「楽市楽座」とは、織田信長が行った経済政策です。 これは独占権をもった業者を排除し商売を自由にできるようにした制度の事をいいます。 楽市楽座の「楽」とは規制を取っ払った自由という意味です。 インターネットの大手、「楽天」の創業者の三木谷浩史さんは、インターネットを使って自由に商品のやり取りができるスペースを作りたいという思いから「楽市楽座」に由来する社名をつけました。 現代でも、規制緩和が議論になることは度々あります。 安倍政権では、国家戦略特区を設置し規制緩和をすすめています。 加計学園問題では、新規参入を進める内閣府を「文科行政への横やりだ」と前事務次官が告発。 一方、告発した前川氏もいわくつきの人物で、天下り斡旋の責任を問われ辞任にした過去を持つ人物です。 実は「天下り」と「規制」は、表裏一体の関係で、ルールができれば、そこで甘い汁を吸おうとする輩が現れるもの、現代であっても難しい規制緩和を、信長は自分の才覚で実践した政治家です。 経済学的にみた戦国という時代 戦国時代に突入した日本、時同じくして、石見をはじめとした銀山の開発がすすみ、世界の3分の1の銀を産出したといわれています。 当時の世界経済においては、銀は唯一の決済通貨です。 掘れば掘っただけ、金(かね)が沸いてきたことで、日本は世界有数の貿易国となり、未曾有の好景気に突入しました。 天下布武をめざした信長。 その戦いは、日本という極東の島国の戦いではなく、世界一の金持ちをめざして戦った戦いでもあったのです。 戦争ばかりしていたイメージの強い戦国時代ですが、人口は爆発的にふえ、経済、文化、あらゆる面で急成長した黄金の時代という側面もあります。 16世紀の100年間は、日本の農業生産力が2~2. 5倍にも増加しました。 また関ヶ原の合戦で東西合わせて5万丁の鉄砲が一戦場に集結したという事実は、ナポレオン戦争以前の世界では例がありません。 当時、ヨーロッパ全体でも銃の保有数は6万丁ほどで、日本は世界でも稀な軍事大国だったことが分かります。 金は天下のまわりもの 二宮金次郎が説いた教えで有名な「たらいの水」の話をご存じでしょうか?たらいの水を自分の方に引き寄せようとすると、水は向こうに逃げてしまう。 相手にあげようと押すと、こちらに帰ってくる。 幸福を独り占めしようとすると逃げてしまうが、相手のために尽くしていると幸福は勝手にやってくる、という教えです。 座によって物価は高騰し、独占業者たちはやりたい放題で、逆に商業の発展を止めていましたが、信長の規制緩和によって、物価は下がり、それまで不当においしい思いをしていた業者たちは既得権益を奪われ、また、自由な市場を得たことで新規参入の業者が増え、経済は発展しました。 金は天下のまわりもの。 とかく権力者は、規制をかけ市場や人々の生活をコントロール下におこうとするもの、しかし信長は、あえて権力を手放すことで、それ以上の利益を自らの国、ひいては自らのポケットにため込んだのでした。 信長のマネジメント力 マネジメントとは、直訳すると「経営」「管理」などの意味をもつ言葉です。 具体的には組織の目標を設定し、その目標を達成するために、経営資源を活用したりリスク管理することを指します。 俗に「魔王」などと言われる信長ですが、手法が多少?荒っぽいだけで、目的のために一直線で走り抜ける姿は、マネジメント力にたけた優秀な経営者にも思えてきます。 現代の企業の経営者が決算を競うように、戦国大名たちも自身の生き残りと領土拡大のため、領民や家臣に対する統治活動や領地争いの軍事活動やそのための経済活動が行ないました。 そこには、時代をこえても共通する「 マネジメント」の力があったのです。 戦国時代とは、それまでのすべての権威が否定され、身分の差をこえ、部下と上司、時には親子同士で覇を競う何でもありの時代でした。 自らの器量次第で、侍でも、大名にまでも成り上がれる下剋上の世界は、グローバル化が進み、国境をもこえた何でもありの現代のマーケットに似ています。 戦国時代につきものの「合戦」。 その勝敗はもちろん武将の能力に左右されるものですが、もっと重要なのものは経済的基盤の有無です。 信長の「楽市楽座」などの経済政策は、国を豊かにし、財政を整え、兵を強くするための施策でした。 さらにいえば、信長の兵力の源は、「金」、つまり傭兵です。 金で雇った兵士たちを並べ火縄銃で駆逐する戦のやり方は、兵士の鍛錬に時間をかけてきたそれまでの戦のやり方を180度かえるものでした。 信長の行ったノベーション(改革)である「楽市楽座」は、結果として兵農分離がすすめ、今でかってなかった強い日本人(平民)の出現を促しました。 明日の立身出世を夢みた多くの若者たちが競い合うことで、日本を豊かにしたのです。 ドラッガーはマネジメント(経営)の正統性について、このように言ってい ます「正統性の根拠は一つしかない。 人の強みを生産的にすることである。 」と、生産性の真の意味は「人の価値ある幸せを実現する。 」ことです。 魔王といわれた信長は、その確かなマネジメント力によって、多くの幸福をもたらす改革者であったのです。 信長の「イノベーション」と「ブランディング」 「天下布武」は信長が自身のミッションを明確に示した「経営理念」の表明 で、これだけをみても時代を超えたマネジメントのあり方を示します。 信長はいっさい人の忠告を聞かなかったと言われていますが、聞かなかった のは忠告であって情報や知識は貪欲に収集をおこなっています。 それもポルトガル宣教師などの最先端の情報には、非常な興味を持って聴き取ってそして先入観なしに理解しているので、地球が球体であることも正しく理解していたそうです。 ここには、あるべき経営者としての基本姿勢の原型が示されています。 情報と知識は先入観と予断なくあらゆる人からあらゆるところから金に糸目をつけず収集し、そして意思決定においては誰にも頼らずここでも先入観と予断なく決定しそして決断したことは直ちに行動に起こす。 そして、失敗したら全体構想に鑑みて直ちに修正し再行動を行います。 経営者には先入観と予断なくという前提のうえでまた絶えずアンテナをはっ たうえでの話ですが、正しいとの確信したなら跳躍しなければなりません。 誰も行っていないこと、前例のないことに跳躍するのは恐怖です。 しかし跳躍のない経営は、間違いなくゆるやかか急激かは別として確実に衰退しやがて崩壊に向かうのが定めであります。 改めて考える信長の「辞世の句」 誰も歩んだことのない道なき道を、マネジメント力を駆使し、天下布武をめざした信長。 登場以前には搾取される奴隷農民はいても年貢を徴収でき る「農民」という存在自体はいませんでした。 そこで行ったのが関所の撤廃と兵農分離で、これによって統治して年貢の徴収を行える自由民である平農民が生れることになりました。 また、楽市楽座や撰銭令の実施で商業者の経済活動が活発化して、地子銭や 津銭などの税金の徴収も増えることとなりました。 マネジメントの目的が「顧客創造」であるとする「ドラッガー」の定義はな かなか理解できにくいものです。 戦国時代にこれを実践し「神の役割」を意識した織田信長は経営者として見た場合時代を超越した第一級の経営者と言えそうです。 織田信長は独特の死生観を持っていました。 「人間五十年、下天のうちにくらぶれば、夢幻のごとくなり」の謡を好み舞ったのはテレビドラマでもよく出てくるシーンですが、虚無感と美意識と意志力でもって時代の定式を超越して切り開いて行きました。 その美意識においては、パソコンのプリント基板にも美を求め前例のない商品を創り出したスティーブ・ジョブズのあり方とどこか共通している趣がありそうです。 大河ドラマで描かれる信長像は、武田信玄や上杉謙信などの戦国武将がライバルとして描かれます。 しかし上念さんによれば、信長の真のライバルは、宗教勢力であったことを指摘しています。 信長が戦ったのは、武将だけでなく、むしろ宗教という最強の既得権益でした 現代ではわかりにくい感覚ですが、中世において、宗教団体は、経済を牛耳る一大コンツェルンという側面もありました。 魔王ともいわれた信長の半生のなかで、有名なのが、比叡山延暦寺の焼き討ちです。 織田信長は、比叡山延暦寺を焼き討ちし、僧侶、俗人、老若男女あわせて4,000人を皆殺しにしたといわれています。 罪のない人たちを、問答無用とばかりに皆殺しにしたことから織田信長は血も涙もない残酷な人であり、宗教弾圧を行ったと後世の人たちは批判しています。 この批判に対して否という回答をわかりやすくおこなったのが、井沢元彦さんの『逆説の日本史 10 戦国覇王編』です。 信長が登場するまでの日本における巨大寺院(たとえば本願寺や延暦寺)は、ものすごい権力を持っていました。 ものすごい権力とは経済力と軍事力です。 経済力の源泉は、明との貿易や、広大な荘園や様々な利権です。 たとえば寺院が関所を管理して、その関所を通る人からお金を徴収していました。 軍事力の源泉は、多くの信徒です。 これらの人は、もし寺院が他の寺院や大名に襲われるような事態が生じた場合は、武器を手に立ち上がり一丸となって戦いました。 この時代、寺院がほかの寺院を焼き討ちすることが行われたのですが、これは自分の寺院の勢力の拡大を求めて行われたことが多かったようです。 比叡山延暦寺も天文法華の乱では、洛中の法華寺院を焼き討ちし最大1万人の人を皆殺しにしたのですから、織田信長の焼き討ちがこの時代の焼き討ちの中で、ずば抜けて大きな事件ではなかったと考えられます。 燃やしたものは「宗教」ではなく「既得権益」 それでは、なぜ織田信長は比叡山延暦寺を焼き討ちしたのでしょうか。 織田信長は、戦国大名でありながら、他の大名と異なった点が一つあります。 他の大名は、自分の勢力の拡大を目指して戦っていただけですが、彼は、天下を統一し、その後どのように運営すればいいのかというグランドデザインを持っていたのです。 このグランドデザインというのは、ようするに日本をよりよい国にするために、寺院の持つ利権を剥奪しましょう。 そして楽市楽座のような自由に商取引がおこなえる場所を設けて、経済を発展させましょうというものです。 この時代、経済をにない事実上の日本銀行のような機能をになっていたのが、比叡山に代表される宗教勢力でした。 そしてこの枠組みは、日本だけでなく、ヨーロッパからきた宣教師も同じミッションを背負っていたのです。 事実、宣教師たちは熱心にキリストの教えをとく一方、随行した商人たちは暗躍し、奴隷貿易から植民地経営までのりだしていました。 21世紀になっても終わらない、世界の宗教対立 今日も、地球上のどこかで、戦争はおこっています。 そしてその殆どに「宗教」が関係しています。 十字軍の時代から、イスラム教徒とキリスト教徒。 あるいは、カソリックとプロテスタントと、同じキリスト教同士でも、血で血で争う闘ってきた歴史があります。 現代でも、イスラム国を代表とする中東情勢では、政治的な利害や信仰の違いが複雑さまし、多くの悲劇をよんでいます。 しかし、日本はどうでしょう?教科書を開いても、血で血を洗う宗教対立は見られません。 しいてあげれば、信長による比叡山の焼き討ちや、島原の乱ぐらい。 これは世界的には大変珍しいものです。 宗教は、ひとに安らぎをあたえ、人生を豊かにしてくれます。 仏教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンズー教など、いずれの神様も、大変優しく、人類に救いをもたらします。 ところが、信じるものは救われるっとしながらも、じゃ、他人が信じる宗教が違っていたらどうなるでしょう?宗教はおのれの絶対性を信じるがゆえに、一転して、排他的となり、ときには戦いに発展してしまいます。 ヨーロッパでは、カトリックとプロテスタントが争った中世には、欧州の人口の4分の1が犠牲となる動乱となりました。 火あぶりの刑や水責め拷問などの残虐行為も行われ、戦争で飢饉や腺ペストも欧州全域に広がりました 同じように、日本もかつて深刻な宗教対立があった時代がありました。 法華経信仰を提唱した日蓮は真っ向から仏教の他宗派の教義を否定し、彼の教えのみの正統性と優位性を説き、また一向宗は、政治や経済と強い結びつきをもち社会を支配する時代があったのです。 日本の宗教観をかえた3人の偉人 ヨーロッパや中東では2000年にわたり、宗教対立を続けています。 そして今なお、多くの血が流されていることは由々しき事態です。 キリスト教国が集まるヨーロッパでは、深刻な対立を糧に、信教の自由や政教分離、そして民主主義の導入と、壁をのりこえる努力を積み重ねてきました。 しかし、日本は違います。 ヨーロッパの国々が血をにじむような努力と対話で築きあげてきた秩序を400年も前から実現させてきた稀有な国なのです。 では日本だけが宗教と、フラットに向き合えるのでしょう? その秘密には三英傑の知られざる活躍がありました。 信長の場合 織田信長というと 比叡山の焼き討ちと、一向宗の弾圧という単語が頭に浮かぶ人も多く宗教に厳しい独裁者というイメージが先行しています。 しかし焼き討ちの後に、信長と天台宗 比叡山は天台宗の本山 の関係がどうなったか?についてみてみると意外な事実にきがつきます。 確かに信長の焼き討ちによって延暦寺の権威は著しく低下したが、かといって天台宗自体が潰されたわけではないという点です。 これは、宗教団体による政治への介入がひどい場合のみ、手を下し、個人による信教の自由や、布教の自由さを担保していたことがわかります。 つまり今から400年も前に 『政教分離』を成功させたのです。 織田信長という人は、政治に口出ししたり、武装したり、統治者に歯向かうような真似をしなければ、どんな宗教でも寛容な心で接しています 日本に様々な宗教が入り込むことも、それぞれが熱心に布教活動を行うことも許しています。 確かに織田信長は破壊者であったが、それは古いしきたりや利権に対して向けられた物であり、一度破壊が終われば民衆を守り、日本経済を発展させ、あらゆる宗教の自由を保護する守護者としての一面もあった。 織田信長とは、世界史上まれに見る 理想的な独裁者だったといえます。 こうした信長の一連の宗教政策によって、日本では宗教家が軍事力を持つことが出来なくなり、世界中でいち早く政教分離を実現させた国家となりました 豊臣秀吉の場合 豊臣秀吉はキリスト教の布教を認めたものの、漂着したオランダ人から、「スペイン人は征服者であり、他国に修道者を入れ、その後に軍隊を入れて征服をする」との報告を受け、一気に弾圧に動き出しました。 これが日本二十六聖人の殉教につながります。 敵は味方のふりをする?この時代の宣教師たちは、植民地化の先鞭という側面がありました。 高橋裕史『イエズス会の世界戦略』によれば、明征服のためには日本はキリスト教徒を増やし、彼らを兵として用いるべきとしています。 秀吉による唐入り(朝鮮出兵)は、日本を植民化することを狙うスペインとの駆け引きの中で起こったと指摘する研究者もいます。 失敗におわった朝鮮出兵で、人心をうしない、徳川家康に天下を譲った秀吉でしたが、その奮闘ぶりは宣教師によって本国に伝えられ、植民地化を断念させたともいえます。 大航海時代以降の世界で、植民地化されなかったのは、アジアでは、タイと日本。 アフリカではエチオピアのみ、世界192か国で、3つの国しか成しえなかったキリスト教圏の撃退という大義を秀吉はなしとげました 徳川家康の場合 童話『北風と太陽』で例えると信長は北風で宗教を律し、家康は太陽で骨抜きにした功労者です。 家康は一向宗やキリシタンの脅威に際し、檀家制度を作り、仏教を葬式仏教にして軍事的に無力化していったことです。 家康は現代における戸籍を寺に管理させ行政の一端を担わせます。 そしてすべての国民がいずれかの寺の檀家になることを強制し、個人は決められた寺の枠組みのなかで生涯を暮していくことになります 家康の宗教政策は、たくさんの効果を生みました。 檀家制度による安定した収入布教活動の禁止(檀家の取り合いの禁止)おかみに文句さえ言わなければそこそこの暮らしができる保障・・・ この効果は、家康が宗教側に食べさせた強烈な『毒まんじゅう』です。 いまだに仏教が葬式仏教と揶揄される所以も、家康が仕掛けた饅頭があまりに美味かったせいではないでしょうか? あらためて考える信長の功績 信長は当時の多くの人が聖域と思っていた比叡山を焼き討ちにしました。 さらにたてこもる一向宗の門徒に対しては、根切りといわれた殲滅戦を行っています。 この2つの事実だけ見れば、信長は宗教に対して厳しい人物だったと感じてしまいます。 しかし、この焼き討ちの後に、信長と天台宗 比叡山は天台宗の本山 の関係がどうなったか?がポイントです。 聖地に火をかけた以上、本当に信長が宗教弾圧者であるなら、禍根を残さぬために天台宗を徹底的に弾圧したはずです。 しかし実際は天台宗という宗教自体には何の手も打っていません。 確かに信長の焼き討ちによって延暦寺の権威は著しく低下したが、かといって天台宗自体が潰されたわけではないのです。 95年、日本でおきたオウム真理教によるサリンによる無差別殺人事件では、教祖は逮捕され、教団は解体されました。 しかし、信長は、教祖をゆるし、また個人個人の信教の自由を保障しています。 合理主義者であった信長には、宗教団体への遺恨はなく、最初から 『政教分離』、『商教分離』というビジョンをもっていたと考えれます。 信長は、政治に口出ししたり、武装したり、統治者に歯向かうような真似をしなければ、どんな宗教でも寛容な心で接しています。 織田信長は破壊者であったが、それは古いしきたりや利権に対して向けられた物であり、一度破壊が終われば民衆を守り、日本経済を発展させ、あらゆる宗教の自由を保護する守護者としての一面もありました。 織田信長とは、世界史上まれに見る 理想的な独裁者でした。 こうした信長の一連の宗教政策と、それを引き継ぎ発展させた、秀吉、家康の3人の功績によって、日本では宗教の毒がぬかれ、世界中でいち早く政教分離を実現させた平和な国となっています。 そして、21世紀になった現在ても、世界のほとんどの国で「宗教対立」が起こっています。 そうした国には、信長がいなかったのだっと、ただただ感謝するばかりです.

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【織田信長】の名言・格言集 22選!

織田信長 俳句

スポンサーリンク 織田信長 家紋 織田信長の家紋といえば有名なのがこの 「木瓜紋」。 由来は胡瓜の断面や花の形から案出されたという説があり、形が卵の入った鳥の巣を上から見た形に似ていることから、今後さらに卵が増え子孫に繋がるようにと 「子孫繁栄」の意味で使われることが多いといわれています。 木瓜紋は外葉の数により、三瓜、四瓜、五瓜、六瓜と数種あり、 織田家は五瓜に当たります。 もっこうと 呼ばれてきたのは、多くの神社の 御簾の帽額 もこう に使われた文様だからといいます。 もともと公家が使っていた有職文様の一つでしたが、御簾や牛車に使われるようになり、しだいに家紋としても使われるようになりました。 織田信長 肖像画 「織田信長」といえば、もはや知らない人はいないほど有名ですね。 このコーナでは、教科書で見た「織田信長」はもちろんですが、 あまり目にしたことのない 「織田信長」の肖像画をご紹介していこうと思います。 スポンサーリンク 織田信長 初陣から本能寺までの全合戦・年表一覧 それでは、信長が生涯を通して戦った全合戦を見てみましょう。 通算成績は 90戦64勝20敗6分(勝率0. 711)です。 現代のプロ野球やサッカーで考えるとかなり高い勝率と言えそうですが、実際はどうだったのでしょうか…。 下記にすべての合戦を網羅しました。 信長初陣から時系列でご紹介いたします。 90戦のうち「負け」も多く(20敗)ありますが、その負けは次につながる教訓として、 必ずリベンジを果たしているのも見逃せません。

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