桜井政博。 桜井政博について思うこと

スマブラfor&SP桜井政博の問題点まとめ

桜井政博

2012年08月21日 22時43分 「ゲームの本質はリスクを冒してリターンを得ること」、星のカービィなどを制作した桜井政博の講演「あなたはなぜゲームを作るのか」 任天堂より発売された「」や「」などを手がけた代表のさんが、ゲームからどのような影響を受け、どういういきさつで業界に入り、どう考えてゲームを制作して、仕事について、社会についてどう考えているのかを「 」というタイトルの基調講演を にて行いました。 私はゲームデザイナーの桜井政博です。 どうぞよろしくお願いします。 今回依頼を受けましたが、私の言いたいことは、2冊同時刊行した「 」「 」を買ったり読んだりすれば分かってもらえると思います。 ただ、せっかく登壇する機会なので、是非みなさんと一緒に楽しんで行きたいと思っています。 といっても特にお伝えしたいことはなくて、みなさんはゲームを作られている人なので、独自に頑張ればそれでいいと私は思っています。 ただ、何らかの考えの一助になればと思い、今回の依頼を受けることにしました。 本講演は、インターネットで配信もされますが、基本的にゲーム制作者に向けられたものです。 つまり、皆さんに向けたメッセージであるということです。 講演のお題は「あなたはなぜゲームを作るのか」。 こういうふうに題名を立てられると、少なからず頭の中で自分はなぜゲームを作っているのかと考えたかと思います。 わざわざ聞きはしませんけれども、そういうふうに思わせること自体が重要なことであって、それでもう講演の目的が果たせたのもしれません。 それでは、なぜ私はゲーム業界に入ったのかといういきさつと動機について話していきます。 私の人生はコンピューターゲームの成長と共にあり、コンピューターゲームの成長に、ものすごさに影響を受けた世代です。 ゲームの歴史を追いながら過去の私を解説することで、自分がなぜゲームを作るに至ったのかを簡単に解説していきます。 私のようなオッサン世代には結構なつかしいものが出て嬉しいのではないかと思います。 平成生まれは居眠りでもしてもらえば……というわけにはいかないので、なるべく楽しくしていきましょう。 まず、私は1970年生まれで、1970年はカラーテレビの普及率が白黒テレビを上回った年だといわれています。 1973年頃「」のようなゲームが増えてきました。 パドルを上下に動かして、玉を打ち返すタイプのゲームです。 「PONGのような」と言うのはなぜかというと、類似品が多くあり、「PONG」ですら元祖ではないので、あえてそういう表現をしています。 76年ぐらいになるとブロック崩しが登場し、一人用になったということ、倒すべき相手という概念が出てきたことが重要な進歩です。 1976年はの時代と一致します。 幼年時代は画面の中のモノを操作できることに対する強烈な感動を覚えたときです。 パドルでぐりぐり可変テープをいじれば、棒みたいなものが画面の中でギャンギャン動くだけで大変楽しかったです。 虫と子供は光るモノが大好きですから、してやられちゃった世代ということになります。 1977年頃になると任天堂から発売した家庭用のというものがあります。 テレビゲーム15とという、その名の通り15種類のゲームと6種類のゲームが遊べるものです。 翌年1978年、が日本を席巻した年です。 ここで最大の侵略者がやってきます。 それが「」です。 元々ゲームセンターにあったメインのメダルゲーム・スロット・競馬ゲームなどが、全てビデオゲーム機に替わり、喫茶店などのテーブルがインベーダーゲームになり、インベーダーハウスというゲームセンターが乱立し、ゲームで初めての社会現象となりました。 1980年の10歳のとき。 大体ガンプラブームの頃です。 「」が登場し、日本で約1287万個、世界で約4340万個売れました。 また1980年にはアーケードでが登場し、ちゃんとしたキャラクターゲームが遊べるようになった世代です。 80年以降、LSIゲームやみたいなモノが増えてきます。 その中で据え置きアーケード・携帯ゲームそれぞれがある、「」・「」といったパックリいったゲームがいろいろ出てきた、おおらかな時代だったと思います。 そして据え置きアーケード・携帯ゲームの文化ができ、さまざまな作品に触れることができました。 81年に日本では「」が登場。 私はカセットビジョンをおもちゃ屋で遊んでいるだけでした。 ドットを物差しで測れる時代だったので、アーケードで遊べる方がいいなと思っていました。 81年から82年にはがぼちぼち出てきます。 後のである「」「」「」がここでそろっているのが分かります。 明けて83年は、1月に、アタリのワイヤーフレームのスターウォーズ、レーザーディスクゲームが出てきた頃ですが、ヤツがやってくるわけです。 「ファミリーコンピューター」の登場です。 とにかく当時見ていた私から見ても「ファミリーコンピューター」は圧倒的でした。 映像も音楽も操作性もゲームの面白さも全てがそろっていました。 このころ、他のハードウェアは何が出たかというと3月にバンダイから「」、5月にアタリの「」が日本上陸、7月にベクトルスキャン方式の、が出た時代です。 とかがみんな1色でしたが、「ファミリーコンピューターは」は3色フルカラーで52色使えて、十字キーを使った操作性もよく、かなり面白かったことを覚えています。 そして何より、間違えじゃないかと思って、何年かに一度調べ直してしまうことが、「ファミリーコンピューター」と同じ日に発売されたハードウェアが「」で、SGは「Sega Game」の略です。 つまり、セガと任天堂の確執は同じ日に始まったということです。 セガのゲームも面白くはあったんですが、「ファミリーコンピューター」はやっぱり圧倒的でした。 とにかく少年時代に「ファミリーコンピューター」はゲームの世界を大きく変え、私もこれはやばいと思って、その年の内に貯金をみんなはたいて買ったという覚えがあります。 当然四角ボタンです。 同じ年にはPCゲームの「」「」「」。 私にとっては、PCゲームは高根の花で、とても手が出るものではなかったので、パソコンショップで遊んでました。 なかでもボンバーマンの前身である「」が大好きでした。 また、83年には性描写のあるもこのぐらいに出ています。 実は、大手のゲーム会社がアダルトゲームを作っていこともあり、今作ったら武将とかが組んずほぐれつするようなゲームになっていたかもしれません。 84年の7月、「ファミリーコンピューター」が発売されてから1年が経った頃にハドソンから「」というゲームが登場します。 ファミコン初のサードパーティーソフトで、サードパティービジネスのはしりです。 同じくハドソンから、ファミコン初のスクロール画面ソフトと言われている「」が「ナッツ&ミルク」の3日後に発売されました 84年にカプコンがビデオゲームを出したのもこの年です。 「」「」「」が出てきたころで、ロールプレイング的な攻略要素や成長などがあるゲームでした。 日本のゲームはアーケードやコンシューマーとかで成長していますが、そういう日本の得意な分野、ロールプレイングの面白さが融合されていた時代です。 同じく84年、というアルバムが出ます。 YMOのさんが制作した日本初のゲームミュージックアルバムです。 いろいろなメーカーが独自のバンドを出すという流れが出てきました。 そして84年に自分の進路に大きく影響するモノが出てきました。 それがファミコンでプログラムが作れる周辺機器「」です。 1984年6月21日発売、メモリ容量が2キロバイトしかなく、2000文字ぐらいでベーシックを組まなくてはいけないものです。 当然パソコンを買えない私にとっては、すごく重要なもので、半年間ぐらいお小遣いをためて、やっと買いました。 84年はファミリーベーシックでファミコンとプログラムの概念を学びました。 これがよかったんですね。 スプライトを扱うことによって、例えばパラメータをどう設定すれば、どういうふうに動きに感情が出るのか、ということを数字で表す鍛錬になりました。 この鍛錬がなければ今の私はなかったと思います。 85年、長い間続いたので、ご存じの方も多いと思いますが、の全国キャラバンが始まりました。 ゲームを遊ぶこと自体がイベントになっていました。 一方、アーケードは独自の進化を始めました。 いわゆる体感ゲームの「」「」です。 85年といえば、ビデオゲームの代名詞「」が発売され、世界で4000万本売れました。 85年は「ファミリーコンピューターMagazine」と「ファミコン通信」といったゲーム専用雑誌の幕開けです。 86年は15歳のときで、進路を考えるようになり、当時おぼろげに感じていたことであり、今ではハッキリとしている重要なことがあるのでお話ししたいと思います。 「人は人の仕事によって生かされている」、逆に言えば「人は人の仕事でしか生きることができない」ということです。 たとえば、コンビニ弁当1つにどれだけの技術や工夫をしているかをスタッフロールにして表したら、数百人、数千人がスタッフロールに並ぶかもしれません。 今日は車でやって来ましたが、車の部品・高速道路・ETCシステムなど、人の仕事がなければ、できないことです。 私たちはものすごい恩恵を受けているということです。 人の仕事によってのみ生活は成り立っていると考えていいと私は思っています。 つまり、「その道のスペシャリストが世界を築いている」ということです。 そして何かに特化した方がいいと考えています。 専門家が特化することで人の生活が快適になると思っています。 人が作ったこれだけのものに囲まれている世の中に、不満を多く持っているということは損なことです。 多くの人がモノを生み出す今の状況であれば平均的になるのは当たり前で、その中で特化していくことが重要なことだと思っています。 青年時代、「実践的なことを早くやるほど有利」だと考え、学業にはあまり意味を見い出せない子供でした。 成人になってまで大学にいるよりは、現場に入った方が専門的な知識は得られると考えていました。 そこで、5年制の高等専門学校に行くことにします。 高専に行ったものの、これをやっていていいのか、という疑問を持ち始めます。 授業はつまらなくて、落ちこぼれるのが早かったんですけど、授業中に「 」を使ってゲームを作っています。 このころ、なんとなく「私はゲームを作ることができるのはないかと」と思っていました。 そこで、素早く進路変更をして普通高校に入り、ゲームの研究をするために、バイトをして、稼いだお金でゲームを買いました。 抱き合わせでもなんでもゲームを買って、面白いつまらないに関わらず、アイデアメモなどは取らずに、血肉となるように、どんどん遊んで、楽しさが生まれる感触を体で感じるようにしました。 そして、という会社に入りました。 こんなに簡単でいいのかと、開発の中で反対などもありました。 ファミ通にコラムを連載していますが、悩みとして「内圧」ですね。 作っている側はべらべらしゃべってはいけないと思っていて、しゃべらないで、我慢して、内圧をため、それを作品に打ち込む、というのがあるべき姿だと考えています。 コラムで披露するのは本筋ではありませんが、喜んでもらえる方がいるのでコラムを続けている状態です。 シビアさを感じるために、自己責任の世界へ出てみました。 フリーのときに監修の仕事もしましたが、あえて自分の名前は表に出していません。 表に出すと私が作ったように見えて、スタッフも私も不幸になるためです。 ゲームのルール(システム)をどう考えるのかというと、必要に応じてロジカルに考えています。 特にアイデアにためがあるわけではなくて、必要に応じて考えます。 たとえば、企画書は3日ぐらいかかりましたが、「メテオス」の打ち上げパズルのルール構築は5分で終わっています。 私はパズルゲームはとても苦手です。 でもゲームは作れます。 なぜかというと、リスク&リターンという最も重要視している理論を使っているからです。 「ゲーム性」とは、かけひき、リスクとリターンだと考えています。 シューティングゲームの場合 敵と砲台の距離が離れていればノーリスク・ノーリターン。 近づけばリスクは増えますが、リターンが得られます。 つまり、ゲームの本質は、リスクを冒してリターンを得ることです。 似た言葉に「攻略」があり、ゲーム性は楽しさ、攻略は工夫というように分けられます。 インベーダーゲームで具体的な攻略の例を見ていきます。 動いていなければ、インベーダーの攻撃範囲は紫色部分です。 実際には、インベーダーは横に移動するので、攻撃範囲は斜めになります。 インベーダーを追うと、攻撃が当たりません。 追われると、当てる可能性が高くなります。 リスクを決めるこの距離が単なるデザインではなく、ゲーム性のキモになっています。 また、リスクを変える陣地()もゲーム性のキモです。 だから、3方向に弾を撃つのはよくないデザインだとわかります。 スペースインベーダーにはスルドイ仕様がたくさんあります。 侵略寸前になると相手の攻撃があたらなくなる「」はゲーム中最大の危機でありながら、最大のリターンが得られるところがスゴいところです。 アクションゲームのマリオでも説明してみます。 敵と離れているときはリスク小さく。 近づくとリスクは大きくなりますが…… ジャンプで踏めばOKで、武器を手に入れることができます。 ただ、ゲーム性は楽しみの1つであって全てではありません。 ゲーム性を上げると一般性が下がると乱暴にいうこともできます。 ゲームを作る上で、私は私が好んで遊ぶようなゲームを作っていません。 必要だと思うものを制作する、ということが重要だと思います。 また、人が対価を払ってまで欲しいと思えるものを作り、その対価を得られるだけで、十分に社会貢献になっています。 ゲーム制作者は人が欲しいもの、楽しいと思うモノを追求して行くべきだと思います。 時代と得意を考えて自らの役割を磨くこと、これがいつの時代にも求められています。 自分が好きで選んだ道で皆さん頑張って下さい。 多くの人が築いたこの社会で、自分の力が出せるのはどこなのかを考えるきっかけになればと思います。

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桜井政博について思うこと

桜井政博

岩田社長というより、 そのときは岩田部長ですね。 桜井 そのとき、私は18だったと思います。 はい、未成年です(笑)。 そのときの岩田さんのことで、 いちばん印象に残っているのは、 笑顔なんですよね。 桜井 ずっと笑顔で話を聞いていて、 ご自分が話すときもつねに笑顔で、 私がなにか答えると、 すこし考えて、話したことを、 バチバチバチっとメモを取る。 その面接のとき、 「おとなって、こんなに笑うものなのか」 と思ったんですよ。 まだ学生だった私は、 会社って、こういう人が いっぱいいるのかと思ったんですね。 ま、そんなわけはないんですけど(笑)。 人と付き合って、 心底おもしろくて笑ってるような感じで。 桜井 初対面の18歳の坊やを前にして、 おとながそんなに屈託もなく、 おもしろそうに笑うっていうのは、 やっぱり、自分にとってはけっこう衝撃的で。 とくに、面接という場では、 面接官だって多少は緊張すると思うんですよね。 言動によっては会社が信用を 失ってしまったりすることだってあるだろうし。 だけど、岩田さんは笑顔で、 そのころから、やっぱり、岩田さんでしたね。 それは、1989年ぐらいですから、30年前? HAL研が10周年だったころです。 つまり、『岩田さん』の本に書かれている、 西武のコンピュータ売場の仲間たちと HAL研究所を立ち上げてから、 10年後ということですね。 私は「え、ふつうじゃん」って 思ったんですけど、それはまさに 岩田さんが本の中で言ってるように、 本人はふつうだと思っていたことが、 人にとってはふつうじゃない、 ということだったんでしょうね。 桜井 おそらくそうでしょうね。 でも、逆にこちらが驚いたのは、 岩田さんがそのワープロソフトの仕様を くわしく知っていたことですよ。 広く知られているようなものではなかったので。 桜井 そうです、そうです。 そのころから、いろいろ詳しかったのかなぁ、 と思ったりもしました。 たしかに、当時のHAL研は、 ソフト開発だけではなく、 周辺機器とかもつくってましたから、 知る必要があったのかもしれませんけど。 桜井 どういうことかというと、 岩田さんは、つねに、会社のなかで、 トラブルがあるところに行くんです。 予定どおり進まなくなったプロジェクトとか、 頓挫しそうな企画とか。 基本的には、火を消すために飛び回ってる。 桜井 もちろん起こることは起こるんですけど、 自分のところは、わりと任せても平気と 思ってもらっていたんでしょうね。 だから、基本的に放任というか。 ゲームの内容について あれこれ言われたことはないですし、 トラブルがあったとしても、 順を追って潰していけば 自分たちで解決できるものでしたから。 桜井 岩田さんが自分の仕事にジョイントしたときの 記憶として残るのは、 『スマブラDX』(2001年発売)ですね。 桜井 はい。 よく知られている NINTENDO64の最初の『スマブラ』(1999年発売)の テスト版もいっしょにやりましたけど。 各キャラクターの動きや技は、 こういうふうな変数を持っていて、 こういうふうな原則で動かす、というような。 それをプログラムするのは、 もちろんプログラマーです。 で、その動きを司る数を、 最終的に私が調整できるように、 パラメーターにしておいてもらうんです。 つまり、数字が入る箱をつくっておいてもらって、 最後に自分が数字を箱に入れていく。 その最終的な調整をぜんぶ自分がやってたんです。 桜井 そうです。 だけど、その箱がちゃんとできてないと、 私が数字をいくら変えても そのとおりにならないんですね。 そうするといろんな工程が滞ってしまって、 どんどん時間が無駄になっていく。 そういうところに岩田さんが飛び込み、 ひとつひとつチェックされてました。 具体的にいうと、問題がある プログラマーの横にずーっと貼りついて、 プログラムを見て、間違いを見つけて、 そのまま指示して修正する。 自分が手を動かして直すというよりは、 その人のところに行って、 いっしょに解決するみたいな感じ。 狭いブースにふたりで入ってるのは、 ちょっとかわいそうでしたけど(笑)。 どういうタイミングで、 どういうふうに入ってこられたんですか? 桜井 トラブルが頻繁に起こったり、 このままでは終わらないかもしれない、 というふうに問題が深刻化したときに、 「どうして終わらないのか?」というのを 岩田さんが考えた結果として 入ってくださった感じだと思います。 桜井 はい、それに近いです。 自分が岩田さんに「入ってくれ」なんて、 絶対に言えないです。 岩田さんがものすごく 忙しいことはわかってますし、 なによりそれを解決するのが、 我々の仕事ですからね。 桜井 そうだと思います。 もちろん岩田さんは他人のプログラムを見て 間違いを直すのも速いですし、 現場に入って手伝ってもらうのが いちばん安定する方法だった というのはたしかですけど。 でも、自分は申し訳なく思ってました。 岩田さんはほかのことでとっても忙しいから。 桜井 基本的には、離れてます。 プロジェクトに関わっているときも クリエイティブな作業ではなくて マネジメントをしている感じでした。 (つづきます) 2020-01-27-MON•

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『スマブラ』とスポーツカーと誠実の怪人。桜井政博さんに聞く岩田さんの思い出。第3回「E3の発表の翌朝に」

桜井政博

岩田社長というより、 そのときは岩田部長ですね。 桜井 そのとき、私は18だったと思います。 はい、未成年です(笑)。 そのときの岩田さんのことで、 いちばん印象に残っているのは、 笑顔なんですよね。 桜井 ずっと笑顔で話を聞いていて、 ご自分が話すときもつねに笑顔で、 私がなにか答えると、 すこし考えて、話したことを、 バチバチバチっとメモを取る。 その面接のとき、 「おとなって、こんなに笑うものなのか」 と思ったんですよ。 まだ学生だった私は、 会社って、こういう人が いっぱいいるのかと思ったんですね。 ま、そんなわけはないんですけど(笑)。 人と付き合って、 心底おもしろくて笑ってるような感じで。 桜井 初対面の18歳の坊やを前にして、 おとながそんなに屈託もなく、 おもしろそうに笑うっていうのは、 やっぱり、自分にとってはけっこう衝撃的で。 とくに、面接という場では、 面接官だって多少は緊張すると思うんですよね。 言動によっては会社が信用を 失ってしまったりすることだってあるだろうし。 だけど、岩田さんは笑顔で、 そのころから、やっぱり、岩田さんでしたね。 それは、1989年ぐらいですから、30年前? HAL研が10周年だったころです。 つまり、『岩田さん』の本に書かれている、 西武のコンピュータ売場の仲間たちと HAL研究所を立ち上げてから、 10年後ということですね。 私は「え、ふつうじゃん」って 思ったんですけど、それはまさに 岩田さんが本の中で言ってるように、 本人はふつうだと思っていたことが、 人にとってはふつうじゃない、 ということだったんでしょうね。 桜井 おそらくそうでしょうね。 でも、逆にこちらが驚いたのは、 岩田さんがそのワープロソフトの仕様を くわしく知っていたことですよ。 広く知られているようなものではなかったので。 桜井 そうです、そうです。 そのころから、いろいろ詳しかったのかなぁ、 と思ったりもしました。 たしかに、当時のHAL研は、 ソフト開発だけではなく、 周辺機器とかもつくってましたから、 知る必要があったのかもしれませんけど。 桜井 どういうことかというと、 岩田さんは、つねに、会社のなかで、 トラブルがあるところに行くんです。 予定どおり進まなくなったプロジェクトとか、 頓挫しそうな企画とか。 基本的には、火を消すために飛び回ってる。 桜井 もちろん起こることは起こるんですけど、 自分のところは、わりと任せても平気と 思ってもらっていたんでしょうね。 だから、基本的に放任というか。 ゲームの内容について あれこれ言われたことはないですし、 トラブルがあったとしても、 順を追って潰していけば 自分たちで解決できるものでしたから。 桜井 岩田さんが自分の仕事にジョイントしたときの 記憶として残るのは、 『スマブラDX』(2001年発売)ですね。 桜井 はい。 よく知られている NINTENDO64の最初の『スマブラ』(1999年発売)の テスト版もいっしょにやりましたけど。 各キャラクターの動きや技は、 こういうふうな変数を持っていて、 こういうふうな原則で動かす、というような。 それをプログラムするのは、 もちろんプログラマーです。 で、その動きを司る数を、 最終的に私が調整できるように、 パラメーターにしておいてもらうんです。 つまり、数字が入る箱をつくっておいてもらって、 最後に自分が数字を箱に入れていく。 その最終的な調整をぜんぶ自分がやってたんです。 桜井 そうです。 だけど、その箱がちゃんとできてないと、 私が数字をいくら変えても そのとおりにならないんですね。 そうするといろんな工程が滞ってしまって、 どんどん時間が無駄になっていく。 そういうところに岩田さんが飛び込み、 ひとつひとつチェックされてました。 具体的にいうと、問題がある プログラマーの横にずーっと貼りついて、 プログラムを見て、間違いを見つけて、 そのまま指示して修正する。 自分が手を動かして直すというよりは、 その人のところに行って、 いっしょに解決するみたいな感じ。 狭いブースにふたりで入ってるのは、 ちょっとかわいそうでしたけど(笑)。 どういうタイミングで、 どういうふうに入ってこられたんですか? 桜井 トラブルが頻繁に起こったり、 このままでは終わらないかもしれない、 というふうに問題が深刻化したときに、 「どうして終わらないのか?」というのを 岩田さんが考えた結果として 入ってくださった感じだと思います。 桜井 はい、それに近いです。 自分が岩田さんに「入ってくれ」なんて、 絶対に言えないです。 岩田さんがものすごく 忙しいことはわかってますし、 なによりそれを解決するのが、 我々の仕事ですからね。 桜井 そうだと思います。 もちろん岩田さんは他人のプログラムを見て 間違いを直すのも速いですし、 現場に入って手伝ってもらうのが いちばん安定する方法だった というのはたしかですけど。 でも、自分は申し訳なく思ってました。 岩田さんはほかのことでとっても忙しいから。 桜井 基本的には、離れてます。 プロジェクトに関わっているときも クリエイティブな作業ではなくて マネジメントをしている感じでした。 (つづきます) 2020-01-27-MON•

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