オスマン 帝国 3 あらすじ。 オスマン帝国外伝、シーズン3の31話~38話のあらすじネタバレ!因縁の対決! | カイドーラ

オスマン帝国外伝 〜愛と欲望のハレム〜シーズン3 第88話〜第92話 ネタバレ感想

オスマン 帝国 3 あらすじ

この項目には、一部のコンピュータやで表示できない文字が含まれています ()。 英語圏ではオットマン帝国 Ottoman Empire と表記される。 15世紀にはを滅ぼしてその首都であった(後の)を征服、この都市を自らの首都とした。 17世紀の最大版図は中東からアフリカ・欧州に著しく拡大し、東西はからに至り、南北はから、に至る広大な領域に及んだ。 概要 [ ] (小アジア)の片隅に生まれた小から発展したであるオスマン朝は、やがてなどの諸国、などの・の諸国を征服して世界の過半を覆い尽くす世界帝国たるオスマン帝国へと発展した。 その出現は西欧キリスト教世界にとって「オスマンの衝撃」であり、15世紀から16世紀にかけてその影響は大きかった。 にも間接的ながら影響を及ぼし、のが持っていた西欧の統一と的世界帝国構築の夢を挫折させる主因となった。 そして、「トルコの脅威」に脅かされたは「トルコ税」を新設、中世封建体制からへ移行することになり、その促進剤としての役割を務めた。 がオスマン帝国を圧迫するようになると、神聖ローマがを支援して前線を南下させた。 19世紀中ごろに英仏が地中海規模で版図分割を実現した。 が設置された世紀末から、が最後まで残っていた領土アナトリアを開発した。 このような経緯から、オスマン帝国はとしてに参戦し敗れた。 敗戦後の講和条約のは列強によるオスマン帝国の解体といえる内容だったために同条約に反対する勢力が、に共和国政府を樹立し、にはオスマン家のスルタン制度の廃止を宣言、メフメト6世は亡命した。 には「アンカラ政府」が「トルコ共和国」の建国を宣言し、にはオスマン家のカリフ制度の廃止も宣言。 結果、アナトリアのに取って代わられた()。 国名 [ ] 英語でオスマン帝国を Ottoman Turks, Turkish Empire と呼んだことから、かつては「 オスマントルコ」、「 トルコ帝国」、「 オスマントルコ帝国」、「 オスマン朝トルコ帝国」とされることが多かったが、現在は オスマン帝国あるいは単に オスマン朝と表記するようになっており、オスマントルコという表記は使われなくなってきている。 これは、(、)の出自はで宮廷の言語もと呼ばれるやの語彙を多く取り込んだではあったが、支配階層には・の枠を越えて様々な出自の人々が登用されており、国内では多宗教・多民族が共存していたことから、単純にトルコ人のとは規定しがたいことを根拠としている。 事実、オスマン帝国の内部の人々は滅亡の時まで決して自国を「トルコ帝国」とは称さず「オスマン家の崇高なる国家」「オスマン国家」などと称しており、オスマン帝国はトルコ民族の国家であると認識する者は帝国の最末期までついに現れなかった。 つまり、帝国の実態からも正式な国号という観点からもオスマントルコという呼称は不適切であり、オスマン帝国をトルコと呼んだのは実は外部からの通称に過ぎない。 歴史 [ ] オスマン帝国は、後世の歴史伝承において始祖がアナトリア(小アジア)西北部に勢力を確立し新政権の王位についたとされるを建国年とするのが通例であり、が廃止されてが廃位されたが滅亡年とされる。 もっとも、オスマン朝の初期時代については同時代の史料に乏しく、史実と伝説が渾然としているので、正確な建国年を特定していくことは難しい。 建国期 [ ] 詳細は「」、「」、および「」を参照 末に、との国境地帯(ウジ)であったアナトリア西北部 ()にあらわれたトルコ人の遊牧部族長が率いた軍事的な集団がオスマン帝国の起源である。 この集団の性格については、オスマンを指導者とした(イスラム教徒)のガーズィー(に従事する戦士)が集団を形成したとされる説 が欧州では一般的であるが、の集団であったとする説も根強く 、未だに決着はされていない。 彼らオスマン集団は、オスマン1世の父の時代にアナトリア西北部のソユットを中心に活動していたが 、オスマンの時代に周辺のやムスリムの小領主・軍事集団と同盟したり戦ったりしながら次第に領土を拡大し、のちにオスマン帝国へと発展する ()を築き上げた。 頃、オスマンの後を継いだ子のは、即位と同じ頃に東ローマ帝国の地方都市プロウサ(現在の)を占領し、さらにを隔ててを臨むまでに領土を拡大 、アナトリア最西北部を支配下とした上で東ローマ帝国首都コンスタンティノープルを対岸に臨むをも手中に収めた。 ブルサは15世紀初頭までオスマン国家の行政の中心地となり、最初の首都としての機能を果たすことになる。 、東ローマの共治皇帝は後継者争いが激化したため、娘テオドラをオルハンに嫁がせた上で同盟を結び 、オスマンらをアナトリアより呼び寄せてを渡らせてのに進出させた。 これを切っ掛けにオスマンらはヨーロッパ側での領土拡大を開始( ())、に一帯が地震に見舞われ、城壁が崩れたのに乗じて占領し( ())、橋頭堡とした。 後にガリポリスはオスマン帝国海軍の本拠地となった。 オルハンの時代、オスマン帝国はそれまでの辺境の武装集団からへの組織化が行われた。 ヨーロッパ侵攻とイェニチェリの時代 [ ] 詳細は「」および「」を参照 オルハンの子は、即位するとすぐにコンスタンティノープルと流域とを結ぶ重要拠点アドリアノープル(現在の)を占領、ここを第2首都とするとともに、と呼ばれるキリスト教徒の子弟を強制徴発することによる人材登用制度のシステムを採用して常備歩兵軍を創設して国制を整えた。 さらに戦いの中で降伏したキリスト教系騎士らを再登用して軍に組み込むことも行った。 、でセルビア諸侯連合軍を撃破、東ローマ帝国やはオスマン帝国への臣従を余儀なくされ、、も陥落 、ライバルであったカラマン侯国も撃退した。 にでを中心とするバルカン諸国・諸侯の連合軍を撃破したが 、ムラト1世はセルビア人貴族 ()によって暗殺された。 しかし、その息子が戦場で即位したため事なきを得た上にコソヴォの戦いでの勝利は事実上、バルカン半島の命運を決することになった。 なお、バヤズィト1世は即位に際し兄弟を殺害している。 以降、オスマン帝国では帝位争いの勝者が兄弟を殺害する慣習が確立され 、これを兄弟殺しという。 バヤズィト1世は報復としてセルビア侯を始めとするセルビア人らの多くを処刑した。 にはを占領、第二次ブルガリア帝国も瓦解した。 しかし、オスマン帝国はそれだけにとどまらず、さらに秋にはを一時的に包囲した上でギリシャ遠征を行い、までがオスマン帝国の占領下となった。 これらオスマン帝国の拡大により、ブルガリア、セルビアは完全に臣従、バルカン半島におけるオスマン帝国支配の基礎が固まった。 さらにバヤズィト1世はペロポネソス半島、、まで侵略、のはオスマン帝国の宗主権を一時的に認めなければいけない状況にまで陥った上、コンスタンティノープルが数回にわたって攻撃されていた。 この状況はヨーロッパを震撼させることになり、を中心にフランス、ドイツの騎士団、バルカン半島の諸民族軍らがを結成、オスマン帝国を押し戻そうとした。 しかし、、北部におけるにおいて十字軍は撃破されたため、オスマン帝国はさらに領土を大きく広げた。 しかし、のでに敗れバヤズィト1世が捕虜となったため、オスマン帝国はまで、空位状態となり 、さらにはアナトリアを含むオスマン帝国領がティムールの手中に収まることになった。 失地回復の時代 [ ] 詳細は「」および「」を参照 バヤズィト亡き後のアナトリアは、オスマン朝成立以前のような、各君侯国が並立する状態となった。 このため、東ローマ帝国はを回復、さらにも一時的ながらも平穏な日々を送ることができた。 バヤズィトの子は、に帝国の再統合に成功して失地を回復し 、その子は再び襲来した十字軍を破り、バルカンに安定した支配を広げた。 こうして高まった国力を背景にには再びコンスタンティノープルの包囲を開始、にはテッサロニキ、を占領、には全土がオスマン支配下となった。 しかし、バルカン半島の諸民族はこれに対抗、ハンガリーの英雄はオスマン帝国軍を度々撃破し、アルバニアにおいてもアルバニアの英雄がに死去するまでオスマン帝国軍を押し戻し、アルバニアの独立を保持するなど活躍したが、後にフニャディはの、の ()において敗北、モレア、アルバニア、ボスニア、ヘルツェゴヴィナを除くバルカン半島がオスマン帝国占領下となった。 それ以前、東ローマ帝国皇帝は西ヨーロッパからの支援を受けるためにからにかけてに出席、東西教会の合同決議に署名したが、結局、西ヨーロッパから援軍が向かうことはなかった。 から、後に東ローマ帝国最後の皇帝となるがギリシャにおいて一時的に勢力を回復、ペロポネソス半島などを取り戻したが、オスマン帝国はこれに反撃、のヘキサミリオン要塞を攻略してペロポネソス半島を再び占領したが 、メフメト1世と次代の時代は失地回復に費やされることになった。 版図拡大の時代 [ ] 「」も参照 、ムラト2世の子は東ローマ帝国の首都を攻略し、ついに東ローマ帝国を滅ぼした()。 コンスタンティノープルは以後オスマン帝国の首都となった。 また、これ以後徐々にに由来するという呼称がコンスタンティノープルに代わって用いられるようになった。 そして、が陥落、ギリシャ全土がオスマン帝国領となり 、オスマン帝国によるバルカン半島支配が確立した。 コンスタンティノープルの陥落後、メフメト2世はに従うことを余儀なくされコンスタンティノープルには略奪の嵐が吹き荒れた。 略奪の後、市内へ入ったメフメト2世はコンスタンティノープルの人々を臣民として保護することを宣言、さらに都市の再建を開始 、モスク、病院、学校、水道、市場などを構築し、自らの宮廷をも建設してコンスタンティノープルの再建に努めた。 コンスタンティノープルの征服に反対した名門出身の ()を粛清し 、メフメト2世は、権力の絶対化と国家制度の中央集権化の整備を推進したことにより、トルコ系の有力な一族らは影を潜めその代わりにセルビア人の ()、ギリシャ人の ()のようにトルコ人以外の人々が重きを成すようになった。 コンスタンティノープルを征服した後も、メフメト2世の征服活動は継続された。 バルカン半島方面では、、、、の征服を達成した。 また、黒海沿岸に点在するの植民都市の占領 、にはペロポネソスのを、にはを征服 東ローマ帝国の残党は全て消滅することになり 、さらには、のを宗主権下に置くことに成功 、ワラキア、モルダヴィアも後にオスマン帝国へ臣従することになる。 そしてメフメト2世はガリポリを中心に海軍の増強に着手、イスタンブールと改名されたコンスタンティノープルにも造船所を築いたため、オスマン帝国の海軍力は著しく飛躍した。 そして、15世紀後半には、()、()、、、(それぞれ)といったジェノヴァの支配下にあった島々を占領 、このため、北岸やの島々まで勢力を広げて黒海とエーゲ海を「 オスマンの内海」とするに至った。 一方、アナトリア半島方面では、の英主が東部アナトリア、を基盤に勢力を拡大していたため、衝突は不可避となった。 、東部アナトリアの ()でウズン・ハサンを破ったオスマン朝は中部アナトリアを支配下に置くことに成功した。 メフメト2世の後を継いだ( - )は、父とは異なり積極的な拡大政策を打ち出すことはなかった。 その背景には宮廷内の帝位継承問題があった。 バヤズィト2世の弟であるは、、、へ逃亡し、常に、バヤズィトの反対勢力に祭り上げられる状態が続いていたからである。 オスマン帝国の最盛期 [ ] 詳細は「」を参照 バヤズィト2世の弱腰の姿勢を批判していた セリムが、として、に即位した。 セリムの積極外交は、東部アナトリアとシリア・エジプトに向けられた。 東部アナトリアでは白羊朝の後をが襲っていた。 、でサファヴィー朝の野望を打ち砕くと、には ()でのを滅してイスラム世界における支配領域を居住地域に拡大し、またマムルーク朝の持っていたの二大聖地(メッカ)と(メディナ)の保護権を掌握しての盟主の地位を獲得した。 このときセリム1世がマムルーク朝の庇護下にあったの末裔からの称号を譲られ、スルタン=カリフ制を創設したとする伝説はの創作で史実ではないが、イスラム世界帝国としてのオスマン帝国がマムルーク朝の併呑によってひとつの到達点に達したことは確かである。 詳細は「」を参照 スレイマン1世( - )の時代、オスマン帝国の国力はもっとも充実して軍事力で他国を圧倒するに至り、その領域は、にまで広がった。 ペルシア湾・インド洋方面 [ ] ()( - )では、にがに成功。 にでの制海権を巡るで、、の領主、オスマン帝国の連合艦隊を破った。 に率いられたイングランド人冒険団によってペルシア軍が近代化され、ので、イングランド・ペルシア連合軍がを占領し、ペルシャ湾からポルトガルとスペインの貿易商人を追放するまでこの状態が続いた。 インドネシア方面 [ ] 、スレイマンはののスルタンである ()の要請に応じて艦隊を派遣した。 このとき艦隊はまで行き、・ ()へ攻勢をかけた。 エジプト・シリア・アラビア半島方面 [ ] 東ではと激突、1514年にサファヴィー朝をアナトリアから駆逐すると 、さらにはのを奪い、南ではに出兵してを征服した。 ()( - )ではオスマンとエジプトは対ポルトガルの同盟国だったが、 ()( - )では、の・とのでによってエジプトが征服され、エジプト・・が属領となった。 、次代の時に ()が ()(—)の二代目総督となったが、その配下となるカーシフ(地方総督)の大部分は依然としてマムルーク朝で軍人を務めた人物が就任していた。 にはそのマムルーク朝系のカーシフが反乱を起こし、さらにには新たな州総督に就任していた ()が反乱を起こした。 この反乱でアフメト・パシャはローマ教皇にまで援助を求めたが結局、アフメト・パシャはオスマン帝国の鎮圧軍が到着する以前に内部対立で殺害された。 この反乱を受けたはを送り込んで支配体制の強化を図り、次の州総督に就任した ()はタフリール(徴税敢行、税目、人口などの調査)を実施して徴税面を強化した。 さらにスレイマン・パシャは商業施設などを建設してを設定、以後の総督らも積極的な建設活動や宗教的寄進を行い、マムルーク朝色の濃いままであった状況をオスマン帝国色に塗りなおした。 地中海・北アフリカ方面 [ ] 詳細は「 (、、)」を参照 、オスマン帝国の () (、)の公的支援を受けたのと兄弟が、 ()に成功。 にはの首都に侵攻し、ウルージは戦死したものの ()が成功、 ()( - )を設置。 海上では、のではムスリムに対する海賊行為を行っていたのと戦ってこれを駆逐し、東地中海のを握った。 1月に宣戦布告し、5月には (、)を落として ()に成功。 10月にでの戦いでスペイン船を駆逐( ())。 には ()に成功。 にとスペイン-イタリア連合軍による奪還作戦でチュニスを失陥()。 は脱出の途上で (、)を行なった。 、 ()を密かに締結。 のでに至る地中海の制海権の掌握に成功した。 10月、 ()。 10月、が親征して (、)を行い、キリスト教徒への海賊行為をやめさせた。 にバルバロッサが引退、には後任にを抜擢した。 にを占領し、を滅亡させた。 に ()に成功し、 ()( - )を設置。 詳細は「」を参照 は密かにのと同盟していたため、( ()、 ())に派兵して干渉戦争を実施した。 にの (、)が ()に成功。 の ()では、が包囲されている間に、もを包囲し返し、作戦は失敗に終わった。 5月に ()が沖ので行なわれたで大勝。 、でオスマン帝国が最初の敗北を喫し、大きな被害を出した。 にスレイマンが死去し、その死から5年後の、でオスマン艦隊はスペイン連合艦隊に大敗したものの、しばしば言われるようにここでオスマン帝国の勢力がヨーロッパ諸国に対して劣勢に転じたわけではなく、その国力は依然として強勢であり、また地中海の制海権が一朝にオスマン帝国の手から失われることはなかった。 そして1571年に占領されたキプロスは単独でキプロス州を形成することになった。 ()( - )を設置。 17世紀にが新たに占領されるとクレタ島も単独のクレタ州となった。 対ロシア戦 [ ] のは、の ()でを併合、にを従属国化した。 旧領のうち残っていたとロシアとの対立が深まると、にセリム二世及びはアストラハン遠征()を起こした。 この戦いで勝利したロシアによるアストラハン・ハン国支配が確定したものの、この戦いは長期にわたるの初戦に過ぎなかった。 この戦いでソコルル・メフメト・パシャは、ロシアだけでなくをも牽制する目的での建設を試みたが失敗に終わった(実際に完成するのはになってからである)。 ヨーロッパ方面(バルカン半島) [ ] 「」、「 (、、)」、および「」も参照 過去にオスマン帝国治下のバルカン半島はオスマン帝国の圧政に虐げられた暗黒時代という評価が主流であった。 しかし、これらの評価は19世紀にバルカン半島の各民族が独立を目指した際に政治的意味合いを込めて評価されたものであり、オスマン帝国支配が強まりつつあった16世紀はそれほど過酷なものではないという評価が定着しつつある。 これらのことからオスマン帝国によるバルカン半島統治は16世紀末を境に前後の二つの時代に分けることができる。 オスマン帝国が勢力拡大を始めた時、第二次ブルガリア帝国はセルビア人の圧力により崩壊寸前であり、さらにそのセルビアもステファン・ドゥシャンが死去したことにより瓦解し始めていた。 これらが表すようににより分裂崩壊していた東ローマ帝国亡き後、バルカン半島は互いに反目状態にあり、分裂状態であった上、オスマン帝国をバルカン半島へ初めて招いたのは内紛を続ける東ローマ帝国であった。 このため、において混乱を来したオスマン帝国への反撃もままならず、また、バルカン半島において大土地所有者の圧迫に悩まされていたバルカン半島の農民らはしばしばオスマン帝国の進出を歓迎してこれに呼応することもあった。 陸上においては、のの征服 、のにおけるに対しての戦勝、のと続き 、クロアチア、ダルマチア、スロベニアも略奪を受けることになった。 15世紀以降、ギリシャはオスマン帝国に併合されるにつれてルメリ州に編入されたが、1534年、地中海州が形成されたことにより、バルカン半島を中心とする地域がルメリ州、バルカン本土とエーゲ海の大部分が地中海州に属することになった。 オスマン家との対立構造が、ヨーロッパ外交に持ち込まれることとなった。 その結果が、ハプスブルク家と対立していたのに対してのカピチュレーション付与となった。 なお、スレイマンは同盟したフランスに対し、(恩恵的待遇)を与えたが、カピチュレーションはフランス人に対してオスマン帝国領内でのなどを認めた。 一方的な特権を認める不平等性はイスラム国際法の規定に基づいた合法的な恩典であり、カピチュレーションはまもなくをはじめ諸外国に認められることになった。 しかし絶頂期のオスマン帝国の実力のほどを示すステータスであったカピチュレーションは、帝国が衰退へ向かいだしたには、西欧諸国によるオスマン帝国へのの足がかりに過ぎなくなり、として重くのしかかることになった。 スレイマンは、9月にハンガリー遠征のの最中に陣没し、で終わった( ()設置)。 は、にの建設をに開始させ、に完成した。 軍事構造の転換 [ ] スレイマンの治世はこのように輝かしい軍事的成功に彩られ、オスマン帝国の人々にとっては、建国以来オスマン帝国が形成してきた国制が完成の域に達し、制度上の破綻がなかった理想の時代として記憶された。 しかし、スレイマンの治世はオスマン帝国の国制の転換期の始まりでもあった。 象徴的には、スレイマン以降、君主が陣頭に立って出征することはなくなり、政治すらもほとんど(首相)が担うようになる。 オスマン帝国下の住民はアスカリとレアヤーの二つに分けられていた。 アスカリはオスマン帝国の支配層であり、オスマン帝国の支配者層に属する者とその家族、従者で形成されており軍人、書記、法学者なども属していた。 これに対してレアヤーは被支配層であり、農民、都市民などあらゆる正業に携わる人々が属していた。 ただし、19世紀に入ると狭義的にオスマン帝国支配下のキリスト教系農民に対して用いられた例もある。 アスケリは免税、武装、騎乗の特権を有しており、レアヤーは納税の義務をおっていた。 ただし、アスケリ層に属する人々が全てムスリムだったわけではなく、また、レアヤーも非ムスリムだけが属していたわけではない。 そして、その中間的位置に属する人々も存在した。 オスマン帝国の全盛期を謳歌したスレイマン1世の時代ではあったが、同時期に、軍事構造の転換、すなわち、での武装及びの必要性が求められる時代に変容していった。 その結果、であるイェニチェリを核とするの重要性が増大した。 しかし、イェニチェリという形で、常備軍が整備されることは裏を返せば、在地のである層の没落とイェニチェリの政治勢力としての台頭を意味した。 それに応じて、スィパーヒーに軍役と引き換えにひとつの税源からの徴税権を付与していた従来の ()は消滅し、かわって徴税権を競売に付して購入者に請け負わせる( ())が財政の主流となる。 従来このような変化はスレイマン以降の帝国の衰退としてとらえられたが、しかしむしろ帝国の政治・社会・経済の構造が世界的な趨勢に応じて大きく転換されたのだとの議論が現在では一般的である。 で後述する高度な機構は、むしろスレイマン後の17世紀になって発展を始めたのである。 帝国支配の混乱 [ ] 「」および「」も参照 繁栄の裏ではスレイマン時代に始まった宮廷の弛緩から危機が進んでいた。 に ()が始まると、にスレイマン時代から帝国を支えた大宰相がの間者によってされてしまった。 以来、宮廷に篭りきりになった君主に代わって政治を支えるべき大宰相は頻繁に交代し、さらに前半には、君主の母后たちが権勢をふるって政争を繰り返したため、政治が混乱した。 しかも経済面では、末頃から産のの流入による物価の高騰() や、トランシルバニアをめぐるハプスブルク家との紛争は1593年から13年間続くこととなった。 また、イラク、アゼルバイジャン、ジョージアといった帝国の東部を形成する地方では、アッバース1世のもと、軍事を立て直したサファヴィー朝との対立が17世紀にはいると継続することとなった。 中央ヨーロッパ及び帝国東部の領域を維持するために、軍事費が増大し、その結果、オスマン帝国の財政は慢性赤字化した。 極端なは流通通貨の急速な不足を招き、銀の不足から従来の半分しか銀を含まない質の悪い銀通を改鋳するようになった。 帝国内に流通すると深刻な信用不安を招き、イェニ・チェリたちの不満が蓄積し、には、彼らの反乱が起こった。 経済の混乱は17世紀まで続くこととなった。 さらには、アナトリアでは、ジェラーリーと呼ばれる暴徒の反乱が頻発することとなり、オスマン帝国は東西に軍隊を裂いていたため、彼らを鎮圧する術を持たなかった。 を頂点に、 ()は収束を迎えるが、その後、首都イスタンブールでは、スルタン継承の抗争が頻発することとなった。 そのような情勢の下でに起こったとの ()で勝利したものの、の ()でヴェネツィア艦隊によるを招き、物流が滞って物価が高騰した首都は、暴動と反乱の危険にさらされた。 この危機に際して大宰相に抜擢された ()は全権を掌握して事態を収拾したが4年で急逝、その死後は息子が続いて大宰相となり、父の政策を継いで国勢の立て直しに尽力した。 2代続いたの政権は、当時オスマン帝国で成熟を迎えていた官僚機構を掌握、安定政権を築き上げることに成功する。 先述したオスマン帝国の構造転換はキョプリュリュ期に安定し、一応の完成をみた。 アフメト3世の時代(1720年頃)の祝祭の様子。 王子のを祝う様子を描く。 このように、17世紀末から18世紀にかけては軍事的衰退が表面化したが、これを期に西欧技術・文化の吸収を図り、後期のトルコ・イスラム文化が成熟していった時代でもあった。 中でもの大宰相 ()(在任-)の執政時代に対外的には融和政策が取られ、泰平を謳歌する雰囲気の中で西方の文物が取り入れられて文化の円熟期を迎えた。 この時代は西欧から逆輸入されたが装飾として流行したことから、 と呼ばれている。 この時代、1722年に東方のイラン・ペルシアではを契機にが崩壊した。 オスマントルコはペルシアの混乱に乗じて出兵する( ())。 しかし、ホラーサーンからが登場し、イラクとイラン高原における戦況がオスマン側に劣勢に動き始める( ())と、浪費政治への不満を募らせていた人々は ()とともに ()を起こして君主と大宰相を交代させるに至り、チューリップ時代は終焉した。 やがてが終結し、その講和条約であるのとが締結されて、ベオグラードを奪還。 にナーディル・シャーが没すると戦争は止み、オスマン帝国は平穏な18世紀中葉を迎える。 この間に地方では、徴税請負制を背景に地方の徴税権を掌握したと呼ばれる地方名士が台頭して、彼らの手に支えられた緩やかな経済発展が進んではいた。 しかし、が波及して、急速な近代化への道を歩み始めたヨーロッパ諸国との国力の差は決定的なものとなり、時にヨーロッパ諸国に与えたを利用して、ヨーロッパはオスマン領土への進出を始めたのであった。 近代化をめざす「瀕死の病人」 [ ] 詳細は「」を参照 末に入ると、の南下によってオスマン帝国の小康は破られた。 に始まったで敗北すると、のによって帝国は黒海の北岸を喪失し、からのにも再び敗れて、のでロシアのの領有を認めざるを得なかった。 改革の必要性を痛感したは翌、ヨーロッパの軍制を取り入れた新式陸軍「」を創設するが、計画はイェニチェリの反対により頓挫し、廃位された。 かつてオスマン帝国の軍事的成功を支えたイェニチェリは隊員の世襲化が進み、もはや既得権に固執するのみの旧式軍に過ぎなくなっていた。 この時代にはさらに、18世紀から成長を続けていたアーヤーンが地方政治の実権を握り、北部からを支配したのように半独立政権の主のように振舞うものも少なくない有様で、かつてオスマン帝国の発展を支えた強固な体制は無実化した。 さらにののをきっかけに、1806年にがエジプトの実権を掌握した。 一方、から波及した民族独立と解放の機運はバルカンのキリスト教徒諸民族のを呼び覚まし、( - )によってが独立を果たした。 は、( - )と( - )を起こし、エジプトの世襲支配権を中央政府に認めさせ、事実上独立した。 これに加えて、バルカン半島への勢力拡大を目指すロシアとオーストリア、勢力均衡を狙うイギリスとフランスの思惑が重なり合い、のオスマン帝国を巡る国際関係は紆余曲折を経ていった。 このオスマン帝国をめぐる国際問題をという。 バルカンの諸民族は次々とオスマン帝国から自治、独立を獲得し、初頭にはオスマン帝国の勢力範囲はバルカンのごく一部とアナトリア、アラブ地域だけになる。 オスマン帝国はこのような帝国内外からの挑戦に対して防戦にまわるしかなく、「ヨーロッパの瀕死の病人」と呼ばれる惨状を露呈した。 しかし、オスマン帝国はこれに対してただ手をこまねいていたわけではなかった。 に即位したはイェニチェリを廃止して軍の西欧化を推進し、外務・内務・財務3省を新設して中央政府を近代化させ、翻訳局を設置し留学生を西欧に派遣して人材を育成し、さらにアーヤーンを討伐して中央政府の支配の再確立を目指した。 さらに、は、改革派官僚の起草したを発布して全面的な改革政治を開始することを宣言、行政から軍事、文化に至るまで西欧的体制への転向を図る を始めた。 タンジマートのもとでオスマン帝国は中央集権的な官僚機構と近代的な軍隊を確立し、西欧型国家への転換を進めていった。 にはロシアとの間でが起こるが、イギリスなどの加担によってきわどく勝利を収めた。 このとき、イギリスなどに改革目標を示して支持を獲得する必要に迫られたオスマン帝国は、にを発布して非ムスリムの権利を認める改革をさらにすすめることを約束した。 こうして第二段階に入ったタンジマートは宗教法()と西洋近代法の折衷を目指した新法典の制定、近代を行う学校の開設、国有地原則を改めて近代的土地私有制度を認める土地法の施行など、踏み込んだ改革が進められた。 そして、の支配するが設立された。 改革と戦争の遂行は西欧列強からの多額のを必要とし、さらに貿易拡大から経済が西欧諸国への原材料輸出へ特化したためにの化が進んで、帝国は経済面から半植民地化していった。 この結果、ヨーロッパ経済と農産品収穫量の影響を強く受けるようになった帝国財政は、、西欧金融恐慌と農産物の不作が原因で破産した。 こうしてタンジマートは抜本的な改革を行えず挫折に終わったことが露呈され、新たな改革を要求された帝国は、、大宰相のもとで(通称 ミドハト憲法)を公布した。 憲法はオスマン帝国が西欧型のであることを宣言し、帝国議会の設置、ムスリムと非ムスリムのオスマン臣民としての完全な平等を定めた。 だが憲法発布から間もないに、オスマン帝国はロシアとのに完敗し、帝都イスタンブール西郊のサン・ステファノまでロシアの進軍を許した。 専制体制復活を望むは、ロシアとはを結んで講和する一方で、非常事態を口実として憲法の施行を停止した。 これ以降、アブデュルハミト2世による反動専制の時代がはじまる。 一方でしかしなどを通じ帝国経済を掌握した諸外国による資本投下が進み、都市には西洋文化が浸透した。 また西欧の工業製品と競合しない繊維工業などの分野でが育ち、専制に抵触しない範囲での新聞・雑誌の刊行が拡大されたことは、のちの憲政復活後の、の拡大を準備した。 世界大戦から滅亡への道 [ ] 1922年11月、を後にする、最後の皇帝メフメト6世。 この写真が撮られてから数日後、彼は英国の戦艦でに亡命。 1926年に同地で没した。 、サロニカ(現在の)の統一派を中心とする駐留軍の一部が蜂起して無血革命に成功、憲政を復活させた()。 彼らはには保守派の反革命運動を鎮圧、には自らクーデターを起こし、統一派の中核指導者、らを指導者とする統一派政権を確立した。 統一派は次第にトルコ民族主義に傾斜していき、政権を獲得するとトルコ民族資本を保護する政策を取り、カピチュレーションの一方的な廃止を宣言した。 この間にも、サロニカを含むと、にはによりが帝国から失われた。 バルカンを喪失した統一派政権は拡大の脅威に対抗するためと同盟に関する密約を締結し、にで側で参戦した。 この戦争でオスマン帝国は、などいくつかの重要な防衛線では勝利を収めるものの劣勢は覆すことができなかった。 戦時中の利敵行為を予防する際に、が発生し、その後、トルコ政府も事件の存在自体は認めているが犠牲者数などをめぐって紛糾し、未解決の外交問題となっている。 により帝国はに降伏し、国土の大半はイギリス、フランスなどの連合国によって占領され、イスタンブール、ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡は国際監視下へ、アナトリア半島もエーゲ海に隣接する地域はギリシャ統治下となった。 そしてアナトリア東部においてもアルメニア人、クルド人らの独立国家構想が生まれたことにより、オスマン帝国領は事実上、アナトリアの中央部分のみとなった。 敗戦により統一派政府は瓦解、首謀者は亡命し、この機に皇帝は、専制政治の復活を狙って、連合国による帝国各地の占拠を許容した。 さらに、連合国の支援を受けたがに上陸、エーゲ海沿岸地域を占拠した。 この帝国分割の危機に対し、アナトリアでは、一時期統一派に属しながら統一派と距離を置いていた大戦中の英雄パシャを指導者として、トルコ人が多数を占める地域(アナトリアとバルカンの一部)の保全を求める運動が起こり、1920年4月、にを組織して抵抗政府を結成したが 、オスマン帝国政府はこれを反逆と断じた。 一方連合国は、、講和条約としてをメフメト6世は締結した。 この条約はオスマン帝国領の大半を連合国に分割する内容であり、ギリシャにはイズミルを与えるものであった。 結果として、トルコ人の更なる反発を招いた。 ケマルを総司令官とするトルコ軍はアンカラに迫ったギリシャ軍に勝利し、翌年にはイズミルを奪還して、ギリシャとの間に休戦協定を結んだ。 これを見た連合国はセーヴル条約に代わる新しい講和条約()の交渉を通告。 講和会議に、メフメト6世のオスマン帝国政府とともに、ケマルのアンカラ政府を招請した。 、ケマルは、オスマン国家の二重政府の解消を名目として、これを機に(スルタン)との分離と、 帝政の廃止を大国民議会に決議させた。 廃帝メフメト6世はへ亡命し、オスマン帝国政府は名実共に滅亡した()。 翌、大国民議会はを宣言し、多民族帝国オスマン国家は新たにトルコ民族の国民国家に取って代わられた。 トルコ共和国は、帝政の廃止後もオスマン家に残されていたカリフの地位を廃止、オスマン家の成員をトルコ国外に追放し、オスマン帝権は完全に滅亡した。 制度 [ ] 四重冠を着用するスレイマン1世の像。 この四重冠はスレイマンがイタリアのにつくらせたもので、のを意識したものだと言われている。 オスマン帝国の国家の仕組みについては、近代歴史学の中でさまざまな評価が行われている。 ヨーロッパの歴史家たちがこの国家を典型な東方的専制帝国であるとみなす一方、オスマン帝国の歴史家たちはイスラムの伝統に基づく世界国家であるとみなしてきた。 また19世紀末以降には、民族主義の高まりからトルコ民族主義的な立場が強調され、オスマン帝国の起源はトルコ系の遊牧民国家にあるという議論が盛んに行われた。 20世紀前半には、ヨーロッパにおける東ローマ帝国に対する関心の高まりから、オスマン帝国の国制と東ローマ帝国の国制の比較が行われた。 ここにおいて東ローマ帝国滅亡から間もない時代にはがルーム()の()と自称するケースがあったことなどの史実が掘り起こされたり、帝国がの任命権を通じて東方正教徒を支配したことが東ローマのの延長とみなされる議論がなされ、オスマン帝国はの継続であるとする、ネオ・ビザンチン説もあらわれた。 (カエサルを自称した皇帝はスレイマンなどほんの一握りだった) 近代化された後のオスマン帝国陸軍 軍制は、当初はムスリム・トルコ系の戦士、帰順したムスリム・トルコ系の戦士、元東ローマ帝国の軍人らを合わせた自由身分の騎兵を中心に構成され 、さらにアッバース朝で発展していたマムルーク制度のオスマン帝国版の常備軍などが編成され、常備歩兵軍としてイェニチェリが組織化されたが、これらの組み合わせにより騎兵歩兵らによる複合部隊による戦術が可能となったため、オスマン軍の軍事力が著しく向上することになり、彼らは(「門の奴隷」の意)と呼ばれる常備軍団を形成した。 カプクルの人材は主にキリスト教徒の子弟を徴集する制度によって供給された。 カプクル軍団の最精鋭である常備歩兵軍は、火器を扱うことから ()の進んだ16世紀に重要性が増し、地方・中央の騎兵を駆逐して巨大なに発展する。 ちなみにこの時代、欧州はまだ常備軍をほとんど持っていなかった。 内のオスマン艦隊 オスマン帝国の主要海軍基地はガリポリスであったが、ここに投錨する艦隊の指揮官はガリポリスのサンジャクベイが平時には務めており、戦時に入ると海洋のベイレルベイであるカプタン・パシャが総指揮を執ることになっていた。 オスマン帝国は当初から海軍の重要性を考慮していたらしく、オスマン帝国初期に小アジアで活躍した「海のガーズィ」から帝国領土が拡大していく中、エーゲ海、地中海、黒海などに面する地域を併合した際にその地域の保有する艦艇を吸収して拡大していった。 オスマン帝国が初めて造船所を建設した場所は ()であるが、のちにガリポリスを占領するとさらに規模の大きな造船所が作られたことにより、オスマン帝国はダーダルネス海峡の制海権を確保することができた。 そのため、1399年にバヤズィト1世がコンスタンティノープルを包囲した際、東ローマ帝国救援に向かったフランス海軍を撃破している。 ただし、1453年、コンスタンティノープルの占領に成功すると、コンスタンティノープルにさらに規模の大きな造船所が築かれたため、ガリポリスの造船所はその価値を下げることになった。 15世紀に入るとジェノヴァ、ヴェネツィアとの関係が悪化、これと交戦したが、16世紀になるとオスマン艦隊は、、、、、、、などへ進出、事実上、イスラーム世界の防衛者となり、キリスト教世界と戦った。 オスマン帝国の統治システム [ ] 「」も参照 帝国の領土は直轄州、独立採算州、からなる。 属国(、、、、、(公または主教の支配)、など)はの任免権を帝国中央が掌握しているのみで、原則として自治に委ねられていた。 独立採算州(など)は州知事(総督)など要職が中央から派遣される他は、現地の有力者に政治が任せられ、州行政の余剰金を中央政府に上納するだけであった。 ヨーロッパ方面の領土において、ビザンツ帝国やブルガリア帝国時代の大貴族は没落したが、小貴族は存続を許されてオスマン帝国の制度へ組み込まれていった。 オスマン帝国が発展する過程として戦士集団から君侯国、帝国という道を歩んだが、戦士集団であった当初は遊牧民的移動集団であった。 特に初期の首都であるソユット、 ()、 近郊 などは冬営地的性格が強く、首都と地方との明確な行政区分も存在しなかった。 そして戦闘が始まれば(君主)、もしくは(ベイたちのベイの意味で総司令官を指す)が指揮を取ったが、ベイレルベイはムラト1世の時代に臣下のが任ぜられるまでは王子(君主の息子)が務めていた。 ムラト1世の時代まで行政区分は不明確であったが、従来の通説では14世紀末、米林仁の説によれば15世紀初頭にアナトリア(アナドル)方面においてベイレルベイが任命されることによりベイレルベイが複数任命されることになった。 その後、アナトリアを管轄する ()配下のアナドルの(大軍管区の意味)とルメリを管轄する ()配下のルメリのベイレルベイリクによって分割統治されるようになった。 この時点ではベイレルベイは「大軍管区長官」の性格をもち、ベイレルベイリクは「大軍管区」の性格をもっており、当初のベイレルベイは軍司令官の性格が強かった。 しかし、次第に帝国化していくことにより、君主専制的、中央集権的体制への進化、さらに帝国の拡大によりベイレルベイ、ベイレルベイリクはそれぞれ地方行政官的性格をも併せ持つことにより、「大軍管区」も「州」の性格を、「大軍管区長官」も「総督」としての性格をそれぞれ併せ持つようになった。 ベイレルベイ(大軍管区長官)とベイレルベイリク(大軍管区)の下には ()(小軍管区)、サンジャク・ベイ(小軍管区長)が置かれた。 これは後に県、及び県長としての性格を持つようになるが、後にこれらベイレルベイリク(州)、サンジャク(県)はオスマン帝国の直轄地を形成することになった。 なお、ベイレルベイリクは後にエヤレト(エヤレットという表記もある)、ヴィラエットと呼称が変化する。 さらにオスマン帝国領にはイスラーム法官()らが管轄する裁判区としてガザ(イスラーム法官区)が設置されていた。 県はいくつかのガザ(郡という表記もされる)で形成されていたが、イスラーム法官は県知事、州知事らの指揮命令に属しておらず、全体として相互補完、相互監視を行うシステムとなっていた。 そしてその下にナーヒエ(郷)、さらにその下にキョイ(村)があった。 当初、地方行政区画としてはアナドル州とルメリ州のみであったが、ブダを中心とするブディン州、トゥムシュヴァルを中心にするトゥムシュヴァル州、を中心とするボスナ州が16世紀末までに設置され、それぞれその下にベイレルベイが設置された。 さらに16世紀に入ると統治地域が増加したことにより、専管水域も拡大した。 そのため、海洋にもベイレルベイが設置され、カプタン・パシャ(大提督)が補任した。 中央では、皇帝を頂点とし、大宰相( ())以下の宰相( ())がこれを補佐し、彼らと軍人法官()、財務長官( ())、国璽尚書()から構成される御前会議()が最高政策決定機関として機能した。 に皇帝が政治の表舞台から退くと、大宰相が皇帝の代理人として全権を掌握するようになり、宮廷内の御前会議から大宰相の公邸である大宰相府()に政治の中枢は移る。 同じ頃、宮廷内の御前会議事務局から発展した官僚機構が大宰相府の所管になり、名誉職化した国璽尚書に代わって実務のトップとなった書記官長()、大宰相府の幹部である大宰相用人()などを頂点とする高度な官僚機構が発展した。 大宰相府(バーブ・アーリー)の門 中央政府の官僚機構は、軍人官僚(カプクル)と、法官官僚()と、書記官僚()の3つの柱から成り立つ。 軍人官僚のうちは宮廷でスルタンに近侍する小姓や太刀持ちなどの役職を経て、イェニチェリの軍団長や県知事・州知事に採用され、キャリアの頂点に中央政府の宰相、大宰相があった。 法官官僚は、(宗教学校)でイスラム法を修めた者が担い手であり、郡行政を司り裁判を行うカーディーの他、メドレセ教授やの公職を与えられた。 カーディーの頂点が軍人法官()であり、ムフティーの頂点がイスラムに関する事柄に関する帝国の最高権威たる「イスラムの長老」()である。 書記官僚は、書記局内の徒弟教育によって供給され、始めは数も少なく地位も低かったが、大宰相府のもとで官僚機構の発展した17世紀から18世紀に急速に拡大し、行政の要職に就任し宰相に至る者もあらわれるようになる。 この他に、を宮廷使役以外にも重用し、宦官出身の州知事や宰相も少なくない点もオスマン帝国の人的多様性を示す特徴と言える。 これらの制度は、19世紀以降の改革によって次第にを真似た機構に改められていった。 例えば、書記官長は外務大臣、大宰相用人は内務大臣に改組され、大宰相は御前会議を改めたの長とされて事実上のを率いるとなった。 しかし、例えば西欧法が導入され、世俗法廷が開設されても一方ではシャリーア法廷がそのまま存続したように、としての伝統的・根幹的な制度は帝国の最末期まで廃止されることはなかった。 帝国の起源がいずれにあったとしても、末期のオスマン帝国においては国家の根幹は常にイスラムに置かれていた。 これらのイスラム国家的な制度に改革の手が入れられるのは、ようやく20世紀前半の統一派政権時代であり、その推進は帝国滅亡後のトルコ共和国による急速な世俗化改革をまたねばならなかった。 オスマン帝国の人々 [ ] 宗教面 [ ] オスマン帝国が最大版図となった時、その支配下は自然的地理環境や生態的環境においても多様なものを含んでおり、さらに歴史的過去と文化的伝統も多様なものが存在した。 オスマン帝国南部であるアラブ圏ではが大部分であり、また、その宗教はオスマン帝国の支配イデオロギーであるが中心を成していたが、イラク南部ではが多数存在しており、また、現在のレバノンに当たる地域にはが多数、存在していた。 しかし、これだけにとどまらず、エジプトの、レバノン周辺の、シリア北部からイラク北部にはが少数、、、、、などもこのアラブ圏で生活を営んでいた。 そしてアナトリアでは11世紀以降のイスラム化の結果、ムスリムが過半数を占めていたが、ビザンツ以来のギリシャ正教徒、アルメニア教会派も多数、存在しており、その他、キリスト教諸宗派も見られ、ユダヤ教徒らも少数存在した。 しかし、15世紀にでユダヤ教徒排斥傾向が強まると、ユダヤ教徒らが多くアナトリアに移民した。 バルカン半島ではアナトリアからの流入、改宗によりムスリムとなる人々もいたが、キリスト教徒が大多数を占めており、正教徒が圧倒的多数であったが沿岸ではカトリック教徒らが多数を占めていた。 また、ムスリムとしてはトルコ系ムスリムとを使用するボスニアのムスリム、そしてアルバニアのムスリムなどがムスリムとしての中心を成していた。 一方で1526年に占領されたハンガリー方面ではカトリックとプロテスタントの間で紛争が始まった時期であった。 オスマン帝国は、カトリックどちらをも容認、対照的にハプスブルク帝国占領下であったの本拠地、ボヘミアではプロテスタントが一掃されていた。 こうして西欧ではキリスト教一色となって少数のユダヤ人らが許容されていたに過ぎない状態であったのと対照的にオスマン帝国下ではイスラム教という大きな枠があるとはいえども多種の宗教が許容されていた。 民族 [ ] オスマン帝国が抱え込んだものは宗教だけではなかった。 その勢力範囲には同じ宗教を信仰してはいたものの各種民族が生活しており、また、言語も多種にわたった。 オスマン帝国元来の支配層はトルコ人であり、イスラム教徒であった。 ただし、このトルコ人という概念も「トルコ語」を母語しているということだけではなく、従来の母語からトルコ語へ母語を変更したものも含まれていた。 これはオスマン帝国における民族概念が生物学的なものではなく、文化的なものであったことを示している。 オスマン帝国の南部を占めるイラクからアルジェリアにかけてはを母語として自らを認識する人々が多数を占めていた。 しかし、西方のマグリブ地域に向かうとを母語とする、そして北イラクから北シリアへ向かうとを母語としてネストリウス派を奉じるが少数であるが加わった。 微妙な立場としてはでありながらを宗教用にしか用いず、日常にはアラビア語を用いていたコプト教徒らが存在する。 また、アナトリア東部から北イラク、北シリアにはスンナ派のらが存在しており、を母語としていた。 元東ローマ帝国領であったアナトリア、及びバルカン半島ではギリシャ語を母語として正教を奉じるギリシャ人らが多数を占めていた。 ただし、アナトリア東部と都市部にはアルメニア語を母語としてアルメニア教会派であるアルメニア人らも生活を営んでいた。 バルカン半島では民族、言語の分布はかなり複雑となっていた。 各地にはオスマン帝国征服後に各地に散らばったトルコ人らが存在したが、それ以前、ルーマニア方面にはトルコ語を母語とするが正教徒であるペチェネク人らも存在した。 バルカン半島東部になるとブルガリア語を母語として正教を奉じるブルガリア人、西北部にはセルボ・クロアチア語を母語として正教徒である南スラブ系の人々、これらの人々は正教を奉じた人々らはセルビア人、カトリックを奉じた人々らはクロアチア人という意識をそれぞれ持っていた。 しかし、ボスニア北部では母語としてセルボ・クロアチア語を使用しながらもムスリムとなった人々が存在しており、これらはセルビア人、クロアチア人からは「トゥルチン(トルコ人」と呼ばれた。 アルバニアではアルバニア語を母語とするアルバニア人らが存在したが、15世紀にその多くがイスラム教へ改宗した。 ただし、全てではなく、中には正教、カトリックをそのまま奉じた人々も存在する。 そしてオスマン帝国がハンガリー方面を占領するとハンガリー語を母語としてカトリックを中心に、プロテスタントを含んだハンガリー人々もこれに加わることになる。 その他、ユダヤ教を信じる人々が存在したが、母語はバラバラであり、ヘブライ語はすでに典礼用、学問用の言語と化していた。 オスマン帝国南部ではアラビア語、北部では東ローマ帝国時代に移住した人々はギリシャ語、15世紀末にイベリア半島から移住した人々は、ハンガリー征服以後はをそれぞれ母語とするユダヤ教徒らがオスマン帝国に加わることになる。 ただし、彼らは母語こそちがえどもユダヤ教という枠の中でアイデンティティを保持しており、ムスリム側も宗教集団としてのユダヤ教徒(ヤフディー)として捉えていた。 ミッレト制とイスラム教以外への宗教政策 [ ] 詳細は「」を参照 オスマン帝国は勢力を拡大すると共にイスラム教徒以外の人々をも支配することになった。 その為の制度がミッレト制であり、ペルシアなどで用いられていたものを採用した。 この対象になったのは、、らであった。 また、成立時より東ローマ帝国と接してきたオスマン帝国は教会をモスクに転用した例こそあれども、東ローマ帝国臣民を強制的にムスリム化させたという証拠は見られず、むしろ、15世紀初頭以来残されている資料から東ローマ帝国臣民をそのまま支配下に組み込んだことが知られている。 このミッレトに所属した人々はの貢納義務はあったが、各自ミッレトの長、ミッレト・バシュを中心に固有の宗教、法、生活習慣を保つことが許され、自治権が与えられた。 これらミッレト制は上の制に基づいていたと考えられており、過去には唯一神を奉じて啓示の書をもつキリスト教徒やユダヤ教徒などいわゆる「」らはズィンマ(保護)を与えられたズィンミー(被保護民)としてシャーリアを破らない限りはその信仰、生活を保つことが許されていた。 オスマン帝国はこれを受け継いでおり、元々東ローマ帝国と接してきた面から「正教を奉じ、ギリシャ語を母語とするローマ人にして正教徒」というアイデンティティの元、ムスリム優位という不平等を元にした共存であった。 このミッレト制は過去に語られた「オスマン帝国による圧政」を意味するのではなく、「オスマンの平和」いわゆる「」 という面があったということを意味しており 、20世紀以降激化している中東の紛争、90年代の西バルカンにおけるような民族紛争・宗教紛争もなく、オスマン帝国支配下の時代、平穏な時代であった。 ユダヤ教徒 [ ] ユダヤ人のミッレトは東ローマ帝国時代からすでに存在したが、1453年にコンスタンティノープルがオスマン帝国領となると、そのミッレトは東ローマ帝国時代と同じ待遇で扱われることを認められ、公認のラビが監督することになった。 オスマン帝国はユダヤ人ということで差別することがなかったため、、、、、などからの移民も別け隔てなく受け入れた。 ただし、これら新規に流入したユダヤ人たちは纏まりを欠いたため、オスマン帝国がハカム・バシュを任命してこれら小集団と化したユダヤ人らを統括した。 なお、バヤズィト2世の時代にはユダヤ人らを厚遇するように命じた勅令を発布している。 アルメニア人 [ ] 「」も参照 ギリシャ正教徒のミッレトにはギリシャ人、ブルガリア人、セルビア人、ワラキア人らが所属した。 彼らはバルカン半島の主要な民族であったために、メフメット2世がギリシャ正教総主教にを任命してミッレト統括者にしたように重要視された。 なお、ルメリ地方にミッレト制が導入されたのはメフメット2世以降であり、コンスタンティノープルが陥落するまでは導入されなかった。 なお、このミッレトには上記民族以外にもアラビア語を母語とするキリスト教徒、トルコ語を母語とするキリスト教徒(カラマンル)らも含まれることになり、キリスト教徒(正教徒)としての意識を持ってはいたが、それ以上に母語を元にした民族意識も二次的ながら存在していた。 しかし、オスマン帝国の首都がイスタンブールであったため、イスタンブールにあったを頂点とする正教会上層部がこの主導権を握ることになったため、ギリシャ系正教徒が中心をなし、ギリシャ系正教徒が著しく重きをなした。 これに対して過去にが帝国を築いたという輝かしい過去をもつセルビア系正教徒らは反感を持っており、、ボスニア出身の元正教徒で大宰相となったの尽力によりを回復したが、これはイスタンブールの総主教座の強い抗議によりに廃止された。 この例を見るようにオスマン帝国支配下の正教徒社会の中ではギリシャ系の人々が強い影響力をもっていた。 イスタンブールの総主教を中心とする正教会はオスマン帝国内だけではなく、オスマン帝国外にも信仰上の影響力があった。 コンスタンティノープル陥落以降、教育機関が消滅したが、イスタンブールの総主教座の元では聖職者養成学校が維持され、さらにの修道院も維持され、その宗教寄進もスルタンに承認されていた。 これらのことから教会の上位聖職者はギリシャ系が占めることになったが、これは非ギリシャ系正教徒らに対して「ギリシャ化」を促進しようとする傾向として現れた。 18世紀になるとアルバニア系正教徒らがを用いて教育することをオスマン政府に要請したが、これはギリシャ系正教会の手によって握りつぶされ 、ファナリオテスがエフラク、ボーダンの君侯になったことにより、ルーマニア系正教徒に対してギリシャ系の優位とそのギリシャ化を推進しようとした。 さらに法律の世界でも正教会が重要な位置を占めており、東ローマ時代には皇帝の権力の元、司法と民政を担っていたが、オスマン帝国支配となると裁判などにおいて当事者が正教徒同士である場合、正教会に委ねられることになった。 そのため、ムスリムらの固有法がシャーリアであったのに対して、正教徒らはが固有の法であった。 文化 [ ] オスマン朝では、やのような形而上の学問の分野では、当時の・のものを上回るものは表れなかったと言われるが、それ以外の分野では数多くの優れた作品や文化を残した。 イズニク陶器の水差し(16世紀頃) 建築 [ ] を発展させ、と呼ばれる独特の様式を生み出した。 などに現存する優れた作品が多く、に立てられた(ブルーモスク)がもっとも有名である。 建築家はイスタンブールのやエディルネのを建てた前半のが代表的であるが、の建築家も数多く活躍した。 宮殿では、伝統的建築のや、様式とオスマン様式を折衷させたが名高い。 陶芸 [ ] 16 - 17世紀ので、鮮やかな彩色陶器が生産された。 この時代につくられたモスクや宮殿の壁を飾った色鮮やかな青色のイズニク・タイルは、現在の技術では再現できないという。 18世紀以降は陶器生産の中心はに移り、現在も美しい青色・緑色のタイルや皿が生産されている。 文学 [ ] に・の語彙・語法をふんだんに取り入れて表現技法を発達させたが生まれ、ディーワーン詩や散文の分野での影響を受けた数多くの作品があらわされた。 チューリップ時代の詩人ネディームはペルシア文学の模倣を脱したと評価されているが、その後は次第に形式化してゆく(の記事も参照)。 楽人(レヴニー画) 美術 [ ] から受け継いだが発展し、絵画は、中国絵画の技法を取り入れた(細密画)が伝わり、写本に多くの美しい挿絵が描かれた。 ヨーロッパ絵画の影響を受けてや陰影の技法が取り入れられ、特にの画家レヴニーは写本の挿絵に留まらない、少年や少女の一枚絵を書いた。 また、エーゲ海地方のでは絨毯の織物が有名である。 音楽 [ ] の影響を受けた系統のやを用いた繊細な宮廷音楽()と、・やの類によって構成された勇壮な軍楽()とがオスマン帝国の遺産として受け継がれている(の記事も参照)。 園芸 [ ] 、、、などが庭園で栽培され園芸植物化され、多くの品種を世に出した。 料理 [ ] は、宮廷料理に向けて帝国全土から様々な料理や食材を持ち込んだ事で知られる。 の周辺で欧州、中東、アフリカの一部の料理にも影響を及ぼした。 オスマン帝国史を題材にしたフィクション [ ] 文芸作品 [ ] トルコ人の作家 『わたしの名は紅』藤原書店 ・・・2006年を受賞した。 () 『トルコ狂乱』三一書房 ・・・(ケマル・パシャ)の伝記。 映画化「」 () 『改宗者クルチ・アリ』藤原書店 ・・・の伝記 ユーゴスラビアの作家 『』・『ボスニア物語』・『サラエボの女』 ・・・をテーマにした小説。 1961年ノーベル文学賞を受賞した。 オーストリアの作家 『 ()』 ・・・をテーマにした小説。 イギリス人の作家 『イスタンブールの群狼』ハヤカワ・ミステリ文庫 ・・・をテーマにした小説 ジェイソン・グッドウィン 『イスタンブールの毒蛇』ハヤカワ・ミステリ文庫 ・・・をテーマにした小説 日本人の作家 『コンスタンティノープルの陥落』・『ロードス島攻防記』・『レパントの海戦』、各・新潮文庫(改版) 『イスタンブール 世界の都市の物語』 文藝春秋(1992年)、文春文庫(1998年)。 「陳舜臣中国ライブラリー 26」で再刊(集英社, 2001年) 『シナン』中公文庫〈上・下〉 ・・・建築家の伝記 テレビドラマ [ ]• 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 15世紀後半の古伝承によれば、トルコ系のが起源とされており、この説は1930年代に異論が出るまで主流であった。 このオスマン率いる軍勢の中にはキリスト教系騎士も参加しており、アナトリア北西ののギリシャ人領主であったは生涯、オスマンと同盟を結んだ。 また、逆にトルコ系はオスマンとの同盟を破って東ローマ帝国と同盟を結ぶなど、宗教、民族の枠を超えて活動していた。 この同盟はヨハネス6世カンタクゼノスが失脚することにより解消される。 先代が死去するとスルタン位継承した王子が他の王子を殺害するという慣習。 のちにこれは廃れて幽閉制へと移り代わり、年長者もしくは前スルタンの弟がスルタンを継承するようになった。 セルビア北部はセルビア侯の領有地とされ、ラザルの息子 ()がデスポテース(公)に任命された。 エペイロスは当初従属国とされ、イタリア人専制公 ()が統治した。 なお、エペイロスがオスマン帝国領となるのは1449年のこと。 この中でも地方に居住して徴税権を委ねられるシステムによって軍事奉仕義務を負った騎兵をと呼ぶ。 一部の重要な都市を含むサンジャクのベイにはチェレビイ・スルターンと呼ばれる王子達が任命された。 歴史家アーノルド・トインビーによる。 一方の当事者がムスリム、非正教徒の非ムスリムの場合や、両方が正教徒であったとしても片方が望んだ場合はイスラーム法廷で裁かれた。 出典 [ ]• "In 1363 the Ottoman capital moved from Bursa to Edirne, although Bursa retained its spiritual and economic importance. Official website of Ministry of Culture and Tourism of the Republic of Turkey. Retrieved 26 June 2013. Names other than Istanbul gradually became obsolete in Turkish, and after Turkey's transition to Latin script in 1928, the city's Turkish name attained international usage. 206• 281• トルコと呼ぶべきでない理由について。 、pp. 24-27• Ricklefs. A History of Modern Indonesia Since c. 1300, 2nd ed. Stanford: Stanford University Press, 1994. , 33• 軍の西欧化と翻訳局について。 参考文献 [ ]• 『オスマン帝国はなぜ崩壊したのか』、2009年、pp. 229-280。 『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』講談社現代新書、1992年。 鈴木董『オスマン帝国の解体 文化世界と国民国家』〈〉、2000年。 - で再刊、2018年• テレーズ・ビダール、富樫瓔子訳『オスマン帝国の栄光』鈴木董監修、創元社、1996年。 『オスマン帝国の時代』山川出版社〈 世界史リブレット19〉、1997年。 『トルコ民族主義』、1996年。 ジョルジュ・カステラン、山口俊章訳『バルカン 歴史と現在』サイマル出版会、1994年。 那谷敏郎『三日月の世紀 「」のトルコ、イラン、インド』、1990年。 編『ギリシア史』山川出版社、2005年。 佐藤次高編『 世界各国史8西アジア史Iアラブ』山川出版社、2002年。 担当執筆者• 「第5章 オスマン帝国治下のアラブ地域」 ・私市正年• 永田雄三編『 世界各国史9西アジア史IIイラン・トルコ』山川出版社、2002年。 担当執筆者• 「第3章 トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」 井谷鋼造• 「第5章 オスマン帝国の時代」 林佳世子• 「第6章 オスマン帝国の改革」 永田雄三• 編『 世界各国史13 東欧史』、1977年。 三橋冨治男『オスマン=トルコ史論』〈ユーラシア文化史選書〉、1966年。 Karpat, Kemal. 1978. International Journal of Middle Eastern Studies 9 :237-274. Kinross, The Ottoman Centuries: The Rise and Fall of the Turkish Empire, 1979 関連文献 [ ]• 『トルコ近現代史』 、2001年、新版2008年• 新井政美 『オスマン vs. ヨーロッパ』 講談社選書メチエ、2002年• 『オスマン帝国500年の平和』 〈興亡の世界史10〉、2008年/、2016年• 『オスマン帝国の権力とエリート』 、1993年• 『トルコ民族の世界史』 、2006年• 坂本勉・・鈴木董編 『パクス・イスラミカの世紀 新書イスラームの世界史2』 講談社現代新書(全3巻)、1993年• アラン・パーマー『オスマン帝国衰亡史』 訳、、1998年• 小笠原弘幸 『オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史』 中公新書、2018年• 今井宏平 『トルコ現代史 オスマン帝国崩壊からエルドアンの時代まで』 、2017年• ・ 『成熟のイスラーム社会』(世界の歴史15)中央公論社、1998年、、2008年• 永田雄三・ 『西アジア(下)』(地域からの世界史8)、1993年• 『ハプルスブルク・オスマン両帝国の外交交渉 1908 — 1914』 南窓社、2003年• 『ハンガリーからトルコへ その言語及び歴史、地理』 泰流社、1989年• ウルリッヒ・クレーファー 『オスマン・トルコ帝国』 訳、佑学社、1982年• ロベール・マントラン 『トルコ史』 小山皓一郎訳、()白水社、1982年• 『オスマン帝国の栄光とスレイマン大帝』 (清水新書)清水書院、1971年、新版1984年、再訂版2018年• 三橋富治男 『トルコの歴史 オスマン帝国を中心に』 (紀伊国屋新書)紀伊国屋書店、1962年、復刻単行版1994年• 『コンスタンティノープル陥落す』 訳、みすず書房、1969年、新版1998年• デイヴィド・ホサム 『トルコ人』 護雅夫訳、みすず書房、1983年 関連項目 [ ]• が関わる 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 (英語)• (英語)• -「Ottomans:The Rise of the Turkish Empire, 1453 - 1571の日本語版ルール」• 藤波伸嘉.

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オスマン帝国外伝 〜愛と欲望のハレム〜シーズン3 第88話〜第92話 ネタバレ感想

オスマン 帝国 3 あらすじ

外伝(シーズン3)を観るには? 実はで全話無料で観られるっぽいです!全部だけど…なんぞさっぱりわからん!!でもどんなドラマか雰囲気だけ観たい!と言う方も以下の公式動画の第1話を観てみてください。 でレンタル!と思いましたが、日本ではシーズン1のDVDは発売されていますがシーズン2・3は発売されておらず、もちろんシーズン3はレンタルもされていないようです。 なので、シーズン1から一気に観るにはHuluで観るのが1番よいかと思います。 外伝が始まると加入しますが、シーズン3が終わったらまた辞めるつもりです! 2週間無料トライアルもあるので、興味を持った方はどうぞ。 ミフリマーフは事の次第に焦り、ムスタファに報告に向かう。 やって来たマヒデブランも驚き、シャーやハティジェにもそのことが伝わる。 ミフリマーフはシャーやハティジェの仕業だと睨み、シャーとハティジェを激しく責め立てる。 シャーやハティジェはミフリマーフを嗜めるが、ミフリマーフは聞かない。 そんな中ブダ遠征中のスはブダをに併合することを決め、帰路に着く。 スが帰って来てムスタファがヒュッレムのことを報告。 スは激怒し、関係者を集める。 ミフリマーフはシャーやハティジェのせいだと意見を述べるが、スはミフリマーフを下がらせシャー、ハティジェ、マヒデブラン達から話を聞く。 もちろん誰も認めないが、ハティジェはヒュッレムがどうなろうとどうでもいいと語る。 これまでの所業と大胆な行動からこの中の誰かだと睨むス。 マルコチョールとリュステムにヒュッレムの捜索と黒幕の解明を命じる。 また、スは皇帝代理として政務に当たっていたムスタファをも叱り、責任を取ってもらうと言う。 ムスタファは必要な策を講じたと言うがスは聞かない。 また、メフメトもムスタファがヒュッレムを敵視していたことを挙げ、何かあったらムスタファを許さないと言い放つ。 後日言い過ぎだと嗜めるミフリマーフに、メフメトも反省する。 ヒュッレムの捜索が続けられるが、ヒュッレムが見つからず、スはその辛さをエブッスードに吐露する。 エブッスードは神は必要な試練をお与えになると伝え、スの心を軽くしようと務める。 マルコチョールからの報告があったものの、特に進展がなかった。 第89話 マルコチョールの厳しい尋問が始まる。 各々はヒュッレムに関する痛い部分を責められ、怒りを露わにする。 メフメトはムスタファに謝るも、ムスタファは浮かない顔。 リュステムはメルジャンの部下からメルジャンがヒュッレムを行かせるよう命じたと言ったことを聞きメルジャンも尋問。 メルジャンの部下が殺され、次はメルジャンの番になった時リュステムに知らせが入る。 それはデュズギュンと呼ばれるヒュッレムと一緒にコンヤに向かったお付きの者が宮殿に帰って来た知らせだった。 デュズギュンは負傷しており、話すところによると襲撃に遭ってヒュッレムは攫われてしまったとのことだった。 ヒュッレムを置いて逃げたことを怒るス。 デュズギュンの案内で襲撃の場所へ向かうが、ヒュッレムのエメラルドの指輪が見つかっただけでヒュッレムは見つからなかった。 そしてヒュッレムが見つからぬまま時は経ち1543年。 メフメトはマニサに赴任し、側女が妊娠していた。 ムスタファもアマスヤに赴任したが元気がなく外出する時もタシュルジャルやお付きの者を巻くようになっていた。 マヒデブランから1人にするなと命令があってもどうにもならず、ムスタファのではアイシェとルメイサが火花を散らせていた。 第90話 スが政務から退いたことに危険を感じたリュステムはミフリマーフにスを立ち直らせる必要があると話す。 このまま行くとムスタファが後継ぎとなり、ヒュッレムの子どもたちに身の危険が及ぶと言うリュステムの話を聞いてミフリマーフはヒュッレムの部屋に住むことを決める。 その頃ムスタファは森の中でやる気をなくしてスのことを考えていた。 マヒデブランは秘密裏にマニサに向かい、密かに忍び込ませてメフメトの頭となったスにメフメトの暗殺を命じる。 スの元にハティジェがやって来て今までのことを水に流して妹に戻りたいと言う。 スはそれを受け入れ元気を少し取り戻し、政務に舞い戻る。 そんな中マルコチョールの元にヒュッレムに偽の手紙を届けた男が見つかったと一報が入る。 スに知らせたマルコチョールは尋問を行い、ヒュッレムの居場所を吐かせようとするが吐かない。 スがやって来て事の次第を問うと、ハティジェの従者に命じられて手紙を届けたと白状する。 スはすぐにハティジェの元に向かうが事前に従者から連絡を受けたハティジェは部屋へ引きこもる。 スがハティジェの元に向かうとハティジェは部屋におらず、バルコニーにいた。 ハティジェを問い詰めるス。 しかしハティジェはスの好きなところ、これまで起きたことを語り出す。 そしてスにも自分と同じ気持ちを味わってもらいたかったと言い、ヒュッレムの生死は自分しか知らないと言い残して事前に飲んでいた毒が効いてハティジェは死んでしまう。 悲しみに暮れる宮殿の面々。 そんな中ヒュッレムと思しき女性がどこかに閉じ込められていた。 スポンサーリンク 第91話 リュステムはハティジェのことで再び気を落としたスをどうにかしようとミフリマーフと話す。 ミフリマーフはにいるとヒュッレムを思い出してつらいと言うが、リュステムはヒュッレムは亡くなったと諦めるべきだと言う。 しかしミフリマーフは反発。 マルコチョールに消えたハティジェの手下の捜索を依頼。 その場面をリュステムに見られてリュステムがマルコチョールを警戒したことで2人は喧嘩に。 気を落とすスに対し、アフィフェは服喪を終えようとハフサの過去の話をして提案するが、スは聞かなかった。 そしてマルコチョールは宮殿が合わないと言ってスに故郷で仕事をしたいと願い出ていた。 遠征の準備が進み、ムスタファ、メフメトどちらも遠征中は赴任地に残るようスからの命令が届く。 その頃スはメフメトの暗殺を試みようと狩りに誘い出し機会を伺っていたが、側女が流産しそうだという報せが入り失敗。 流産は免れたが、スは次なる機会を伺う。 そんな中マニサでが発生したという話が入る。 ムスタファはずっと元気がなかったが、フズルがやって来てイェニチェリを集めてムスタファへの信頼を語らせる。 するとムスタファは遠征へ出掛けるイェニチェリを励まし元気を取り戻す。 そしてス達は遠征へ向かい、ミフリマーフにが託される。 スがいなくなった後、ミフリマーフは遠征中のシャーのへの出入りを禁止する。 反発するシャーだが、ミフリマーフは出入り禁止を断言。 シャーはこの屈辱はいつか返すと言ってその場を去り、リュステムとの仲を裂こうと画策する。 そんな中エミネがミフリマーフ宛のリュステムの手紙を盗んでシャーへ届ける。 しかしミフリマーフが手紙がなくなったことと、エミネがいないことに気づきエミネを。 エミネが手紙を戻そうとした時にその場に現れ忠告する。 第92話(最終話) ミフリマーフは宮殿にシャーを呼び出し食事を取る。 そこでエミネが自白したことを伝え、スに言われたくなければ宮殿を去るように言う。 反論するシャーだったが、ミフリマーフにスがシャーとミフリマーフどちらを信じるかと言われ、宮殿を出て行くこととヒュッレムのワクフに寄付することを承諾。 ハティジェの屋敷から出て行く。 メルジャンはついて行くと言うが、最後の命令としてシャーはスの側にいるよう命じる。 スは患者の皮膚から菌を採取し、メフメトとの剣の稽古の最中に負傷させてその傷口に菌を塗り込む。 メフメトはに罹り、亡くなってしまう。 メフメトの訃報を喜ぶマヒデブランだったが、ガブリエラに渡されて大事にしていた罪の鏡が割れてしまう。 遠征がうまくいき喜んでいたスだったが、そこにメフメトの訃報が入る。 ショックを受けるス。 ミフリマーフもメフメトの元を訪れたが亡くなり、悲しみに暮れる。 マルコチョールはスに別れを告げ、遠征地を去るがそこにアリの情報が入る。 情報のことをスに話さず向かったマルコチョールはヒュッレムを発見。 宮殿に送り届け、自らは去る。 ヒュッレムは宮殿に舞い戻り、スと再会する。 スポンサーリンク 感想 第88話 脚本家の方、このピンチをよくうまいこと乗り切る脚本にしたな〜と驚いた。 グダグダ感出るだろうと思ってたけど、いい感じにこれまでの出来事をまとめてミステリーチックに仕立ててる。 すごい。 誰が犯人だ?と推理したくなる。 でも現場の皆さんは大変だったろうなぁ… そしてウゼルリさんのヒュッレムで諸々この辺を観たかった… このまま年数を経るしか脚本上ないはずなので、その年数分の出来事が詳しく描かれないのは非常に残念。 しょうがないのはわかってるけど、ここまでロスがひどいとは自分でも思いもしなかった… シーズン3が終わる悲しみよりも、ヒュッレムがいなくなった悲しみがひどい… それでも全部見届けるし、新しいヒュッレムにも少し期待はしたいので、ロスが消えることを祈る… 第89話 マルコチョール、こんな率直に厳しいこと言う人だっけ?っていうくらい今回の尋問はきつかったね。 みんなそれぞれ怒りを露わにしてたし。 これまでもこんな感じで尋問してれば各種問題は解決したんじゃ…? まあヒュッレムがいない中盛り上げるためにはしょうがないんだけどね。 うーん… でもやっぱり行方不明で数年経つのは無理があるね。 一国の妃だよ? しかもの。 まあ、こんなこと言ってもしょうがないのはわかってるし、こんな苦境をよくもうまく話を作ってるなーと思う。 でもでもやっぱりヒュッレムがいないのが寂しすぎて… ダメだね。 ルメイサは妃って呼ばれてたけど、子どもでも産んだの? その辺もヒュッレムの件がなかったらもっと描かれてたかと思うと… 本当に残念極まりない。 だからといってヒュッレムを演じたウゼルリさんを責められないのもまた彼女にはいろんな事情があったんだろうなと思うからで… とにかくこの後話がどう畳まれるのか気になる。 もしかしてよくある犯人はうやむやなまま? 第90話 あぁ、この話に決着つけるには相応しい人が犯人だったね。 ハティジェ、あなたは結局ずっとイブラヒムのこと、ひいては自分のことしか考えられない人だったね。 だってイブラヒムとの子どもがいたんだよ? その子達を置いて復讐に走った挙句先に死ぬなんて、両親どっちも失った子ども達のことなんも考えてないよね。 このまま行くと確実に子ども達はスとヒュッレムを恨むよね。 ハティジェの様子はずっと見てきたわけだから。 ハティジェ、あんなにイブラヒムとの子どもが欲しくて流産したり早逝したり苦労した後に生まれた子どもだったのに。 結局その子達を見なかったね。 あくまでイブラヒムとの愛が目に見える形で現れただけのものだったと言われてもしょうがないよ。 イブラヒムは自分で死にたくて死んだわけじゃないからハティジェはさすがにひどいわ。 前々から思ってはいたけど、最期までハティジェだったね。 まあヒュッレムのゴタゴタを被った面も否めないけど、それがなくてもいずれこうなってただろうな、っていうのはこれまでのハティジェを見てればわかる。 イブラヒムと天国で幸せになってくれ…とあんまり祈りたくはならない人物に最後はなっちゃったな。 スも公正だったと言ってたけど、シーズン1のハティジェも公正だったよ。 ハティジェもすごく変わったよ… まあ天国にはニギャールもいるから幸せになれるかはわかんないね… お疲れ様でした、ハティジェ。 でもこのハティジェを演じた女優さんは本当にすごかった! 尊敬! 第91話 小さなヒュッレムがタイトルだったけど、そんな感じだったねミフリマーフ。 小さい頃はヒュッレムよりタチが悪いこともしでかしそうに育つかと思ってたけど、そこまでだなーと思ってたら一連の事件の中でだいぶ強くなったよね。 プラス皇女様気質が入ってるからタチが悪くなる予感は当たってた。 でもヒュッレムがいない今はそれがすごく頼もしい。 リュステムとはうまくやって欲しいけど、リュステムは無駄に嫉妬深い割にはミフリマーフの要望に応えなくてこの2人の関係は今後心配… ヒュッレムが戻って来れば心強いかもだけど、シャーやハティジェの二の舞にはならないといいね、ミフリマーフ。 でもってシャーは間諜の件がバレそうだねー 明日でシーズン3も終わりだし、もしかして一気に登場人物整理されちゃう? もうシーズン1から出続けてる人が少なくなって来てて寂しい限り… マルコチョールは宮殿が合わないのは私も同感。 でもまたなんかあったら戻されそうな都合のいいキャラだね。 ミフリマーフの片思いも終わったし、マルコチョールともさよなからか。 でもメフメトはさよならしたくない… ただ今回の暗殺はうまくいきそう… だってあんなにメフメトが信頼しちゃってるもんなぁ… ス心変わりしてくれ。 第92話 あぁー… 複雑な…複雑な感情が心を占めてる… 寂しさ、悲しさ… 頭でわかってても、それでも、でも… いろんなことが起こりすぎて整理がつかん。 こんなに一気に事が進んだ寂しい最終回はでは初めて。 シーズン1のはあったけど、それより気持ちを消化できないシーズン3の最後… なにから吐き出せばいいかわかんないや… ちなみに珍しくストーリーより先に感想を書いてる。 いつもはストーリー書いて整理してから感想を書くんだけど、もう赴くままに感想を書くしかないね… メフメト。 悲しい、悲しすぎる… 史実上死ぬのは確定だったけど、やっぱりつらい… 優しい子だったよね… あぁ… マヒデブランが許せない… 新ヒュッレムは気付くだろうか… そして新ヒュッレムね。 やっぱり…やっぱり違和感が… 観続ければ慣れるのかもだけど、シーズン4からにしてくれた方がよかったなぁ… ヒュッレムロスが加速した… しょうがないって頭ではわかってるのに、心が受け入れてくれない。 しんどい… メフメトの死と一緒に来たもんだから全くもって心が追いつかない… マルコチョール、シャーも去って本当にきれいにシーズン4を新たに始めるのね… でも… シーズン4は来週ないんだよぉぉぉ!! 少しは新たなストーリー観て落ち着けたり慣れたりできればいいのにそれがなく私の心は落ち着かぬまま… スのように詩を詠むしかないな。 詠めないけど。 こうやって感情を整理するために詠むのね、詩。 合理的だわ。 語彙力ないから無理だけど。 あぁ、しか言えないもん。 だったらその後ムヒッビー続けないとね。 ムヒッビーに語りかければこの気持ち消化できるかしら… とにかく誰かと分かち合わないとつらい… つらい… メフメト、少しでも嫌なところが見れれば気持ちの整理もできたかもなのに終始いい子だった… 空気読めてないとこあったけど、ほんと、いい子だった… スが見たあのメフメトの幻影、泣けた… 泣けた… 新ヒュッレム、帰って来たばかりでメフメト亡くなったこと聞かなきゃだけど、平気かな? 今までのヒュッレムだったら怒り狂って悲しみまくってヤバそう。 絶対マヒデブランとムスタファ疑うよね。 その辺どうなるんだろ… あぁ、ムヒッビー… 度々この「あぁ…」をつぶやかないとやっていけないわ。 どうしてこんなに最終回にいろいろ詰め込んだのー!! ヒュッレムも違う人になるのわかってたけど、やっぱり違和感… 違和感あるのよ… しょうがないし新しい女優さんには罪はないけど、なんか違う… 心を落ち着けないといけないね。 また心が落ち着いたら落ち着いたバージョンの感想を書こう。 落ち着いたら書くの忘れてそうだけど。 でもこの気持ちを書いたことで少しは心が落ち着いた。 シャーのことなんか頭からすっぽ抜けたよね。 メルジャン居残り意外!とかミフリマーフの後ろ姿ヒュッレムじゃん!とか思ってた話の前半が懐かしく思うくらい。 1話の中でこんなジェットコースターのごとく感想が入り混じるの久しぶりだわ。 はぁー… そしてもう来週からはないのね、シーズン4。 でもシーズン4で終わりなのよね… それもまた悲しすぎる。 はぁー… この数行の感想の中に「はぁー…」がすぐ漏れてしまう。 シーズン2の終わりはよかったなぁ…(遠い目) 最後まで見届けるよ、もちろん。 でも、でも、私のライフワークだったこのブログもシーズン4で終わりかと思うと悲しいね… 気持ちに整理をつけて、シーズン4を迎えられるようにしよう。 シーズン4を早く観たい気持ちと、まだ観たくない気持ちが混在してる。 とにかく気持ちを落ち着けよう。 あぁ…ムヒッビー、我に心の平穏を….

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ブラック・ウォーリアーズ オスマン帝国騎兵団 あらすじ

オスマン 帝国 3 あらすじ

煌びやかで魅力的な上の写真の女性たち。 「オスマン帝国外伝 ~愛と欲望のハレム~」では、異国のムードが伝わってきます! 長きにわたりオスマン帝国を支配し、最盛期へと導いた第10代皇帝スレイマン大帝と、皇帝の寵愛を受け、皇妃にまでのし上がった美女ヒュッレムを中心に、嫉妬と欲望、愛が渦巻く宮廷物語を描いたテレビシリーズ。 目を見張るような美女、そして色とりどりの煌びやかな衣装も含め、まさにトルコ版「大奥」ともいえる超大作です。 この皇帝の寵愛を受けて皇妃にまでのし上がった美女ヒュッレムを中心に、女性の嫉妬と欲望、愛を描き出したオスマン帝国最盛期の第10代皇帝スレイマン大帝と、彼を取り巻く女性たちの宮廷物語のドラマシリーズです。 愛する人たちを皆殺しにされ、捕虜として連れてこられたアレクサンドラ。 全てに絶望し、反抗的な態度をとっていました。 しかし、ある夜に夢で見た両親の言葉によって、ハレムで生き抜くことを決意。 彼女は皇帝スレイマンの側女に選ばれることが、そのための唯一の方法だと考えました。 そんな「オスマン帝国外伝 ~愛と欲望のハレム~」では、ある夜の宴で彼女はその美貌を武器に、妖艶な舞を披露し、皇帝の心を掴むのでした。 さらに、皇子を身ごもったヒュッレムは皇妃となることを望み、スレイマン皇帝との結びつきを強くします。 イスラム教に改宗するなど、あらゆる知恵を使って強かにハレムの中での地位を得ていくのですが、そこには数知れない陰謀と嫉妬が待ちうけ、女同士の熾烈な権力争いが…。 ヒュッレムの運命はどうなってしまうのでしょうか…?.

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