僕は君が好き焼けた肌にいい匂い別に塩の時でも好きさ 曲名。 移動のテーマ 作詞作品発浮ニレス

やすこさんの味 / 旧掲示板

僕は君が好き焼けた肌にいい匂い別に塩の時でも好きさ 曲名

05 ID:kLLE5Q4M0 その洋館は、山奥にある湖のほとりに建っていた。 主は、残忍だった。 気に入らない使用人が居れば、即刻解雇である。 いつ如何なる時でも、使用人達の働きに目を光らせていた。 周りのもの達は畏怖を覚えながら、仕事に従事していた。 そのような人間ではあるが、主には一人だけ気を許す人物がいた。 連れ合いである。 そちらは主とは対照的に、穏やかな性格だった。 心の底から愛していたのだ。 誰だって、愛の前では平等だ。 「末永く、君と生きていたい」 祈った。 居るのか分からない神にね。 祈ったのだ。 祈ったのだ。 07 ID:kLLE5Q4M0 3「二十一グラムは永遠の愛を求める ver. 仕返しとばかりに何度もボタンを叩く。 執念深く幾度となく。 しかし、この目覚まし時計は精巧かつ頑丈だ。 壊れることがない。 根負けして肩を落とし、ブーンはベッドから滑り落ちた。 ベッドに、彼の妻の姿はない。 もう正午過ぎだからだ。 きっと、デレは邸のどこかに居るのだろう。 ブーンが立ち上がって、 カレンダーに視線を遣る。 今日は十二月十四日である。 一年の終わりが、すぐそこに来ている。 だけれど、彼には関係のないことだ。 大事なのは、その少し前にあるクリスマスである。 クリスマス。 クリスマス。 神が人間として生まれた日を祝う、キリスト教の記念日である。 彼はその前日、つまりクリスマスイブの日に、何かイベントを計画しているのだった。 デレと熱い夜を過ごす? またまたご冗談を。 彼の考えるものは、もう少しだけ高尚である。 11 ID:kLLE5Q4M0 どうしてかは分からないが、妹のツンとデレは仲が悪い。 目を合わそうとしないのだ。 見たところ、ツンが一方的にデレを嫌っているようだが、これではいけない。 心優しいブーンは、二人を仲良くさせるために、イブの日にイベントを予定している。 この企画は、驚かせたいので二人には内証にして、友人のショボンにだけ打ち明けるつもりだ。 彼は口が軽いきらいがあるが、物事の分別が出来る人間だ。 秘密を守ってくれるだろう。 自分は配慮の出来る人間である! おお、さといさとい。 腰に両手を当てて、廊下をスキップで進む。 そして、リビングに入るとツンが居た。 彼の登場の仕方に驚愕して、ツンは丁度飲んでいたジュースを噴き出しそうになった。 このような人間と住むクーは大変に違いない。 彼女は、話し相手が欲しいと言っていたから丁度良いのかもしれないが、この場では邪魔である。 実はドクオなりに場を和まそうとしているのだが、知らないブーンは彼を羽交い絞めにして言う。 勿論、ドクオも一緒である。 踊り場には二階の案内図があった。 二階は一階よりも面積が狭く、病室が並んでいるようだ。 階段から南に向かって廊下が伸びていて、 突き当りを右へと曲がった先に、一階へと戻られる階段がある。 階段を下ると待合室がある。 三人は二階の構造を把握してから、階段を昇りきった。 右側には等間隔に窓が並んでいる。 窓の外は広いベランダとなっており、物干し竿が置かれている。 無論、現在は洗濯物はない。 ベランダは転落事故防止柵で囲われている。 ということは、飛び降りてはいけないのである。 ミセリがどこに居るのか分からないから、注意したまえお」 病室に入ってブーンは、ベッドが並ぶ様子を眺める。 多少は古めいているが、陳腐な病室である。 左右に二台ずつ、合計四台のベッドとテレビが置かれてある。 窓の向こうは灰色で、室内は薄暗い。 耳をそばだてれば雨の音。 ふと彼が腕時計を見ると、三時半だった。 夕暮れまでに解決しないと。 ブーン達は現在の病室を出て、他の病室も調べていく。 けれども、心の欠片は見付からない。 そのまま、三人は廊下が右に折れるところにまで到達した。 そこで、ブーン達はようやく記憶の欠片を見付ける。 病室側にある長椅子から出てきたのだった。 恐らく、これが最後の心の旅である。 一同は意識をうつほにして、微熱を放つそれに身を任せた。 外から激しい雨の音が聞こえる。 天候を写したかのように、彼女の表情は暗い。 いつも見舞いに来てくれる兄が来なかったからだ。 ミセリは耳を澄まして、雨音に紛れた微かな鼓動を聞く。 近い将来、確実に止まってしまう心の音。 彼女は気丈夫であるが、死の恐怖に耐えられるほど心が強くない。 誰だって、死は怖いものだ。 彼女がただじっと座っていると、病室の扉が開いた。 中から頭に包帯を巻いた少年が出てくる。 あとから、その少年の父親らしき人物と、金髪をくるくると巻いた妹らしい幼女が現われた。 この前に起きた電車事故と関係があるのだろうか。 ・・・身なりが良いので、早々にこの病院を退院し、きっと都会の大きな病院にでも転院するのだ。 でもまあ、その道の医師に頼んで地道に治せると思われる。 ミセリは少年の境遇を羨ましく思い、ため息を吐いた。 そんな彼女に、一人の看護士が近寄った。 それもそのはずで、彼女はキューの妹なのだ。 一卵性双生児である。 彼女は「よいしょ」と屈み、ミセリの細い手を取って顔を覗き込む。 毎日のように来てくれるもんねえ。 でも、今日は土砂降りの雨だからねえ。 やはり身長は低いけど。 彼女がなだめたが、ミセリは無言だ。 姉に似た名前を持つキュートは、どうしたものかと息を漏らして、ミセリの手を優しく握る。 兄妹は仲良くしないと。 そういう私は、姉とは仲が悪いけどねー』 キュートは愛嬌良くけらけらと笑う。 少しだけ表情を弛ませて、ミセリが口を開いた。 これが病気みたくうるさい姉でね。 姉はとある大会社の社長さんの邸に働きに出たんだけれど、 その邸が全焼してしまってね。 看護士はミセリの手を離して、ゆっくりと立ち上がった。 じゃあ私は仕事があるから、またねー』 そう言って、キュートはぱたぱたと去って行った。 一人残されたミセリは、中空を見つめる。 そこに大好きな兄の幻影が映る。 彼女は病に蝕まれた身体をかばって、徐に椅子から腰を上げた。 今日は兄が来ないのは仕方がない。 子供のように我が儘をしていないで、病室で眠っていよう。 ミセリは病室に戻ってベッドに寝転んだ。 激しい雨が降り続ける、ある夏の夕方のことだった。 あのころは空虚な日々を送っていて、ほとんど覚えていなかった。 ただ漠然とした中で、母親の死を悲しんでいたのだけは覚えている。 自分が殺したのと同様だから。 気付けば長椅子に座っているブーンに、デレとドクオが中腰になって心配そうに話しかけた。 デレとドクオも姿勢を正し、真っ直ぐに立った。 今は自分のことなどを考えている場合ではない。 彼は心を強く持って、足を動かせ始める。 それから、ブーン達は二階の病室をあらかた調べ終え、残すは一番奥にある病室だけとなった。 もうここしかないわけだけれど」 ブーンがドアノブを掴んで開けようとすると、デレが彼の腕を引っ張って、人差し指を立てた。 病室から話し声が聞こえたのだ。 誰かが会話をしている。 三人は扉から少しだけ顔を出して、病室の中に広がる光景を覗き見る。 私もお兄ちゃんと会えるとは思っていなかったよ」 ショボンがスツールに腰かけ、クリーム色のパジャマを着た少女がベッドで上半身を起こしている。 少女の背中には、弱々しく畳んだ黒い翼が生えている。 ショボンとミセリだ! 珍しく書店に彼が居ないなと思っていたら、この病院へと来ていたのだ。 どうして彼がここに居るのかは分からないが、これは僥倖である。 期せずして、目的が叶った。 兄妹は楽しそうに再会を祝っている。 上手く話を運べば、ミセリを鎮まらせることが出来るだろう。 君は向日葵が好きだった。 この異変は、もしや君の仕業なんじゃないかなと思った。 そして来てみれば、やはりミセリが居た。 僕は君の正体を知っているよ。 影なんだろう」 そうか。 昼前に見かけた花束を持ったショボンは、ミセリの墓参りに行く途中だったのだ。 妹の墓参りのついでにミセリと再開したのなら、彼の驚きは相当なものだったに違いない。 ブーンが部屋に踏み入れようとすると、ドクオが「もう少し待て」、と服の袖を引っ張った。 私が何者だか分かるんだ。 僕の友人も醒覚してね。 心当たりがある人は多いはず。 ショボンは身体を若干丸めて、顎に生えている無精ひげを掻いた。 次の言葉を考えているようだ。 ミセリはくすりと笑い、さすがはショボンの妹といったところか、兄の心を覚ったかのように話す。 ただのサブカルチャー好きだっただけさ」 大方のオタクはそう反論する。 とりあえず、病室の空気は極めて和やかで、割り込みやすそうである。 今なら入っても大丈夫だろう。 ブーンは扉を開けて、手を振り上げて大きな声を出して挨拶をする。 ブーンに緊張感などない。 彼はショボンの両肩をがっしと掴んで、反応に困っているミセリを見下ろした。 病的なほど華奢だ。 僕は内藤ホライゾンだお。 ショボンに、ブーンに対する数々の愚痴を聞かされているのである。 落とし穴に落とされたこと、級友に罵詈雑言を吐いたこと、放送室を乗っ取って自慢話をしたこと。 ろくな話ではない。 だが、その話は生気に満ち溢れており、入院生活を強いられていたミセリには、 とても楽しさを覚えたのだった。 ブーンは笑顔でうんうんと頷いて、ショボンの肩から手を離した。 自分という存在は、見ず知らずの病弱な人間さえも幸せにさせるのだ! 軽く絶頂に達しかけるがしかし、ブーンにはやることがある。 ミセリを鎮まらせなければならない。 ぱっと見たところ、彼女からはまったく殺気といったものを感じられない。 むしろ、友愛を感じる。 きっと、兄の成長した姿を見て安心しているのだ。 今回の事件は、支障なくことが運ばれそうだ。 ブーンは、ベッドの脇にあったスツールの脚を足先でかけて引き寄せて、それの上に腰を下ろした。 今朝方。 まだこの街に滞在している、とブーンは指を打ち鳴らした。 それにしても。 ブーンは隣に座るショボンに顔を向けて、にやにやと気持ちの悪い笑みを溢した。 ショボンもシスコンではないかお。 さっき、追憶で視たお。 ミセリは大切な家族だったんだよ。 ・・・・・・ああ。 こう言えば語弊があるかもしれないな。 いじらしいくらいに、ショボンはとても妹想いなのだ。 以前、妹のことを忘れてしまったと言っていたが、今の彼の様子から察するに嘘を吐いたのであろう。 同じ妹が好きな身として、ブーンは心から同情した。 もし、ツンが居なくなったら発狂してしまう。 「実に素晴らしい」。 そう言って、彼はショボンの丸まった背中を、右手で優しく撫でたのだった。 うんうん。 やめてくれ。 つまり、ミセリは僕と街で暮らす選択肢もあるんだ。 君の言葉を聞かせてくれないか」 鎮まってもなお、影として静ひつに街で暮らしているものは、デレの他に、クーやヒートが居る。 ミセリにもその方法が取れる。 ミセリはしばらくの間口を一文字にして考え込み、やがて微笑んだ。 また終わりがあって、始まりもある。 世界は廻る。 ・・・あのね。 お兄ちゃん。 私は、このままずっと安らかにこの世を去りたいの。 いつか彼が言っていた。 妹はツンに似ていて気丈だ、と。 正にその通りである。 ブーンは膝を叩いて、ミセリに指を向ける。 偉い! ツンにまでは及ばないが、ショボンは良い妹を持ったお」 今まで、ブーンは色んな影を見てきたが、ミセリみたいに生に執着していない人物は初めてだ。 この場合の鎮まらせる方法は至って簡単で、ショボンが旅立つ彼女を見守れば良いだけである。 ブーンが指を下ろすと、ミセリは口に手を添えて目尻を下げた。 兄の友人は、本当に面白い人だ。 兄がよく口にしていた、内藤さんにも会えて嬉しいです。 長くは生きられないと宣告された私は、花壇で誇らしげに咲く向日葵に憧れていました。 ・・・・・・私よりも、もっと不幸な人が居る事は知っています。 でも、口惜しかった」 「それでも」。 区切って、ミセリは息を吸った。 そして、茶色い眼球をショボンへと動かせた。 ・・・輪廻なんてないのかもしれない。 もしそうだとしても、そこへ向かう事こそ、死んだ人間の在るべき姿なんだと思うの」 歌うように言って、ミセリは視線を三人に戻した。 まるで上質の演劇を観覧しているようだった。 ここに大勢の観客は居ないが、拍手の音がする。 ブーンが手を叩いて、彼女を讃えているのだ。 ミセリは思慮深く、本当に具合良く熟成した人物である。 ブーンが、黙り込んでいるショボンへと視線を遣った。 彼は作務衣の深いかくしから扇子を出した。 きっと、感動して身体が熱くなってしまったのだろう。 彼は扇子を広げ、ぱたぱたと煽ぎ始めた。 君も黙っていないで、天国に旅立つミセリに言葉を贈りたまえお」 ショボンは煽ぐ手の動きを止めた。 まるで時間が止まったかのように、微かな動作すらしない。 しばらくして、ようやく彼の顎が動いた。 そうそう。 いつもの物分りの良さを示せば良いのだ。 何を子供みたく、愚かしい駄々をこねているのだ! 想定外な友人の言動に憤慨し、彼は目尻を吊り上げて睨み付けた。 だが、ショボンは淡々と言う。 今しがたも言ったように、影も人間と暮らせるんだよ。 ショボンは、彼女の決意をぶち壊しにする気なのか。 これでは、彼女が可哀想だ。 ブーンはショボンの腕を力強く掴んで、声を大にしてたしなめる。 そうして、壁に視線を遣って、誰も視界には入れずに語る。 不運にもミセリが死んでしまった夢をね。 だけど今日、漸く夢から目覚めてくれた。 妹が居ない悪夢から解放されたんだよ。 そんな時僕は、君達にだけじゃなく、 ミセリにも話し掛けていたんだ。 妹の幻を脳内に作って、話し掛けていたんだよ」 最後に語気を強めて、ショボンが言い終えた。 彼は妄想心を働かせ、妹に話しかけていたらしい。 須名邸のときも、都会に遊びに行ったときも、そしていついつのときも! 気が違っていやがる! ブーンは身震いをして唾を飲み込んだ。 その内に彼の怒気は弱まって行き、完全に悄然とする。 君の口は喋りたがっているお」 ブーンは顔面を手で覆った。 ショボンと付き合いの長いブーンは、彼の心など読みきっている。 頭痛を覚えるほどに承知している。 「ふう」と息を漏らし、ショボンは病室の隅へと視線を移した。 何一つ恐ろしい物が存在しない。 平然と罵詈雑言を吐いてしまい、危険だと分かり切っている場所へと足を踏み入れる・・・」 ショボンの飄々とした振る舞いは、そういう理由から成り立っていたのか。 夢を見ている彼は、 何にでも立ち向かえる、いわば無敵である。 たとえ、勝ち目の無い敵を前にしても立ち竦まない。 錯乱でも、狂気でもない。 そして、正気でもない。 ショボンは、空虚な世界に佇む人間である。 そこは感情の色が欠けた世界。 居ても立ってもいられず、デレはショボンに寄って両手を取った。 一ミリメートルも僕は優しくなんかない。 僕の家が貧しいのは知っているだろう。 だから、満足にミセリを療養出来なかった。 だって、あんなに二人は仲が良かったじゃない。 遠巻きに、或いは近くで見ていたブーンとショボンの友情は、あれは偽りだったのだろうか。 ショボンさんの辛辣な言葉群には、本心も含んでいたの!? デレは次の言葉を紡げなくなった。 彼が遊戯銃と説明したやつだ。 彼は銃把を右手で握る。 ブーンが以前に見たときと同様に、彼は自らのこめかみに銃口を押し当てた。 こうして、弾を一つだけ装填して、何度か自分の命を絶とうとしていた。 その度に失敗して来たけどね。 どうにも神様って奴は、僕を死なせたくないらしい。 息苦しく、ブーンは言葉を出せない。 十二月に自室に招いたとき、 あのときも死のうとしていたのだ。 カチリ。 トリガーが引かれた音が、ブーンの脳裏に鮮明に蘇る。 一歩間違えていれば、部屋が血で真紅に染まり、彼は友人の亡骸をみる破目になっていたのだ。 事故のとき、身を挺して庇ってくれた母親の身体がそうだった。 気持ちが悪い。 喉の奥が熱くなる。 このままブーンは、無様にも地面に吐瀉物をぶちまけてしまいそうになった。 嘔吐感を必死に堪えるブーンのことなど知らず、ショボンは銃を下ろして話を続けるのだった。 一人では心細いだろう。 ・・・何度も引き金を引いてやる。 必ずや死ねる。 その台詞は、ミセリへの脅迫ではないか! 是が非でもやめさせなければならない。 しかし、ブーンは口を開けない。 思考回路が狂っている。 とうとうブーンは耐え切れなくなり、椅子から転げ落ちてしまい、床に額を押しつけてむせぶ。 クーが父親から虐待を受けたことがおかしい。 ヒートがいじめられて死んだことがおかしい。 トソンが平穏に暮らせなかったことがおかしい。 そして、母親が亡くなったことがおかしい。 酷い言い合いをしていたが、楽しくやって来たではないか。 もう、これからは無理なのだろうか。 絶望に打ちひしがれるブーンは、涙で溢れた瞼を閉じた。 暗がりに、彼が望んでいる光景が映る。 脳裏に浮かんだ光景は、ショボンが鎮まり、ミセリが無事に来世へと旅立って行った世界である。 申し分のない、誰もが納得する幸せな結末。 母親を亡くしたブーンは、ハッピーエンドを望むのだ。 ・・・・・・。 ここで崩折れれば、全てが終わる。 ようやく意識が醒め始めたブーンは、片膝を立てた。 正視に耐えられなくなったその顔を上げて、ブーンは虚ろな瞳をしているショボンを睨み付ける。 二人の視線が絡まり合う。 ブーンは純潔な精神にて、女神アルテミスが持つ弓矢の切っ先が如く、鋭い指先を突き付ける。 僕の莫逆の交わりであるショボン! 君は悪霊にでもとり憑かれている。 その調子で、強引に納得させるんだ。 ブーン。 もしツンちゃんが死んで影として現われて、成仏させてくれと頼んで来たら、 君は受け入れる事が出来るかい? 無理だろう。 きっと、ブーンも出来やしない」 視線と視線。 指先と扇子。 それらは微動だにしない。 沈黙の中、ブーンはごくりと唾を飲み込んだ。 口腔内にこみ上げていた少量の胃液が流され、喉の奥が熱くなる。 もしもツンが影として蘇って、 「輪廻へと赴き、生まれ変わりたい」と言われれば、自分はそれを受け入れることが出来るのか。 ブーンは想いを巡らせて、腕で涙を拭った。 そして頭を横に小さく振り、雑念のない表情で答えた。 本当に、ブーンは調子が良いんだから。 ブーンもゆっくりと腕を下ろし、起き上がる。 病室内に張り巡らされていた、緊張の糸が解けた。 赤く目を腫らしたブーンが、スツールに座った。 ショボンの手に握られている拳銃を一瞥してから、彼はそっぽを向いて言い辛そうに命令をする。 ・・・分かったよ。 捨ててやる」 ショボンは、テレビが置かれている台に拳銃を置いた。 友人の命を脅かしていたものが、離れた。 安堵して、ブーンはミセリに顔を向けた。 二人を見守っていた彼女は、安心しきった表情である。 そう悪く思わないでやって下さい」 ミセリとブーンは、それぞれ肩を竦めた。 一時はどうなることかと思ったが、無事に収束しそうだ。 ブーンがショボンの肩を揺らせる。 ミセリに、妹にかけてあげなければならない言葉があるだろう。 人間とは、身体が立派に成長を遂げても、心は昔の面影を残すものである。 「さあて」。 ミセリがベッドの縁へと座った。 地面に下ろされた彼女の足は、ひどく痩せ細っている。 まだ起きたばかりで歩き難いから、お兄ちゃん、背負って欲しいの」 外から聞こえていた雨音が、途絶えた。 ブーンが窓へと目を向ければ、雲が橙色で染まっている。 ただ染まっているだけではなく、光り輝いてもいる。 神秘的で、絵本の世界へと沈んだかのようだ。 仕方がない」 ショボンがミセリを背中に抱いて、立ち上がった。 もうすぐ、ライゴウ兄妹は永遠に離れ離れになる。 顔が見られない。 声が聞けない。 こうして触れられない。 ショボンは意識が遠のいて行くのを感じた。 階段を昇った屋上への扉が、そう」 まるで天国への階段である。 心残りはないと言えば嘘になるが、ショボンは振り切ることにした。 馬鹿な行いはしたが、たった一人の妹なのだ。 彼女の願いを、聞き届けてあげなければならない。 まるで地に足が着いていないかのような感覚で、ショボンはミセリを背負って、病室をあとにした。 窓の外に広がる光景。 橙色に輝く空に、向日葵の花弁が舞っている。 一片一片、各々きらめく粒子の尾を引いて、蝶々のようにゆらゆらと舞い、空へと向かっている。 幻想的。 月並みな言葉で表現するとすれば、そうだ。 きっと、街では大騒ぎになっていることだろう。 ミセ;゚ー゚ リ「向日葵を見たかっただけだったんですけどね。 力の加減が分からなかったんです」 歩き慣れていないのと同様に、ミセリが力の加減を欠いて、街まで向日葵が咲かせてしまったのだ。 それでも、このような綺麗な風景の中で彼女が逝けるのならば、結果的に良かったのではないか。 実害はないし、三ヶ月もしたら街の住民も忘れてしまっているだろう。 ショボン達は廊下を歩く。 不良な兄で、すまなかった。 もっと、ミセリに何かしてあげられたかもしれない・・・。 上手く言葉に出来ない。 ともかく、僕はミセリが居てくれて、本当に良かった」 ショボンは廊下を進みながら、背中に居るミセリに話しかける。 出来るだけ沢山の自分の想いを、 去り行く妹に贈りたいのだ。 しかし、いざ事が運ぶとなると、上手に言葉を紡ぎ出せないでいる。 ため息を吐くショボンの後頭部に、ミセリは顔を押し付けた。 兄の匂い。 彼女は静かに、言う。 思うショボンだが、確実に終着点へと近付いている。 そうしていると、ふと先頭に立っているブーンが振り返った。 彼は後ろ向きに歩きながら、 ポケットからジュエルケースを取り出した。 事件の依頼料として、クーから渡されたものである。 これは彼女からの依頼料というわけだお。 でも、指輪なんていらないからあげるお。 是非とも君のものにしたまえ。 バレたら全く意味が無いじゃん。 ・・・ほら。 友人が持っているあれは、僕が買った物だ。 ミセリにプレゼントしよう」 ブーンはミセリへとジュエルケースを手渡した。 ケースを開けると、彼女の眼に赤い宝石が映る。 兄は、面白くて優しい友人を持っている。 ミセリは嫣然として、ショボンを強く抱きしめた。 ありがとう、お兄ちゃん」 廊下はいつまでも続くものではない。 無情にも、ショボン達は屋上への階段の前にたどり着いた。 たった十数段の階段を昇った先に、あの世へと繋がった扉があるのである。 ショボンは一歩を躊躇う。 彼女はふらつきながら階段の手すりを持った。 一段目に足を乗せる。 ショボンは、彼女の小さな背中を記憶に刻み込むように、じっと眺める。 階段の中ほどまで進んだミセリが振り向く。 だんだんと遠くなって行く彼女の後ろ姿。 とても寂しい色をしている。 やがて古錆びた屋上への扉の前までたどり着き、ミセリはショボン達に身体を向けた。 微笑んでいる。 見下ろせば、兄達が心配そうな視線を向けている。 彼女は頭を下げて、ショボン達に別れを告げる。 ありがとうございました。 開かれた隙間から、眩く白い光が差し込んでくる。 よって、彼女の顔が見えなくなる。 今、妹がどんな表情をしているのか、ショボンからは分からない。 ふとショボンは強烈な不安を覚えて、一歩を踏み出し、おぼろげなミセリを食い入るように見つめる。 十分だけ時間を戻せるみたい。 此処に来て、私はそれが使いたくて仕方が無い。 そこに立っていた時間に戻りたい。 そうして、また人間として生まれ変わるのです。 明日行き着く先が、悲劇だとしても。 運命から逃れてはいけません。 私は、お兄ちゃんとお友達の祝福を一身に背負って、天国へと旅立つのです。 だから」 ミセリはゆっくりと扉を開いていく。 扉の中から無量の光と、一陣の強い風が吹き込んだ。 ミセリの身体が、光へと溶け込んでいく。 もう、ミセリとは会えなんだ。 ショボンの脳裏に、妹と過ごした一瞬が浮かんでは消えていく。 無意識に、彼は大声で叫んだ。 ミセリはそう言い残して、現世を去った。 ショボンはその場で両膝を着いたのだった。 若干雲が晴れて、夕陽が差し込む中を、ブーン達を乗せた車が山道を走行している。 ドクオの運転はスムーズで、六時ごろにはビップの街へと着くだろう。 今日は心底疲れた一日だった。 朝食を作り、薬を買いに街へと下りて、邸へと戻った。 それから、事件を解決するために病院へと。 病院に着いてからは、院内探索をして、ショボンとミセリに出会った。 あとは友人にこけにされ、 それを鎮めて、最期に兄妹の別れに立ち会った。 うわあ・・・。 後部座席に座るブーンは肩を竦めた。 なにこの一日。 ちょっと最悪が過ぎるのではないか。 ブーンは、隣に居るショボンに話しかけた。 ミセリと別れてから、彼はすっかりと意気阻喪してしまっている。 それは当然のことだ。 世界でたった一人しかいない妹が、本当に居なくなってしまったのだから。 ブーンはフロントガラスへと目線を向けた。 今はもう、向日葵の花びらは舞い上がっていない。 彼の書店までは狭い道が入り組んでいるため、車が通れない。 ショボンは、何者だか分からない変な影に礼を述べて、車を降りた。 しかし、彼はドアを閉めない。 何をしているのだ、とブーンが眉を集めていると、ショボンが手招きをした。 お前、ちょっと来い。 僕に用事があるようだ。 ブーンは渋々と車を降りた。 そこまで胸中に寂寞が駆け巡っているのか。 ブーンが断ろうとするが、彼は真剣な眼差しをしている。 ブーンはため息を漏らして、ついに折れた。 十五分ほどここで待っているように車内のドクオに告げて、二人は狭い路地裏へと消えていった。 男同士で喋りたい事でもあるんだろう」 ブーンとショボンは夕刻の街を歩く。 店舗は店じまいをしていて、どこかから夕食の匂いが漂う。 人通りはなく、路地裏には寂寥感がある。 ショボンは歩きながら、肩を並べる友人に話しかけた。 ブーンには随分と失礼な事を言ってしまった。 もう君を馬鹿に出来ないね。 唇とつんと尖らせて、ブーンは表情を険しくさせた。 ショボンは押し黙る。 二人は黙して石畳の道に足音を鳴らして行き、ショボンの書店の前まで来た。 いつ見ても古臭い書店である。 元は普通の民家だったが、ショボンが一階を改築したのだった。 ・・・・・・もう、妙な気は起こすなお」 さすがにもう自殺は考えていないだろうが、廃院での一件を思い返して、一応ブーンが忠告をする。 後追い自殺なんてされたら目覚めが悪い。 ショボンは「ああ」と頷き、両開きの扉の鍵を開けた。 ブーンはひらひらと片手を振って、踵を返す。 すると、ショボンが彼の服を引っ張って呼び止めた。 莫逆の交わりとは、非常に親しい付き合いの事を言う。 君はそう思ってくれている。 あの時、とても嬉しくなってね。 例え、ツンちゃんの事を受け入れないと答えても、 許してしまうつもりだったんだよ。 あの時点で、僕はブーンに敗北を喫していた訳だ。 ・・・・・・大穴に落とされてから、君には負けっぱなしだ。 やれやれ。 ふっと気障に髪をかき上げて、ブーンは顎を上げる。 広量なところを見せ付ける場面である。 君は大河の如く心が広いって言っていたが、僕のほうが広いね! 君が大河なら、僕は地球規模だお。 いやいや。 あれだけの暴言を吐いてしまったのに、ブーンは許してくれている。 どちらが狭量なのかは、自明の理だ。 その点に於いても、僕は君に劣っている」 謝り続けるショボンに、ブーンの身体がむず痒くなって来る。 気持ち悪くて堪らないのだ。 いつも通りに辛辣な言葉を投げ付けるべきであるが、別にブーンはマゾヒストではない。 ショボンはねえ。 常日頃のように振る舞えば良い。 あまり君に持ち上げられると、全身をなめくじ共に這われているみたいだお!」 ショボンは幾ばくか表情を和らげた。 そして、ブーンの右手を取って握り拳を作らせる。 彼は不遜な性格をしているが、暴力は非常に嫌っている。 殴ると、当然に相手は苦痛な表情を浮かべる。 それが、自分を庇ってくれた母親の顔と重なるのだ。 もう同様なものは見たくない。 従って彼は、どれだけ辱められても、暴力は振るわない気概である。 しかしショボンは、真っ直ぐに眼を彼へと向けていて、殴られるまで帰さない意気込みである。 ・・・・・・絶対に殴らない。 ブーンは拳を握り締めて、乾ききって水分のない喉に空気を流し込んだ。 視界が真っ暗になる。 静寂の中に、ブーンが足を動かせる音が聞こえた。 これからブーンに殴られるのだ。 自分なりの贖罪である。 ブーンもきっと溜飲が下がるだろう。 ショボンが無意識に衝撃を待ち構える。 だがしかし、ふわりとした感触が彼の身体を包んだのだった。 もう馬鹿なことを考えないでくれ。 僕は君にまで死なれたら、気が狂いそうだお。 もしもショボンが居なくなれば、僕が街に下りる大半の意味を失くしてしまう」 ショボンはゆっくりと瞼を開いた。 すぐ目の前に、黒黒とした髪が生えたブーンの頭があった。 ブーンは殴り付けずに、ショボンを抱いたのだった。 さすがにブーンは男性を触りたくはないので、 身体を引き気味にだが。 それでも、親友を抱いたのである。 疲労困憊といった表情でブーンは言う。 たとえショボンが何と罵ったって、僕は君をずっと親友だと思っているお。 一度しか言わないから、よく聞きたまえお。 僅かに開いた雲間には、一番星が輝いていた。 公園でいい男を発見でもしたかのような、雄雄しい声である。 食堂で椅子に座るブーンの前に、ビーフシチューが盛られた皿が置かれている。 彼の好物なのだ。 時刻は十九時過ぎ。 内藤家では夕食の時間だ。 すっかりと快復した様子のツンが口を開く。 家事もなさってくれましたしね。 ツンが呆れる。 邸に帰ってきたときの兄はやつれた感じだったが、本当に疲れているのだろうか。 スプーンでシチューを一口だけ喉に流し込むと、彼女は手を休めてブーンに一瞥を遣った。 退治だなんて物騒な代物ではなかったが、 今までのどの事件よりも、神経をすり減らすものだった。 ブーンは水を飲んで人心地につく。 薬を飲んでじっくりと眠ったら、治りましたわ。 最後まで、ショボンは涙を見せなかった。 なんて強い男なのだろう! 彼は脆い所があるが、強い。 スプーンを置いて、ブーンは食事をしているツンの顔を眺める。 この世で無二の可愛い妹である。 だが、ブーンは無言のままである。 無言のままだった。 どれくらい喋らなかったかというと、二十一時になるまでそうしていたくらいだ。 テーブルには、ブーンの分だけ食器が残っている。 ブーンは両足を伸ばし、椅子の肘掛に手を置いて頬杖をついている。 ツンが発狂しそうな姿勢である。 不意に食堂が明るくなる。 浴室で身体を洗い終えたデレが、電気を点けたのだ。 彼女はパジャマ姿だ。 今日は一緒に寝ないのですの?」 眠たそうに目を擦るデレが、寂しげに訊ねる。 「その内に行くお」、とブーンはかすれた声で答えた。 彼女は頷いて、食堂から出て行った。 一人になったブーンは、リモコンを操作して食堂を暗くさせた。 しかし、すぐに電気が点いた。 忙しい照明である。 リビングで寛いでいたツンが、やって来たのだ。 彼女はブーンの前に座り、ブーンのだらしない姿勢に目を細める。 ため息を付いて、ツンが口を開く。 お兄様はご自由で良いですわね。 ・・・何か気に入らない事がおありなのですか?」 ツンはブーンを心配して様子を見に来たのだ。 けなげな妹。 ブーンは座り直して、話しかける。 私が先に死ねば、お兄様はそれはもう、ご自分の好き放題になさるでしょう。 死ねませんよ。 私はずっと生きて、お兄様を監視せねばなりません。 地球の為です」 きっと、風邪をひいてしまった自身を見て、心配をしてくれているのだ。 妙なところで繊細な兄だ。 ツンは目を開いて微笑んだ。 まだまだ彼女は、死の谷へとは向かえない。 兄の保護者をするのである。 ツンが作ってくれた料理を、捨てるわけにはいかん。 それから、腕を移動させて、窓を指差した。 窓が風に叩かれて、がたがたと音を立てている。 ブーンが腕を下ろし、静かな声を食堂に響かせた。 しばしの間、窓を開けて欲しいお」 兄の詩的な言葉に、ツンは鳥肌が立ったが、言われた通りに窓を開けた。 風がツンの前髪を撫でる。 ミセリが屋上の扉を開けたときに、吹き込んで来た風と似ている。 ブーンは深く頭を下げて唸った。 そうだ。 ショボンはあのとき、そう思ったから、泣かなかったのかもしれない。 彼は顔を上げた。 例え、妹を亡くして、悲しみに包まれたとしても。 ブーンはふと口を衝いて出て来た詩句を、風をその身に受けながら、口の裡で繰り返したのだった。

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Jフレ・アンティーク

僕は君が好き焼けた肌にいい匂い別に塩の時でも好きさ 曲名

05 ID:kLLE5Q4M0 その洋館は、山奥にある湖のほとりに建っていた。 主は、残忍だった。 気に入らない使用人が居れば、即刻解雇である。 いつ如何なる時でも、使用人達の働きに目を光らせていた。 周りのもの達は畏怖を覚えながら、仕事に従事していた。 そのような人間ではあるが、主には一人だけ気を許す人物がいた。 連れ合いである。 そちらは主とは対照的に、穏やかな性格だった。 心の底から愛していたのだ。 誰だって、愛の前では平等だ。 「末永く、君と生きていたい」 祈った。 居るのか分からない神にね。 祈ったのだ。 祈ったのだ。 07 ID:kLLE5Q4M0 3「二十一グラムは永遠の愛を求める ver. 仕返しとばかりに何度もボタンを叩く。 執念深く幾度となく。 しかし、この目覚まし時計は精巧かつ頑丈だ。 壊れることがない。 根負けして肩を落とし、ブーンはベッドから滑り落ちた。 ベッドに、彼の妻の姿はない。 もう正午過ぎだからだ。 きっと、デレは邸のどこかに居るのだろう。 ブーンが立ち上がって、 カレンダーに視線を遣る。 今日は十二月十四日である。 一年の終わりが、すぐそこに来ている。 だけれど、彼には関係のないことだ。 大事なのは、その少し前にあるクリスマスである。 クリスマス。 クリスマス。 神が人間として生まれた日を祝う、キリスト教の記念日である。 彼はその前日、つまりクリスマスイブの日に、何かイベントを計画しているのだった。 デレと熱い夜を過ごす? またまたご冗談を。 彼の考えるものは、もう少しだけ高尚である。 11 ID:kLLE5Q4M0 どうしてかは分からないが、妹のツンとデレは仲が悪い。 目を合わそうとしないのだ。 見たところ、ツンが一方的にデレを嫌っているようだが、これではいけない。 心優しいブーンは、二人を仲良くさせるために、イブの日にイベントを予定している。 この企画は、驚かせたいので二人には内証にして、友人のショボンにだけ打ち明けるつもりだ。 彼は口が軽いきらいがあるが、物事の分別が出来る人間だ。 秘密を守ってくれるだろう。 自分は配慮の出来る人間である! おお、さといさとい。 腰に両手を当てて、廊下をスキップで進む。 そして、リビングに入るとツンが居た。 彼の登場の仕方に驚愕して、ツンは丁度飲んでいたジュースを噴き出しそうになった。 このような人間と住むクーは大変に違いない。 彼女は、話し相手が欲しいと言っていたから丁度良いのかもしれないが、この場では邪魔である。 実はドクオなりに場を和まそうとしているのだが、知らないブーンは彼を羽交い絞めにして言う。 勿論、ドクオも一緒である。 踊り場には二階の案内図があった。 二階は一階よりも面積が狭く、病室が並んでいるようだ。 階段から南に向かって廊下が伸びていて、 突き当りを右へと曲がった先に、一階へと戻られる階段がある。 階段を下ると待合室がある。 三人は二階の構造を把握してから、階段を昇りきった。 右側には等間隔に窓が並んでいる。 窓の外は広いベランダとなっており、物干し竿が置かれている。 無論、現在は洗濯物はない。 ベランダは転落事故防止柵で囲われている。 ということは、飛び降りてはいけないのである。 ミセリがどこに居るのか分からないから、注意したまえお」 病室に入ってブーンは、ベッドが並ぶ様子を眺める。 多少は古めいているが、陳腐な病室である。 左右に二台ずつ、合計四台のベッドとテレビが置かれてある。 窓の向こうは灰色で、室内は薄暗い。 耳をそばだてれば雨の音。 ふと彼が腕時計を見ると、三時半だった。 夕暮れまでに解決しないと。 ブーン達は現在の病室を出て、他の病室も調べていく。 けれども、心の欠片は見付からない。 そのまま、三人は廊下が右に折れるところにまで到達した。 そこで、ブーン達はようやく記憶の欠片を見付ける。 病室側にある長椅子から出てきたのだった。 恐らく、これが最後の心の旅である。 一同は意識をうつほにして、微熱を放つそれに身を任せた。 外から激しい雨の音が聞こえる。 天候を写したかのように、彼女の表情は暗い。 いつも見舞いに来てくれる兄が来なかったからだ。 ミセリは耳を澄まして、雨音に紛れた微かな鼓動を聞く。 近い将来、確実に止まってしまう心の音。 彼女は気丈夫であるが、死の恐怖に耐えられるほど心が強くない。 誰だって、死は怖いものだ。 彼女がただじっと座っていると、病室の扉が開いた。 中から頭に包帯を巻いた少年が出てくる。 あとから、その少年の父親らしき人物と、金髪をくるくると巻いた妹らしい幼女が現われた。 この前に起きた電車事故と関係があるのだろうか。 ・・・身なりが良いので、早々にこの病院を退院し、きっと都会の大きな病院にでも転院するのだ。 でもまあ、その道の医師に頼んで地道に治せると思われる。 ミセリは少年の境遇を羨ましく思い、ため息を吐いた。 そんな彼女に、一人の看護士が近寄った。 それもそのはずで、彼女はキューの妹なのだ。 一卵性双生児である。 彼女は「よいしょ」と屈み、ミセリの細い手を取って顔を覗き込む。 毎日のように来てくれるもんねえ。 でも、今日は土砂降りの雨だからねえ。 やはり身長は低いけど。 彼女がなだめたが、ミセリは無言だ。 姉に似た名前を持つキュートは、どうしたものかと息を漏らして、ミセリの手を優しく握る。 兄妹は仲良くしないと。 そういう私は、姉とは仲が悪いけどねー』 キュートは愛嬌良くけらけらと笑う。 少しだけ表情を弛ませて、ミセリが口を開いた。 これが病気みたくうるさい姉でね。 姉はとある大会社の社長さんの邸に働きに出たんだけれど、 その邸が全焼してしまってね。 看護士はミセリの手を離して、ゆっくりと立ち上がった。 じゃあ私は仕事があるから、またねー』 そう言って、キュートはぱたぱたと去って行った。 一人残されたミセリは、中空を見つめる。 そこに大好きな兄の幻影が映る。 彼女は病に蝕まれた身体をかばって、徐に椅子から腰を上げた。 今日は兄が来ないのは仕方がない。 子供のように我が儘をしていないで、病室で眠っていよう。 ミセリは病室に戻ってベッドに寝転んだ。 激しい雨が降り続ける、ある夏の夕方のことだった。 あのころは空虚な日々を送っていて、ほとんど覚えていなかった。 ただ漠然とした中で、母親の死を悲しんでいたのだけは覚えている。 自分が殺したのと同様だから。 気付けば長椅子に座っているブーンに、デレとドクオが中腰になって心配そうに話しかけた。 デレとドクオも姿勢を正し、真っ直ぐに立った。 今は自分のことなどを考えている場合ではない。 彼は心を強く持って、足を動かせ始める。 それから、ブーン達は二階の病室をあらかた調べ終え、残すは一番奥にある病室だけとなった。 もうここしかないわけだけれど」 ブーンがドアノブを掴んで開けようとすると、デレが彼の腕を引っ張って、人差し指を立てた。 病室から話し声が聞こえたのだ。 誰かが会話をしている。 三人は扉から少しだけ顔を出して、病室の中に広がる光景を覗き見る。 私もお兄ちゃんと会えるとは思っていなかったよ」 ショボンがスツールに腰かけ、クリーム色のパジャマを着た少女がベッドで上半身を起こしている。 少女の背中には、弱々しく畳んだ黒い翼が生えている。 ショボンとミセリだ! 珍しく書店に彼が居ないなと思っていたら、この病院へと来ていたのだ。 どうして彼がここに居るのかは分からないが、これは僥倖である。 期せずして、目的が叶った。 兄妹は楽しそうに再会を祝っている。 上手く話を運べば、ミセリを鎮まらせることが出来るだろう。 君は向日葵が好きだった。 この異変は、もしや君の仕業なんじゃないかなと思った。 そして来てみれば、やはりミセリが居た。 僕は君の正体を知っているよ。 影なんだろう」 そうか。 昼前に見かけた花束を持ったショボンは、ミセリの墓参りに行く途中だったのだ。 妹の墓参りのついでにミセリと再開したのなら、彼の驚きは相当なものだったに違いない。 ブーンが部屋に踏み入れようとすると、ドクオが「もう少し待て」、と服の袖を引っ張った。 私が何者だか分かるんだ。 僕の友人も醒覚してね。 心当たりがある人は多いはず。 ショボンは身体を若干丸めて、顎に生えている無精ひげを掻いた。 次の言葉を考えているようだ。 ミセリはくすりと笑い、さすがはショボンの妹といったところか、兄の心を覚ったかのように話す。 ただのサブカルチャー好きだっただけさ」 大方のオタクはそう反論する。 とりあえず、病室の空気は極めて和やかで、割り込みやすそうである。 今なら入っても大丈夫だろう。 ブーンは扉を開けて、手を振り上げて大きな声を出して挨拶をする。 ブーンに緊張感などない。 彼はショボンの両肩をがっしと掴んで、反応に困っているミセリを見下ろした。 病的なほど華奢だ。 僕は内藤ホライゾンだお。 ショボンに、ブーンに対する数々の愚痴を聞かされているのである。 落とし穴に落とされたこと、級友に罵詈雑言を吐いたこと、放送室を乗っ取って自慢話をしたこと。 ろくな話ではない。 だが、その話は生気に満ち溢れており、入院生活を強いられていたミセリには、 とても楽しさを覚えたのだった。 ブーンは笑顔でうんうんと頷いて、ショボンの肩から手を離した。 自分という存在は、見ず知らずの病弱な人間さえも幸せにさせるのだ! 軽く絶頂に達しかけるがしかし、ブーンにはやることがある。 ミセリを鎮まらせなければならない。 ぱっと見たところ、彼女からはまったく殺気といったものを感じられない。 むしろ、友愛を感じる。 きっと、兄の成長した姿を見て安心しているのだ。 今回の事件は、支障なくことが運ばれそうだ。 ブーンは、ベッドの脇にあったスツールの脚を足先でかけて引き寄せて、それの上に腰を下ろした。 今朝方。 まだこの街に滞在している、とブーンは指を打ち鳴らした。 それにしても。 ブーンは隣に座るショボンに顔を向けて、にやにやと気持ちの悪い笑みを溢した。 ショボンもシスコンではないかお。 さっき、追憶で視たお。 ミセリは大切な家族だったんだよ。 ・・・・・・ああ。 こう言えば語弊があるかもしれないな。 いじらしいくらいに、ショボンはとても妹想いなのだ。 以前、妹のことを忘れてしまったと言っていたが、今の彼の様子から察するに嘘を吐いたのであろう。 同じ妹が好きな身として、ブーンは心から同情した。 もし、ツンが居なくなったら発狂してしまう。 「実に素晴らしい」。 そう言って、彼はショボンの丸まった背中を、右手で優しく撫でたのだった。 うんうん。 やめてくれ。 つまり、ミセリは僕と街で暮らす選択肢もあるんだ。 君の言葉を聞かせてくれないか」 鎮まってもなお、影として静ひつに街で暮らしているものは、デレの他に、クーやヒートが居る。 ミセリにもその方法が取れる。 ミセリはしばらくの間口を一文字にして考え込み、やがて微笑んだ。 また終わりがあって、始まりもある。 世界は廻る。 ・・・あのね。 お兄ちゃん。 私は、このままずっと安らかにこの世を去りたいの。 いつか彼が言っていた。 妹はツンに似ていて気丈だ、と。 正にその通りである。 ブーンは膝を叩いて、ミセリに指を向ける。 偉い! ツンにまでは及ばないが、ショボンは良い妹を持ったお」 今まで、ブーンは色んな影を見てきたが、ミセリみたいに生に執着していない人物は初めてだ。 この場合の鎮まらせる方法は至って簡単で、ショボンが旅立つ彼女を見守れば良いだけである。 ブーンが指を下ろすと、ミセリは口に手を添えて目尻を下げた。 兄の友人は、本当に面白い人だ。 兄がよく口にしていた、内藤さんにも会えて嬉しいです。 長くは生きられないと宣告された私は、花壇で誇らしげに咲く向日葵に憧れていました。 ・・・・・・私よりも、もっと不幸な人が居る事は知っています。 でも、口惜しかった」 「それでも」。 区切って、ミセリは息を吸った。 そして、茶色い眼球をショボンへと動かせた。 ・・・輪廻なんてないのかもしれない。 もしそうだとしても、そこへ向かう事こそ、死んだ人間の在るべき姿なんだと思うの」 歌うように言って、ミセリは視線を三人に戻した。 まるで上質の演劇を観覧しているようだった。 ここに大勢の観客は居ないが、拍手の音がする。 ブーンが手を叩いて、彼女を讃えているのだ。 ミセリは思慮深く、本当に具合良く熟成した人物である。 ブーンが、黙り込んでいるショボンへと視線を遣った。 彼は作務衣の深いかくしから扇子を出した。 きっと、感動して身体が熱くなってしまったのだろう。 彼は扇子を広げ、ぱたぱたと煽ぎ始めた。 君も黙っていないで、天国に旅立つミセリに言葉を贈りたまえお」 ショボンは煽ぐ手の動きを止めた。 まるで時間が止まったかのように、微かな動作すらしない。 しばらくして、ようやく彼の顎が動いた。 そうそう。 いつもの物分りの良さを示せば良いのだ。 何を子供みたく、愚かしい駄々をこねているのだ! 想定外な友人の言動に憤慨し、彼は目尻を吊り上げて睨み付けた。 だが、ショボンは淡々と言う。 今しがたも言ったように、影も人間と暮らせるんだよ。 ショボンは、彼女の決意をぶち壊しにする気なのか。 これでは、彼女が可哀想だ。 ブーンはショボンの腕を力強く掴んで、声を大にしてたしなめる。 そうして、壁に視線を遣って、誰も視界には入れずに語る。 不運にもミセリが死んでしまった夢をね。 だけど今日、漸く夢から目覚めてくれた。 妹が居ない悪夢から解放されたんだよ。 そんな時僕は、君達にだけじゃなく、 ミセリにも話し掛けていたんだ。 妹の幻を脳内に作って、話し掛けていたんだよ」 最後に語気を強めて、ショボンが言い終えた。 彼は妄想心を働かせ、妹に話しかけていたらしい。 須名邸のときも、都会に遊びに行ったときも、そしていついつのときも! 気が違っていやがる! ブーンは身震いをして唾を飲み込んだ。 その内に彼の怒気は弱まって行き、完全に悄然とする。 君の口は喋りたがっているお」 ブーンは顔面を手で覆った。 ショボンと付き合いの長いブーンは、彼の心など読みきっている。 頭痛を覚えるほどに承知している。 「ふう」と息を漏らし、ショボンは病室の隅へと視線を移した。 何一つ恐ろしい物が存在しない。 平然と罵詈雑言を吐いてしまい、危険だと分かり切っている場所へと足を踏み入れる・・・」 ショボンの飄々とした振る舞いは、そういう理由から成り立っていたのか。 夢を見ている彼は、 何にでも立ち向かえる、いわば無敵である。 たとえ、勝ち目の無い敵を前にしても立ち竦まない。 錯乱でも、狂気でもない。 そして、正気でもない。 ショボンは、空虚な世界に佇む人間である。 そこは感情の色が欠けた世界。 居ても立ってもいられず、デレはショボンに寄って両手を取った。 一ミリメートルも僕は優しくなんかない。 僕の家が貧しいのは知っているだろう。 だから、満足にミセリを療養出来なかった。 だって、あんなに二人は仲が良かったじゃない。 遠巻きに、或いは近くで見ていたブーンとショボンの友情は、あれは偽りだったのだろうか。 ショボンさんの辛辣な言葉群には、本心も含んでいたの!? デレは次の言葉を紡げなくなった。 彼が遊戯銃と説明したやつだ。 彼は銃把を右手で握る。 ブーンが以前に見たときと同様に、彼は自らのこめかみに銃口を押し当てた。 こうして、弾を一つだけ装填して、何度か自分の命を絶とうとしていた。 その度に失敗して来たけどね。 どうにも神様って奴は、僕を死なせたくないらしい。 息苦しく、ブーンは言葉を出せない。 十二月に自室に招いたとき、 あのときも死のうとしていたのだ。 カチリ。 トリガーが引かれた音が、ブーンの脳裏に鮮明に蘇る。 一歩間違えていれば、部屋が血で真紅に染まり、彼は友人の亡骸をみる破目になっていたのだ。 事故のとき、身を挺して庇ってくれた母親の身体がそうだった。 気持ちが悪い。 喉の奥が熱くなる。 このままブーンは、無様にも地面に吐瀉物をぶちまけてしまいそうになった。 嘔吐感を必死に堪えるブーンのことなど知らず、ショボンは銃を下ろして話を続けるのだった。 一人では心細いだろう。 ・・・何度も引き金を引いてやる。 必ずや死ねる。 その台詞は、ミセリへの脅迫ではないか! 是が非でもやめさせなければならない。 しかし、ブーンは口を開けない。 思考回路が狂っている。 とうとうブーンは耐え切れなくなり、椅子から転げ落ちてしまい、床に額を押しつけてむせぶ。 クーが父親から虐待を受けたことがおかしい。 ヒートがいじめられて死んだことがおかしい。 トソンが平穏に暮らせなかったことがおかしい。 そして、母親が亡くなったことがおかしい。 酷い言い合いをしていたが、楽しくやって来たではないか。 もう、これからは無理なのだろうか。 絶望に打ちひしがれるブーンは、涙で溢れた瞼を閉じた。 暗がりに、彼が望んでいる光景が映る。 脳裏に浮かんだ光景は、ショボンが鎮まり、ミセリが無事に来世へと旅立って行った世界である。 申し分のない、誰もが納得する幸せな結末。 母親を亡くしたブーンは、ハッピーエンドを望むのだ。 ・・・・・・。 ここで崩折れれば、全てが終わる。 ようやく意識が醒め始めたブーンは、片膝を立てた。 正視に耐えられなくなったその顔を上げて、ブーンは虚ろな瞳をしているショボンを睨み付ける。 二人の視線が絡まり合う。 ブーンは純潔な精神にて、女神アルテミスが持つ弓矢の切っ先が如く、鋭い指先を突き付ける。 僕の莫逆の交わりであるショボン! 君は悪霊にでもとり憑かれている。 その調子で、強引に納得させるんだ。 ブーン。 もしツンちゃんが死んで影として現われて、成仏させてくれと頼んで来たら、 君は受け入れる事が出来るかい? 無理だろう。 きっと、ブーンも出来やしない」 視線と視線。 指先と扇子。 それらは微動だにしない。 沈黙の中、ブーンはごくりと唾を飲み込んだ。 口腔内にこみ上げていた少量の胃液が流され、喉の奥が熱くなる。 もしもツンが影として蘇って、 「輪廻へと赴き、生まれ変わりたい」と言われれば、自分はそれを受け入れることが出来るのか。 ブーンは想いを巡らせて、腕で涙を拭った。 そして頭を横に小さく振り、雑念のない表情で答えた。 本当に、ブーンは調子が良いんだから。 ブーンもゆっくりと腕を下ろし、起き上がる。 病室内に張り巡らされていた、緊張の糸が解けた。 赤く目を腫らしたブーンが、スツールに座った。 ショボンの手に握られている拳銃を一瞥してから、彼はそっぽを向いて言い辛そうに命令をする。 ・・・分かったよ。 捨ててやる」 ショボンは、テレビが置かれている台に拳銃を置いた。 友人の命を脅かしていたものが、離れた。 安堵して、ブーンはミセリに顔を向けた。 二人を見守っていた彼女は、安心しきった表情である。 そう悪く思わないでやって下さい」 ミセリとブーンは、それぞれ肩を竦めた。 一時はどうなることかと思ったが、無事に収束しそうだ。 ブーンがショボンの肩を揺らせる。 ミセリに、妹にかけてあげなければならない言葉があるだろう。 人間とは、身体が立派に成長を遂げても、心は昔の面影を残すものである。 「さあて」。 ミセリがベッドの縁へと座った。 地面に下ろされた彼女の足は、ひどく痩せ細っている。 まだ起きたばかりで歩き難いから、お兄ちゃん、背負って欲しいの」 外から聞こえていた雨音が、途絶えた。 ブーンが窓へと目を向ければ、雲が橙色で染まっている。 ただ染まっているだけではなく、光り輝いてもいる。 神秘的で、絵本の世界へと沈んだかのようだ。 仕方がない」 ショボンがミセリを背中に抱いて、立ち上がった。 もうすぐ、ライゴウ兄妹は永遠に離れ離れになる。 顔が見られない。 声が聞けない。 こうして触れられない。 ショボンは意識が遠のいて行くのを感じた。 階段を昇った屋上への扉が、そう」 まるで天国への階段である。 心残りはないと言えば嘘になるが、ショボンは振り切ることにした。 馬鹿な行いはしたが、たった一人の妹なのだ。 彼女の願いを、聞き届けてあげなければならない。 まるで地に足が着いていないかのような感覚で、ショボンはミセリを背負って、病室をあとにした。 窓の外に広がる光景。 橙色に輝く空に、向日葵の花弁が舞っている。 一片一片、各々きらめく粒子の尾を引いて、蝶々のようにゆらゆらと舞い、空へと向かっている。 幻想的。 月並みな言葉で表現するとすれば、そうだ。 きっと、街では大騒ぎになっていることだろう。 ミセ;゚ー゚ リ「向日葵を見たかっただけだったんですけどね。 力の加減が分からなかったんです」 歩き慣れていないのと同様に、ミセリが力の加減を欠いて、街まで向日葵が咲かせてしまったのだ。 それでも、このような綺麗な風景の中で彼女が逝けるのならば、結果的に良かったのではないか。 実害はないし、三ヶ月もしたら街の住民も忘れてしまっているだろう。 ショボン達は廊下を歩く。 不良な兄で、すまなかった。 もっと、ミセリに何かしてあげられたかもしれない・・・。 上手く言葉に出来ない。 ともかく、僕はミセリが居てくれて、本当に良かった」 ショボンは廊下を進みながら、背中に居るミセリに話しかける。 出来るだけ沢山の自分の想いを、 去り行く妹に贈りたいのだ。 しかし、いざ事が運ぶとなると、上手に言葉を紡ぎ出せないでいる。 ため息を吐くショボンの後頭部に、ミセリは顔を押し付けた。 兄の匂い。 彼女は静かに、言う。 思うショボンだが、確実に終着点へと近付いている。 そうしていると、ふと先頭に立っているブーンが振り返った。 彼は後ろ向きに歩きながら、 ポケットからジュエルケースを取り出した。 事件の依頼料として、クーから渡されたものである。 これは彼女からの依頼料というわけだお。 でも、指輪なんていらないからあげるお。 是非とも君のものにしたまえ。 バレたら全く意味が無いじゃん。 ・・・ほら。 友人が持っているあれは、僕が買った物だ。 ミセリにプレゼントしよう」 ブーンはミセリへとジュエルケースを手渡した。 ケースを開けると、彼女の眼に赤い宝石が映る。 兄は、面白くて優しい友人を持っている。 ミセリは嫣然として、ショボンを強く抱きしめた。 ありがとう、お兄ちゃん」 廊下はいつまでも続くものではない。 無情にも、ショボン達は屋上への階段の前にたどり着いた。 たった十数段の階段を昇った先に、あの世へと繋がった扉があるのである。 ショボンは一歩を躊躇う。 彼女はふらつきながら階段の手すりを持った。 一段目に足を乗せる。 ショボンは、彼女の小さな背中を記憶に刻み込むように、じっと眺める。 階段の中ほどまで進んだミセリが振り向く。 だんだんと遠くなって行く彼女の後ろ姿。 とても寂しい色をしている。 やがて古錆びた屋上への扉の前までたどり着き、ミセリはショボン達に身体を向けた。 微笑んでいる。 見下ろせば、兄達が心配そうな視線を向けている。 彼女は頭を下げて、ショボン達に別れを告げる。 ありがとうございました。 開かれた隙間から、眩く白い光が差し込んでくる。 よって、彼女の顔が見えなくなる。 今、妹がどんな表情をしているのか、ショボンからは分からない。 ふとショボンは強烈な不安を覚えて、一歩を踏み出し、おぼろげなミセリを食い入るように見つめる。 十分だけ時間を戻せるみたい。 此処に来て、私はそれが使いたくて仕方が無い。 そこに立っていた時間に戻りたい。 そうして、また人間として生まれ変わるのです。 明日行き着く先が、悲劇だとしても。 運命から逃れてはいけません。 私は、お兄ちゃんとお友達の祝福を一身に背負って、天国へと旅立つのです。 だから」 ミセリはゆっくりと扉を開いていく。 扉の中から無量の光と、一陣の強い風が吹き込んだ。 ミセリの身体が、光へと溶け込んでいく。 もう、ミセリとは会えなんだ。 ショボンの脳裏に、妹と過ごした一瞬が浮かんでは消えていく。 無意識に、彼は大声で叫んだ。 ミセリはそう言い残して、現世を去った。 ショボンはその場で両膝を着いたのだった。 若干雲が晴れて、夕陽が差し込む中を、ブーン達を乗せた車が山道を走行している。 ドクオの運転はスムーズで、六時ごろにはビップの街へと着くだろう。 今日は心底疲れた一日だった。 朝食を作り、薬を買いに街へと下りて、邸へと戻った。 それから、事件を解決するために病院へと。 病院に着いてからは、院内探索をして、ショボンとミセリに出会った。 あとは友人にこけにされ、 それを鎮めて、最期に兄妹の別れに立ち会った。 うわあ・・・。 後部座席に座るブーンは肩を竦めた。 なにこの一日。 ちょっと最悪が過ぎるのではないか。 ブーンは、隣に居るショボンに話しかけた。 ミセリと別れてから、彼はすっかりと意気阻喪してしまっている。 それは当然のことだ。 世界でたった一人しかいない妹が、本当に居なくなってしまったのだから。 ブーンはフロントガラスへと目線を向けた。 今はもう、向日葵の花びらは舞い上がっていない。 彼の書店までは狭い道が入り組んでいるため、車が通れない。 ショボンは、何者だか分からない変な影に礼を述べて、車を降りた。 しかし、彼はドアを閉めない。 何をしているのだ、とブーンが眉を集めていると、ショボンが手招きをした。 お前、ちょっと来い。 僕に用事があるようだ。 ブーンは渋々と車を降りた。 そこまで胸中に寂寞が駆け巡っているのか。 ブーンが断ろうとするが、彼は真剣な眼差しをしている。 ブーンはため息を漏らして、ついに折れた。 十五分ほどここで待っているように車内のドクオに告げて、二人は狭い路地裏へと消えていった。 男同士で喋りたい事でもあるんだろう」 ブーンとショボンは夕刻の街を歩く。 店舗は店じまいをしていて、どこかから夕食の匂いが漂う。 人通りはなく、路地裏には寂寥感がある。 ショボンは歩きながら、肩を並べる友人に話しかけた。 ブーンには随分と失礼な事を言ってしまった。 もう君を馬鹿に出来ないね。 唇とつんと尖らせて、ブーンは表情を険しくさせた。 ショボンは押し黙る。 二人は黙して石畳の道に足音を鳴らして行き、ショボンの書店の前まで来た。 いつ見ても古臭い書店である。 元は普通の民家だったが、ショボンが一階を改築したのだった。 ・・・・・・もう、妙な気は起こすなお」 さすがにもう自殺は考えていないだろうが、廃院での一件を思い返して、一応ブーンが忠告をする。 後追い自殺なんてされたら目覚めが悪い。 ショボンは「ああ」と頷き、両開きの扉の鍵を開けた。 ブーンはひらひらと片手を振って、踵を返す。 すると、ショボンが彼の服を引っ張って呼び止めた。 莫逆の交わりとは、非常に親しい付き合いの事を言う。 君はそう思ってくれている。 あの時、とても嬉しくなってね。 例え、ツンちゃんの事を受け入れないと答えても、 許してしまうつもりだったんだよ。 あの時点で、僕はブーンに敗北を喫していた訳だ。 ・・・・・・大穴に落とされてから、君には負けっぱなしだ。 やれやれ。 ふっと気障に髪をかき上げて、ブーンは顎を上げる。 広量なところを見せ付ける場面である。 君は大河の如く心が広いって言っていたが、僕のほうが広いね! 君が大河なら、僕は地球規模だお。 いやいや。 あれだけの暴言を吐いてしまったのに、ブーンは許してくれている。 どちらが狭量なのかは、自明の理だ。 その点に於いても、僕は君に劣っている」 謝り続けるショボンに、ブーンの身体がむず痒くなって来る。 気持ち悪くて堪らないのだ。 いつも通りに辛辣な言葉を投げ付けるべきであるが、別にブーンはマゾヒストではない。 ショボンはねえ。 常日頃のように振る舞えば良い。 あまり君に持ち上げられると、全身をなめくじ共に這われているみたいだお!」 ショボンは幾ばくか表情を和らげた。 そして、ブーンの右手を取って握り拳を作らせる。 彼は不遜な性格をしているが、暴力は非常に嫌っている。 殴ると、当然に相手は苦痛な表情を浮かべる。 それが、自分を庇ってくれた母親の顔と重なるのだ。 もう同様なものは見たくない。 従って彼は、どれだけ辱められても、暴力は振るわない気概である。 しかしショボンは、真っ直ぐに眼を彼へと向けていて、殴られるまで帰さない意気込みである。 ・・・・・・絶対に殴らない。 ブーンは拳を握り締めて、乾ききって水分のない喉に空気を流し込んだ。 視界が真っ暗になる。 静寂の中に、ブーンが足を動かせる音が聞こえた。 これからブーンに殴られるのだ。 自分なりの贖罪である。 ブーンもきっと溜飲が下がるだろう。 ショボンが無意識に衝撃を待ち構える。 だがしかし、ふわりとした感触が彼の身体を包んだのだった。 もう馬鹿なことを考えないでくれ。 僕は君にまで死なれたら、気が狂いそうだお。 もしもショボンが居なくなれば、僕が街に下りる大半の意味を失くしてしまう」 ショボンはゆっくりと瞼を開いた。 すぐ目の前に、黒黒とした髪が生えたブーンの頭があった。 ブーンは殴り付けずに、ショボンを抱いたのだった。 さすがにブーンは男性を触りたくはないので、 身体を引き気味にだが。 それでも、親友を抱いたのである。 疲労困憊といった表情でブーンは言う。 たとえショボンが何と罵ったって、僕は君をずっと親友だと思っているお。 一度しか言わないから、よく聞きたまえお。 僅かに開いた雲間には、一番星が輝いていた。 公園でいい男を発見でもしたかのような、雄雄しい声である。 食堂で椅子に座るブーンの前に、ビーフシチューが盛られた皿が置かれている。 彼の好物なのだ。 時刻は十九時過ぎ。 内藤家では夕食の時間だ。 すっかりと快復した様子のツンが口を開く。 家事もなさってくれましたしね。 ツンが呆れる。 邸に帰ってきたときの兄はやつれた感じだったが、本当に疲れているのだろうか。 スプーンでシチューを一口だけ喉に流し込むと、彼女は手を休めてブーンに一瞥を遣った。 退治だなんて物騒な代物ではなかったが、 今までのどの事件よりも、神経をすり減らすものだった。 ブーンは水を飲んで人心地につく。 薬を飲んでじっくりと眠ったら、治りましたわ。 最後まで、ショボンは涙を見せなかった。 なんて強い男なのだろう! 彼は脆い所があるが、強い。 スプーンを置いて、ブーンは食事をしているツンの顔を眺める。 この世で無二の可愛い妹である。 だが、ブーンは無言のままである。 無言のままだった。 どれくらい喋らなかったかというと、二十一時になるまでそうしていたくらいだ。 テーブルには、ブーンの分だけ食器が残っている。 ブーンは両足を伸ばし、椅子の肘掛に手を置いて頬杖をついている。 ツンが発狂しそうな姿勢である。 不意に食堂が明るくなる。 浴室で身体を洗い終えたデレが、電気を点けたのだ。 彼女はパジャマ姿だ。 今日は一緒に寝ないのですの?」 眠たそうに目を擦るデレが、寂しげに訊ねる。 「その内に行くお」、とブーンはかすれた声で答えた。 彼女は頷いて、食堂から出て行った。 一人になったブーンは、リモコンを操作して食堂を暗くさせた。 しかし、すぐに電気が点いた。 忙しい照明である。 リビングで寛いでいたツンが、やって来たのだ。 彼女はブーンの前に座り、ブーンのだらしない姿勢に目を細める。 ため息を付いて、ツンが口を開く。 お兄様はご自由で良いですわね。 ・・・何か気に入らない事がおありなのですか?」 ツンはブーンを心配して様子を見に来たのだ。 けなげな妹。 ブーンは座り直して、話しかける。 私が先に死ねば、お兄様はそれはもう、ご自分の好き放題になさるでしょう。 死ねませんよ。 私はずっと生きて、お兄様を監視せねばなりません。 地球の為です」 きっと、風邪をひいてしまった自身を見て、心配をしてくれているのだ。 妙なところで繊細な兄だ。 ツンは目を開いて微笑んだ。 まだまだ彼女は、死の谷へとは向かえない。 兄の保護者をするのである。 ツンが作ってくれた料理を、捨てるわけにはいかん。 それから、腕を移動させて、窓を指差した。 窓が風に叩かれて、がたがたと音を立てている。 ブーンが腕を下ろし、静かな声を食堂に響かせた。 しばしの間、窓を開けて欲しいお」 兄の詩的な言葉に、ツンは鳥肌が立ったが、言われた通りに窓を開けた。 風がツンの前髪を撫でる。 ミセリが屋上の扉を開けたときに、吹き込んで来た風と似ている。 ブーンは深く頭を下げて唸った。 そうだ。 ショボンはあのとき、そう思ったから、泣かなかったのかもしれない。 彼は顔を上げた。 例え、妹を亡くして、悲しみに包まれたとしても。 ブーンはふと口を衝いて出て来た詩句を、風をその身に受けながら、口の裡で繰り返したのだった。

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移動のテーマ 作詞作品発浮ニレス

僕は君が好き焼けた肌にいい匂い別に塩の時でも好きさ 曲名

<Side-Tsukishima> 黒尾さんとケーキを食べにいった時に、そこでこの教育期間が終わるまでに、僕が黒尾さんさんを好きになるようアタックするぞと宣言された。 その後、少しだけ警戒していたけど、映画を観に行ったり話をしただけで、あまり際どいことを言われたり、されることはなかった。 社会人一年目なんて仕事以外にも色んな雑務があるから、気が付けばもう夏休み前だった。 ゴールデンウィークは帰省できなかったから、夏季休暇こそは絶対に帰ってこいと両親、兄ともに煩くて、僕もずっとごたごたが続いていたから故郷でのんびりと、黒尾さんのことを考えてみるのもいいかと思ったのだ。 夏休みめいいっぱい帰省することを告げたら、ちょっとだけ残念がられたけど、直ぐに「しっかり親御さんに元気な姿みせて安心させてこいよ」って快く送り出してくれた。 久々の実家で、あれやこれやと質問攻めになるのは覚悟していたけど、いい加減疲れた。 もう寝るからと言って、どんどん自室がある二階にあがってしまう。 ベッドに横になり、まず考えたのは黒尾さんのことだ。 誰かを好きになるってどういうことなんだろう。 家族への思いとはもちろん違う意味で、黒尾さんが僕のことを好きだって言ってくれた。 あの距離を取られた日々を思えば嫌われていたんじゃないことが分かってすごく嬉しかった。 僕だって黒尾さんのことは嫌いじゃない。 むしろ尊敬しているし頼りにもしている。 だからこの気持ちが、会社の先輩に対する憧れのようなものなのか、それとも恋愛対象なのか、それを僕は九月末までに答えを出さなければいけないのだ。 黒尾さんのことだから、お付き合いを断ったからと言って決してそのあと意地悪するとか低俗なことをしないだろうって信頼はしている。 でももう二度と一緒にケーキを食べに行ったり、映画を観に出掛けたり…あの腕に抱き込まれてドキドキしたり、とかはできなくなる。 僕は思い出していた。 黒尾さんの熱い体温、近くになった時だけ香る微かなコロンの香り。 僕を片手で安々と引き寄せる逞しく日に焼けた腕だとか……。 耳元に熱く囁かれた黒尾さんの声が鮮明に蘇る。 『月島、マジ好きだから』 ちょっと、なんでこんな時に思い出すの! だいたい、不意打ちとか反則だから! 周りに誰もいないというのに言い訳をして、その時キスされた頬が凄く熱い。 (もう、これ黒尾さんのせいだからね!)今はいない黒尾さんに向かって僕は八つ当たりのように文句を言った。 帰省してる間は、サイズがあった自室のベッドでぐっすり寝て、母親の手料理を食べて、ほんとうに久々にゆっくりした。 今思えば、夏休み中、一日くらい黒尾さんと会ってもよかったなと思うけど、正直ちょっと一人で考えたかった。 だってここまで本当に色んなことがあり過ぎたから。 夏休みが明けて少ししてから、黒尾さんのところに見慣れない人が訪ねてきた。 黒尾さんとは違うタイプだけど、女子から凄く人気がありそうな先輩社員でやけに黒尾さんと親しそうだ。 黒尾ちゃんとか呼んでるし。 おまけにニ人でこそこそ会議室に入ったかと思えば、例の案件とか僕に分からないことを言ってた。 その人が噂の及川さんだと聞いてからも、黒尾さんはぼーっとしてるみたいだし。 なんだろう。 黒尾さんのことで僕の知らない部分がまだまだたくさんあるんだとつくづく思う。 自分なんてまだこの会社に入って半年もたっていないから当然なんだけど。 そして教育期間も残すところあと一か月とちょっとになった。 そのくらいから、新人教育総まとめレポート作成に取り掛かることになる。 今まで教えてもらった内容の総まとめと、教育担当の教え方の長所短所、所属部署の教育体制、そして今後、社内でやっていくための目標と抱負をチャートにして役員を前に発表するのだ。 それとは別にトータル十頁前後三頁のレポートを提出する。 多くても飽きられるし短すぎるなんてもってのほかだとか。 僕も他の新人同様、レポートに取りかかったものの、早速つまずいてしまう。 締め切りは九月頭だから、もうそんなに残り日数がない。 僕は休日返上でレポート作成するつもりだったところに、救世主、黒尾さんが手伝ってくれるという。 そこで週末、黒尾さんの部屋にパソコンを持参してレポートの残りを作成することになった。 黒尾さんの部屋に上がらせてもらうのは、ミーコが居た時以来初めてだ。 変に意識しないように平静にふるまえるようにと、最初は緊張していた僕も、レポートに取りかかりだすと、もうそれどころではなかった。 さすがは新人レポート経験者かつ今の部署で主要業務をこなす黒尾さんにあちこち添削してもらって、どうやらまともな形になってきた。 その頃、僕はだいぶ黒尾さんに打ち解けた言葉遣いをするようになっていた。 その分、少しずつ距離が縮まっていく。 「あー、まさか会社に入ってまでレポート作成するとは思わなかった」 「これからまだまだあるぞー」 「えー、マジですか。 また黒尾さん手伝って」 「残念ながら、当サービスは新人レポートまでとなっております」 「そんな…」 例のタイムリミットまではあと少しなのに全然、それらしきことをしてこない黒尾さんの態度に少し疑問を感じて確かめたい気持ちがあったのかもしれない……。 と、今になれば言い訳になるけど、その時、僕はそんなに深く考えないで 「キスしてもいいですから」と黒尾さんに言ってしまったのだ。 途端にそれまで笑顔で僕の話を聞いてくれていた黒尾さんの表情が一転した。 「え……」と思った時には、僕の視界を、黒尾さんの怒っているような切羽詰まった顏が一面に覆ったかと思うとフローリングに押し倒されていた。 幸いその上に敷かれていたラグのおかげで痛みはなかったけど、ごつんと僕の後頭部と床が接触した音がした。 「んだよ、人がどんだけ我慢してるか知らねえくせに」 「……っ!」驚いて何も言い返せなかった。 黒尾さんは僕の顎を片手で掴むと、唇に噛み付いてきた。 いや違う、噛み付かれたんじゃない。 それは僕が経験したこともない、身体ごと心ごと持っていかれそうな激しい口付けだったのだ。 七月の徹夜明けの時にもキスされたけど、それとも比べ物にならなかった。 黒尾さんはこんなに激しい衝動を押さえ込んでいたのだ。 苦しくて息ができなくて、ただそれだけで黒尾さんから逃れようとする僕の身体は、黒尾さんに、ぎりぎりと締め上げられるように退路をたたれて、ますます激しくキスをされた。 どうしよう、僕のペースに合わせて、ゆっくりと待っていてくれた黒尾さんを怒らせてしまった。 まただ、どうして僕はこう反省しないんだろう。 ずっと掴まれている顎も痛いし、押さえ込まれた身体をはねのけようにもビクともしない。 圧倒的な力の差を見せつけられているようだった。 それよりも自分の軽率な言動に後悔の念が強くうかぶ。 その時だった、部屋がノックされる音とともに 「鉄朗ー、桃むいたから、後輩さんと一緒にどうぞ」と黒尾さんのお母さんの声が聞こえてきた。 黒尾さんは、その声ではっと我にかえったみたいだった。 床に張り付けられた僕を見下ろすと、「悪かった」と声をかけ、僕の唇の端を親指で拭ってくれた。 そしてその場から立ち上がると、部屋の入口に向かって歩いていく。 僕はのろのろと上半身を起こして黒尾さんの動きを見ていた。 黒尾さんは、ドアを少し開けてひと言ふた言、お母さんと会話してから、カットされた桃が乗ったお皿を持ってこちらに戻ってきた。 僕からだいぶ距離があるところで立ち止まると、もう一度 「ごめん」と謝ってくれた。 たぶん、僕から何か言わなければ黒尾さんはずっとその場にいるんじゃないか。 別に黒尾さんは悪くない、軽率なことを言った僕だって悪いんだから。 というか、そもそもこれって悪いことなの? 「…もも……」 「え?」 「桃、食べたい、です」 それまで固まっていた黒尾さんが、ほっとしながら近づいてくる。 そしてさっきよりかなり僕から離れた位置に座って、桃のお皿とフォークを僕に差し出してくれた。 黒尾さんのお母さんが差し入れてくれた桃は果汁たっぷりで甘くてすごく美味しかった…と思うんだけど、その時は、唇がまだぴりぴり痺れていて味があまりわからなかったのだ。 黒尾さんと無言で桃をもそもそと食べた。 黒尾さんのお母さんからのお夕飯も一緒にどうぞって有り難い申し出を断って、玄関先で黒尾さんに「今日はありがとうございました」と挨拶をして帰途についた。 黒尾さんの言葉を疑ってたわけじゃなかったけど、好きってこんなに激しい感情なんだ。 人を好きになったことがない僕に、果たして受け止めることができるんだろうか……。 でも今度こそ自分で答えを出すしかないんだから。 考えて…自分の気持ちに嘘をつかないで考え抜いて…そして…後悔のない選択をしよう。 大丈夫、黒尾さんは、僕のペースに合わせてくれる。 教育でそれは実証すみだったから。 [newpage] <Side-Kuroo> 月島と宙ぶらりんな関係のまま、既にカレンダーは九月。 鼻腔を金木犀の強烈な匂いが立ち込めて、秋の到来を五感でしる今日この頃だ。 あのうだるように暑かった日々も嘘みたいに、朝晩は涼しさを通り越して肌寒いと感じる日もある。 そんな寒さなんて、世の中のラブラブな恋人さんたちは、お互いの体温で互いを温めて感じないんだろうな……別に羨ましくなんかないけど! 羨ましくなんか、ないぞ! 断じて! …ああ、俺も月島と体温の交換なんて贅沢は言わないけど、もうちょっと踏み込んだ関係に進みたいところだ。 まだ月島からはっきりした返事はもらえてない。 嫌われていないことだけは確かだし、ゲイに嫌悪感がそれほどないみたいなのだが、元々そういったことに偏見がない感覚の持ち主なのかもしれない。 結局のところあいつの気持ちはさっぱり分からないままだ。 そんな月島とは、今まで三回キスした。 二回目は頬にだけど。 それも全部、俺から、ふいをついて半ばだまし討ちみたいに奪った。 でも自惚れてもいいかと思うくらい、嫌がられてないとは思うんだ。 なんたってあの月島が、無理やりキスしたあともこうして俺と二人で会うことを許してるんだから。 しかも、しかもだ! なんと今、俺ら二人はバスで移動中で最後尾座席に並んで座っている。 そこまでは別になんてことないのだが、なんとなんと月島の音楽プレーヤーから出たイヤホンの先は、俺の左耳と月島の右耳に一つずつ収まっている。 そうなのだ、イヤホン半分こで、同じ曲を聞いている。 今日は月島から誘われたデートなのだ。 と、俺は思ってる。 そりゃ可愛らしいお誘い言葉なんかはなかったんだけど。 この時期は半期締めで、俺らの部署は普段のルーチン業務に加えて上期決算の作業も追加になって更に忙しくなる。 まあどこの企業もそうだろうけど。 本日もきっちり働いて、定時後、人もまばらになった職場で、帰り支度を始めた俺に、月島が近づいてきた。 「黒尾さん、もし九月の第一土曜日が暇で、僕と出掛けてもいいかと思ったら、ほんと断ってくれて全然いいんですけど、……ライブ行きませんか」 「ライブ?」 「はい、このバンドなんですけど」と言いながら一枚のチラシを渡された。 それに目を通したが、以前、月島にアルバムを貸してもらったバンドとも違う。 残念ながら全く聞いたことのないバンドの単独ライブらしかった。 らしいというのは、なんだか字体すら独特で、これなんて読むんだ? これがバンド名なのか曲名なのかそれすら判別つかなかったからだ。 ドクロや薔薇のモチーフとかは印刷されてなかったから、ヘビメタやヴィジュアル系じゃないことだけは分かる。 「小さいライヴハウスでやるんで、もし行けそうなら僕の方でチケ取っちゃうんですが、興味なかったら、」 「行くよ」と月島の言葉をさえぎって答える。 「このバンドの曲、なんというか…凄く独特なんで」 「何時から? せっかくだからどっかで飯くってから行こうぜ」 「あ、えと十八時からです」 じゃあ決まり! となり本日こうして二人で出掛けている。 そう俺は、月島とのデートを楽しみに仕事も頑張れる、普通の男なのだ。 いくら長年、運動部主将を務めて精神鍛錬を余儀なくされてきた俺だって、たまにネガティブモードに入る時くらいある。 そんな時に限って、月島に塩対応をされようなものなら、傷付かないわけじゃない。 もちろん月島に悪気はないのだ。 この前だって、俺の部屋にきた時、必死で我慢している俺にむかって「キスしてもいいですから」なんて、「朝は目玉焼きでいいですから」くらいのノリで言われたら、さすがの黒尾さんも辛抱できなくなってしまったわけですよ。 あそこでお袋が桃もってこなかったらマジでヤバかったかもしれない。 実は、月島への感情に気付いてからも、この恋をなかったことにするにはどうしたらいいかと考えたこともある。 もちろん彼には言ってないが。 気合や勇気だけではどうしようもないもんがあるんだよな。 どんなにがんばっても、思い通りになることの方が少ない、それは分かってはいるけれど。 あれこれ人並み以上に器用にそつなくこなしてきた俺も、恋愛だけは一人じゃできないんだ。 世の中ままならないものがあるってことを、月島のお陰で知ることができたって感謝して、外面だけの先輩後輩に戻ってしまおうか。 幸いにもこの新人教育期間はあともう少しで終了だ。 九月が終わったら、教育係としてこの半年間分のまとめレポートを上司に提出して、それで俺の仕事は終わり。 もしかしたら俺らが手塩にかけて育てた月島は、あの憎ったらしい二枚目、及川が所属している部署にさらわれてしまうかもしれない。 いや、さらわれるは、おかしいか。 月島自身もそれを望んでいるなら。 俺とのやり取りで習得したこと、何か一つでも覚えていてくれて、あっちの部署では、先輩たちに生意気な口きくんじゃないぞ。 そんなふうに、頼れるいい先輩として月島を見送ってやれたら。 本当にそれができたら楽なのかもしれない…そうは思っても、月島に「黒尾さん」って呼ばれるだけで、こう心臓がきゅうっと痛くなるんだ。 月島に告白してから、一つ決めていることがある。 それは月島から迷惑だと言われたり、その意志が伝わったら、潔く身を引こうということだ。 俺は元々ゲイだから、この先、普通の家庭をもって…というのは多分、有り得ないけれど、月島は違う。 彼自身は否定しているが、可愛い奥さんと子供に囲まれてスーパーにベビーグッズの特売品を買いに行くイクメンに変身するスイッチがどこかに隠れているかもしれない。 オムツのサイズなんだっけ、ワイフに電話して確認しなきゃ…なんて悩む月島の姿を想像してみて、案外サマになってるな、なんて思いを巡らせていれば 「ちょっと黒尾さん、さっきからぼーっとして。 眠いんですか」 と、隣にいた月島に不審がられ声をかけられた。 そうだ、今、月島は俺の隣で一緒にお経のようなバンドの曲を聴いているのだ。 まあ今はこれで十分か、先ほどからのマイナス思考を払しょくするべく、少し大袈裟なくらい月島の肩を抱く。 「眠い訳ないじゃん、久々の月島とのデートだよ? ちょっとライブの予習してただけ」 月島は軽くため息をつくと、 「なら、いいですけど。 無理して付き合ってくれてるなら、別に…僕一人で行ってもいいので」 これだ、全くなんだって彼は時々可愛げのないことを言うんだろう。 好きな奴と一緒の空間で、そいつのお気に入りの音に触れてみたいって思うのに、あまつさえ帰ってもいいですよって……。 帰るわけないだろ。 「今夜のライブはちょっとマニアックな曲ばかりになりそうだから、黒尾さんが退屈したら申し訳ないので」 月島から続けて出た言葉で、月島の真意が分かって、ほっとした。 別に俺のことが邪魔だって訳じゃなくて、むしろ気を遣ってくれていたんだな。 月島の言い方どうこうじゃなく、彼の見た目で勝手に冷たくされたように勘違いしてた周囲の奴もいたのではと推測できる。 月島の容姿が整い過ぎているせいで本人が気付かないうちに誤解されていることがあったのかも。 当の本人は悪気なんてこれっぽっちもないから、周囲が自分から離れていくのをどこか諦めるようになったとしても不思議ではない。 だが、最初こそ彼の鉄壁ガードに阻まれていたが、その扉のほころびから少しずつその内側が垣間見られると、なんと純粋かつ熱いものを持っているか知ることができる。 俺はその扉を時々、開けてもらってたまに遊びに付き合ってもらえる通りすがりの旅芸人その一くらいか。 壁の向こうには冷めきった夜空の三日月。 そのお城の奥に眠れる王子さまは俺をパートナーとして未だ認めてくれそうもないけれど、もう少しだけこのままで。 そばに居られたらそれでいいから。 俺たちが行くライヴハウスは都内でも都会的な場所の一角に喧騒から切り離されたような位置にあった。 確かこの辺りを俺も何度か通ったことがあったが、月島に連れてきてもらわなければ絶対に見つからないような入り口だ。 そこには、当然のように大きな看板などもなかった。 なんとなく来るものを選らんでいるのか、自分がとても場違いな気がした。 最初、月島から独特な…と言われた通り、客層も普通のJロック系とは違っていた。 いかにものハードっぽい格好でもなくなんというか…共通点はないが皆それぞれ個性的というのが意味的に近いだろう。 流行を追うでもなく、個人が自分の趣味嗜好を尊重しているようだ。 俺なんかは普通にJポップや歌謡曲が好きだし、カラオケに行けば、歌詞を見ないでも歌えるくらいに、はまっているバンドもある。 飲み会に誘われるまま参加していた時には、うっとりと俺の歌声に聞き惚れる女子もいたほどだ。 もちろんお持ち帰りするとかそれ以上に発展したことは、社会人になってからは、ない…。 薄々感じている、月島とは住む世界が違うんじゃないかという事実を肌で感じとる。 タイムリミットが近付き、最近、たびたび弱気モードに突入する俺は、こんなことにも月島に拒絶されているように思ってしまう。 いやいや弱気な俺、今は出てくるな。 今こうして俺の隣にはチケットを手に順番待ちしている月島の綺麗な横顔がある。 整理番号はライヴハウスの収容人数の半分くらいだったが、俺らの身長でフロアの真ん中あたりに行けば後列の皆様はもれなく俺と月島の後頭部をライブ中延々見せられることになってしまうだろう。 もちろんこちらも金払ってる客なんだから、後ろの他人様のことなどお構い無く……って考え方もあるけどな。 月島はどうなんだろう。 好きなバンドのライブだしやはり近くで見たい気持ちが優先するのだろうか。 今夜は全て彼に主導権を渡してある。 どのライヴハウスもそうなのかワンドリンク制で、入り口で購入したコインを持って、彼は最初にドリンク引き換え場所のバーに向かう。 「黒尾さん、なに飲みますか?」 「んー、そうだな。 せっかくだから酒飲んでもいい?」 「どうぞ。 別に僕にお伺いたてることでもないデショ」 「そ? んじゃビールにしよ。 月島は?」 「僕は水にしときます」 ああ、やっぱり、そうだと思った。 これすぐそこのコンビニで120円で売ってるよな、高い水だなんて月島はおもわねーのかな。 ニヤニヤしている俺に怪訝そうな顔で「なんですか」と聞いてくる。 「いや、別に」 「……別にいいですけど。 途中でトイレに行きたいって騒いでも僕、知りませんからね」 「へいへい」 何気ない会話も嬉しいんだ。 あとどれくらいこうして二人で話していられるんだろう。 そんな気持ち、お前にはわかんないだろうな。 ビールの入ったプラカップを片手に月島に続いて会場に入る。 当然のように最後列に向かう彼は、勝手知ったる、といった風にいつもの定位置なのかと思われる場所にすすんだ。 月島以外にも、このタイミングで最後列あたりに、ちらほら人影がある。 皆、同じようなスタンスでこのライブに臨もうとしているのか単に人混みを避けよいとしているのか。 「ここでいいですか?」 「もちろん」 せっかくだから前の方に陣取ろうという気持ちはこれっぽっちもないのか。 月島はステージ上のアンプの位置を見て、それからペットボトルの蓋を開けて水をコクりと飲み込む。 そのそらせた顎から首もとのラインがめちゃ色っぽいんだけど。 それ、わざと俺に見せつけてるわけじゃないよな。 俺が手元のビールに口をつけようとしたときに、月島の影で見えなかったがいきなり女性の声が聞こえてきた。 「あれ? もしかして月島君? やだ久しぶり!」 「あ、なるみ先輩、ご無沙汰してます」 「うわー、ほんと偶然! 相変わらず憎らしいほどイケメンね」 「先輩も、相変わらずみたいですね「 「ちょっとー、それどういう意味よ」 その彼女は、右手でグーを作ると、軽く月島にパンチを入れている。 パツンと前髪を切りそろえて、胸元でリボン結びのワンピースを着たお人形みたいな恰好だ。 きっとたぶん可愛い部類に入るんだろう。 俺には月島の方が可愛いと思うけど。 「お元気そうで。 今日はお一人なんですか」 まさかこんな(失礼)ところで月島の知り合いに会うとは。 しかも下の名前で先輩呼びとか、かなり親しそうにみえる。 「ちょっと! 人を寂しき、お一人様扱いしないでくれる? 今日のライブ何人かに声かけたのに誰も一緒にきてくれないのよー」 「……ですよね。 ちょっと聞く人を選ぶというか」 そこでやっと、その先輩女子が俺の存在に気付いたようで 「ごめんなさい、私、月島君と大学時代同じゼミで。 久しぶりに会ったものだから」ぺこりと頭を下げてきた彼女の手にはやはりミネラルウォーターのボトルが握られている。 すると月島が俺のことを「こちら黒尾さん、……僕の勤め先の先輩です」と紹介してくれた。 俺は「こんばんわ」と見事な営業スマイルをひとつ。 彼女の方も、俺に負けないくらいの笑顔で 「はじめまして。 いつも月島君がお世話になってます。 この子ご迷惑かけてないですか?」 「ちょっと、なるみ先輩。 僕、子供じゃないんですから」 「えー、せっかくだから職場の先輩にアピールしといてあげようっていう親心じゃないの」 最初の印象通り二人は余程、親しいようだ。 言い合いをしているようにみえて心を許し合ってる者同士にしか出せない雰囲気があった。 それもそうだ、このハードル高めのライブに自らすすんで出掛けて来ようってくらい音楽に関する趣味もあうんだろう。 「月島君、ちょっと生意気なこと言うかもしれないけど悪気はないんですよ」 「はは、俺も最初は正直ちょっと驚きましたね」 「やっぱりー! その実は負けず嫌いで、なかなか頑張り屋さんだったりするんですよ」 「…ですね」 「ちょっと! ニ人ともそれ本人の前で言う話じゃないでしょ」 彼女はケラケラと楽しそうに笑いながら、月島のことを俺に語ってくれた。 でもね、なるみ先輩、貴女にそんなこと言われなくなって知ってますよ、うちの月島はやればできる子だから。 なかなか頑張り屋なのだって知ってるし。 それにね、打ちとけたら我儘言ってきたりとか可愛い奴なんですよ。 ほんとは、そうその先輩に言い返したかった。 先輩が月島のことをあの性格も含めて心配していて、親心からくる言葉なのはわかっても、それを非常に疎ましく思ってしまった。 俺が知らない学生時代の月島……今よりも幼い彼を想像してみるがいまひとつ明確化しない。 きっとまた別の魅力的なところがあったんだろうな……会ってみたかったな。 なんの罪もない先輩にイラついた挙げ句、無い物ねだりとか俺は自分の心の狭さを痛感する。 こと月島に関しては勝手がちがうんだ。 暫くすると照明が落ち、きゃーという歓声もないままそのライブは始まった。 月島が心配してくれたように、どうにもこの曲の意味が分からない。 そもそもこれ歌なんだろうか。 だが、そんな俺をよそに、当然のように隣にいる先輩と、イントロ部分(と思われる)が流れるたびに顏を見合わせ、アイコンタクトを取っている。 月島の隣で、どうしたってこのバンドのリズムに乗れない俺は疎外感はんぱない。 あーあ、こんなことなら月島の提案通り別行動してた方がいくぶんかマシだったかも。 手持無沙汰でビールを一気にあおる。 時間にしたらどれくらいだったんだろう。 俺にとっては、地獄のように長かったが、案外30分もたってないかもしれない。 一度、バンドメンバーが袖にはけて照明が明るくなった。 いよいよアンコールがあって多分、それで終わりだ。 会場内もざわざわとしだした。 もう一度、照明が暗くなるその前に、俺は月島の肩に手を置いて耳元に口を近づけると 「俺、やっぱ我慢できなくなったから、トイレ」 「っ!…あ、はい」 余韻に浸っていたのか、彼を驚かせてしまったみたいだ。 少し申し訳なく思いながら、人混みの間をすり抜けて会場から出て、用を足した。 直ぐに戻ればアンコールに間に合うだろうが、俺はもう、先輩と一緒にいる月島のもとに戻る気になれず、ロビーで二人が出てくるのを待つことにした。 そこそこ酒の種類も豊富なライヴハウス内のバーカウンターに近づくと、今度はアルコール度数高めの酒を続けて二杯注文して、一気に飲み干した。 なんだか飲みたい気分だった。 会場からは、相変わらず俺には理解できない音楽が、こもった音質で漏れ聞こえてくる。 10分くらいで終わりかと思っていた俺の予想に反し、なんかこれ、アンコールめちゃくちゃ長くねえか。 下手したら最初の方と同じくらいかもしれない。 もしかして、あのタイミングで照明ついたのはアンコールじゃなくて休憩だったのか? ……でももういっか。 だいぶ酒も入ってその場から動くのも億劫だったし、それに、最初から月島は、俺が居なくてもいいって言ってたもんな。 しばらくして、音が聞こえなくなったと思ったら、がやがやと出口から人が出てきた。 どうやらいつのまにかライブ自体が終わったようで、俺は月島と彼女が出てくるのをロビーの椅子に座りながら待っていた。 すると俺の姿に気づかないまま、二人が楽しそうに話しをしながら並んで歩いてきた。 何やら先輩に言われた月島は、言い返そうとして屈みこんで、それを先輩がバッグを盾に阻止している。 ずっと考えたくなかったから意識しないようにしていたが、もう限界だった。 月島と彼女は実にお似合いの二人だった。 別に彼女がほんとうに月島と付き合っていると思ったわけじゃない。 ただ月島が女性といる未来の可能性を見せられて、俺のいる方に彼を引き込むべきじゃないと思ったのだ。 俺は傲慢にも、月島のパートナーは俺ぐらいじゃないと務まらないのではという自負が秘かにあった。 ところが彼は根っからの弟気質で、年上に可愛がられる天性の魅力がある。 (なんだ。 月島、俺じゃなくても上手くやれてんじゃん) とまあ色々と総合的に判断すれば、将来有望な月島くんから手を引くのが先輩の親心という結論に達したのだ。 俺はロビーの椅子から立ち上がると、そのままライブハウスの外に出た。 なんと天気予報は大ハズレ。 かなりの勢いで雨が降っていた。 もうどうにでもなれとヤケクソ気味に傘も買わず少し歩みを進めて屋根のある下にくると、月島に 【悪い、少し酔ったから先に帰る。 また来週、会社で】 とそれだけメッセージを送ると、既読マークも確認せずスマホの電源を落とした。 「雨あめ降れふれ、もっと降れ……か」 月島が絶対に知らない、かつ口ずさんだりしないであろう、ひと昔まえの演歌のフレーズが自然に出る。 これもそれも、俺が小さい頃からカラオケに連れ回したお袋のせいだ。 おかげで昭和歌謡もバッチリだから、社会人になってから職場の飲み会では何かと重宝されてきたけど。 気付けば、行きに見かけた公園まで戻っていた。 雨除けにもならない藤棚の下のベンチで空を見上げても雨空は月を隠して、グレーな雲が広がるばかり。 なんだかムシャクシャして 「あー、月も出てないし! 月島が遠いぜーっ」 流石に大声は出せないけど、心の声を今は見えない月にむかって呟いた。 その途端、どんっと背中に衝撃があり、意表をつかれた俺は心底驚き、よろけそうになった。 更にうしろから聞こえてきた声に俺の心臓がはね上がる。 「遠くなんかないしっ! 黒尾さんの馬鹿!」 背後から俺の背中にしがみつきながら、耳元で叫んできた。 「……月島…」 「これで近いデショ!」 急いで走って追いかけてきたのか、息を整わず、首筋に彼の温かい息が掛かる。 「なんで、一人で帰っちゃうんですか、酷くないですか!」 「……先輩と久々に会ったんじゃないのか」 お似合いだったぞ、とかそんなことは言ってやらない。 せめてものプライドだ。 「…先輩は…、彼女と待ち合わせしてるからいいんですよ」 おいおい月島くん、言い間違えてるよ。 「彼氏、だろ」 「いえ、彼女、です。 先輩、ぼくらと同じです」 え、ええええ、今、ちょっと色々と聞き捨てならないことのオンパレードだったんだけど! しかし月島が、がしっと俺の服を掴んでいるせいでどんなに首を回しても表情を見ることができない。 「ちょっと、それどういう意味?」 「……」 月島からは返事がない。 「月島、顏みて話したいから、手離して」 「やだ、です」 敬語と入り混じってるし。 「おーい、月島ー、蛍ちゃーん! 頼むから、な?」 再三に渡る俺からの頼みを無視できないと思ったのか、シャツを掴む手の力が徐々に抜けて行っているのが分かった。 俺はやっと振り返って、月島の姿を確認することができた。 その肩を両手で掴んで無理やり目を合わせる。 「同じって、どういうこと?」 「……先輩、同性が恋愛対象で、それを大学時代も公言していて。 ちゃんと年上の彼女さんもいたし」 マジか。 俺と同類だったってこと。 「先輩のことはとりあえずいいんですよ。 黒尾さんはまた僕を置いてきぼりにするし」 「ごめん」 「許さない、です」 身長は変わらないのに上目遣いに俺を見上げてくる。 月島も傘をささずにここまで来たんだろう。 雨に濡れているというのに頬は上気していつもより赤みを帯びている。 もうここまでくると月島の言いたいことが分かるが、俺の独りよがりでないことをやはり確かめたい。 「ねえ、ちゃんと言葉で欲しい」 「……」 「月島、俺と付き合ってくれんの? 俺でいいの?」 「駄目なんです」 「えええ」 「僕は、黒尾さんじゃなきゃ駄目、って分かったんです」 ああああっ! もおおおっ! これって告白の定番の台詞じゃねーの! 月島は完璧に俺の心臓を殺しにかかってるのか。 ああ、ほんとに、雨が私のいいひと連れてキターっ!(ちなみにこれさっき口ずさんだ演歌の続きだから) 俺はさっきまでのマイナスからのふり幅が大きすぎて気持ちの整理ができないくらい興奮していた。 もうここがどこだって構わない、月島を心ごと身体中の骨がきしむくらい抱きしめたかった。 でも俺たちは社会人、生きていくには世間体も大事なひとつだから。 「今夜、帰さねーから。 それでいいかってもう聞かないからな」 「……はい」 消え入りそうな月島の声。 でもはっきりと聞こえた了承を意味する言葉。 もう本当はその場からお姫さま抱っこして永遠に続く波打ち際を走っていきたいけど、残念ながらここに海はないし波の音も聞こえない。 店舗が続く道を歩いていくと住宅街に入る手前あたり小さなホテルの入り口があった。 ラブホではなく普通のビジネスホテルだったからフロントで今日の空き部屋があることを確認した。 幸いにもすぐツインの部屋に入れるという。 飲み屋も多いこのあたりでは急に男二人で宿泊しても珍しくもないだろう。 しかも今夜はにわか雨だ。 雨具を持たずに出掛けた、俺たちみたいな客もいるはずだ。 眠そうなフロント係に指示されるまま宿帳にサインしながら、俺の頭の中はもう月島を抱くことしか考えられなかった。 続きます….

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