天 の 原 ふり さけ 見れ ば 春日 なる 三笠 の 山 に 出 で し 月 かも。 百人一首の有名な代表作和歌20首!藤原定家選の小倉百人一首について

覚えておきたい俳句・短歌

天 の 原 ふり さけ 見れ ば 春日 なる 三笠 の 山 に 出 で し 月 かも

そして、「明州 めいしゅう 」というところの海辺で、現地の人が送別会をしてくれた。 夜になって、月がひじょうに明るくさしのぼったのを見て、よんだ和歌だと語り伝えられていることです。 振り向いて広々とした大空を見わたすと、そこには夜空にかかる月、あれは、春日にある三笠の山にのぼった月なのだなあ。 四段活用・上二段活用・下二段活用の動詞がたくさんある そのほかの動詞は「」でご確認ください。 接続助詞「ば」については「」にくわしくまとめました。 助動詞のくわしい解説は「」をご覧ください。 唐土 もろこし にて月を見て、よみける 訳)中国で月を見て、よんだ歌。 この歌は、昔、仲麿を、唐土 もろこし に物 もの 習 なら はしに遣 つか はしたりけるに、数多 あまた の年を経 へ て、え帰りまうで来 こ ざりけるを、この国より又使 つかひ まかり至りけるにたぐひて、まうで来 き なむとて出 い で立ちけるに、明州 めいしゅう と言ふ所の海辺にて、かの国の人、餞別 むまのはなむけ しけり。 夜に成りて、月のいと面白くさし出でたりけるを見て、よめるとなむ語り伝ふる 訳)この歌は次のような次第でよまれた和歌である。 そして、「明州」というところの海辺で、あの国 中国のこと の人が送別会をしてくれた。 夜になって、月がひじょうに明るくさしのぼったのを見て、よんだ和歌だと語り伝えられていることですよ。 たかまがはら。 平城京の東方にある丘陵地帯。 ) みかさやま【三笠山】 奈良市、春日大社のうしろの山。 笠を伏せたような円錐形の山であるゆえにその名がある。 平城京の真東(まひがし)にあたるために印象深く、中国に渡った阿部仲麿が「あまの原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」(古今集・羇旅、百人一首)とよんだのも、いわば当然であった。 生まれた年を大宝 たいほう 元年 701 とする説もあります。 養老 ようろう 元年 717 、遣唐留学生として唐 とう (いまの中国)にわたります。 朝衡 ちょうこう という中国名を名のって、 玄宗皇帝 げんそうこうてい に仕え、 李白 りはく や 王維 おうい などの詩人たちと交流しました。 天平勝宝 てんぴょうしょうほう 5年 753 、遣唐大使 けんとうたいし 藤原清河 ふじわらのきよかわ とともに帰国しようとしたが、暴風にあって漂流し、唐に引き返しました。 けっきょく、日本に帰ることはできず、唐で没しました。 遣唐使 けんとうし 遣唐使は中国大陸の文化や政治を学ぶために派遣されました。 派遣はぜんぶあわせて十数回におよびました。 一度に派遣する人数は、多いときで500人ほど。 これを4隻の船にわけます。 4隻の船にはそれぞれ、大使・副使・判官 じょう ・主典 さかん が分乗したので、「よつのふね」とも呼ばれます。 廃止されたのは寛平 かんぴょう 6年 894。 唐で戦乱がつづき、情勢が不安定になったことが原因です。 の提案によって廃止が決まりました。 日本史語呂合わせ:遣唐使廃止(白紙にもどそう遣唐使) 唐(618~907年) 唐は618年、李淵 りえん によって建国されました。 首都 長安 ちょうあん (現在の西安)は、東西対称の碁盤の目のような区画で街が作られており、そのほかの東アジアの国々の首都のモデルになりました。 平城京や平安京も長安の作りにならっています。 長安は、まわりのさまざまな国々から留学生や商人がおとずれる国際都市でした。 彼らは唐の国の仕組みや文化などを自分の国に持ち帰り伝えました。 阿倍仲麻呂も玄宗皇帝の時代に中国の政治制度を学んだ一人でしたが、帰国することはできませんでした。 唐の二つの安定期 唐の国内政治が安定して、特に強い国力を持っていた安定期が二つあります。 貞観の治 じょうがんのち と開元の治 かいげんのち です。 唐の中央官制「三省六部」 李世民と、その臣下の者たちが交わした政治論をまとめた書物が、『貞観政要』 じょうがんせいよう です。 これは日本にも伝わり、特に愛読したのが 徳川家康 とくがわいえやす です。 家康は学問好きで知られ、『貞観政要』を愛読書とするだけでなく、自ら出版もしました。 くわしくは「印刷博物館」のHPをご覧ください。 () 『貞観政要』を読んでみたい方は『新釈漢文大系』をご覧ください。 玄宗皇帝の開元の治 713~741年 唐の第6代皇帝、玄宗の時代はひじょうに安定した政治だったので、「開元の治」 かいげんのち と呼ばれています。 しかし、治世の後半は 楊貴妃 ようきひ を寵愛 ちょうあい したことで政治が乱れてしまいました。 玄宗の時代に対処しなければならない一番の問題は異民族でした。 そこで導入されたのが、募兵制 ぼへいせい と呼ばれる傭兵 ようへい 制度です。 傭兵とはお金で兵士を雇うことです。 そして、それらの傭兵をたばねる 節度使 せつどし と呼ばれる指揮官を設置しました。 節度使は首都から離れた辺境地域に散らばって、警備の任務にあたりました。 最初に設置されたのは10か所です。 玄宗の治世の最初の40年ほどは、これらの政策がうまくいき、国内の情勢は安定していました。 安史 あんし の乱(755~763) 楊貴妃はもともと玄宗の皇子の妃でしたが、玄宗が楊貴妃を見初めて、745年頃、自分の貴妃としました。 玄宗は楊貴妃に夢中になって政治をおろそかにするようになります。 また、楊貴妃のいとこにあたる楊国忠 ようこくちゅう を、皇帝の補佐役である宰相 さいしょう に任命して優遇しました。 そのような玄宗の政治に不満を持ったのが節度使の 安禄山 あんろくざん でした。 安禄山は節度使を3つも兼任するほどの実力者でしたが、楊国忠との権力争いにやぶれ、 史思明 ししめい とともに兵を挙げます。 長安は反乱軍に占領され、玄宗と楊貴妃らは逃げましたが、逃げる途中で、楊貴妃は戦乱の原因になったという理由で楊国忠とともに処刑されました。 唐は反乱の鎮圧に苦労し、ウイグルの協力を得てようやくおさめましたが、国の力はおとろえてしまいました。 反乱の指導者である安禄山と史思明の、二人の頭文字を取って「安史の乱」と言います。

次の

薄田泣菫 無学なお月様

天 の 原 ふり さけ 見れ ば 春日 なる 三笠 の 山 に 出 で し 月 かも

【2001年1月10日配信】[No. 本年も弊社をよろしくお引 き立てのほど、お願い申し上げます。 取り札には下の句しか書かれていないので、 運動神経の良い子供さんより、歌に慣れ親しんでいるおばあさん の方が取る数が多いなどということもしばしば。 老若男女みんな に好まれるのも頷けますね。 中でも安倍仲麿のこの歌は、歴史の教科書にもよく引用され、 子供でもよく知っている有名な歌です。 あの月は 奈良の春日にある、三笠山に昇っていたのと同じ月なのだなあ。 「原」は、「海原」と同じく、大きく広がってい る様子を表す時に使われます。 【ふりさけ見れば】 遠くを眺めれば、という意味。 「ふりさけ見る」の已然形に、確 定条件を表す接続助詞「ば」がついたものです。 【春日なる】 現在の奈良市春日野町あたりの土地で、奈良公園から春日大社ま での土地。 遣唐使の出発に際しては、春日神社で旅の無事を祈った といわれます。 【三笠の山】 春日大社後方、春日山原始林の手前にある山。 若草山と高円(た かまど)山の間にあります。 御笠山とも御蓋山とも書きます。 【出(い)でし月かも】 「かも」は奈良時代に使われた詠嘆の終助詞です。 かつて見た三 笠山の上に昇る月を表しながら、唐の地で今見ている月を重ねてい ます。 698〜770) 19歳の頃、遣唐使として中国の唐へ渡った留学生の一人。 時の玄 宗皇帝に気に入られ、中国名「朝衡(ちょうこう)」として50年以 上仕えた。 一度帰国を許されたが、途中で船が難破して引き返し、 結局帰れぬまま唐の地で没す。 盛唐の大詩人である李白や王維とも 親交があった。 しかし、あまりに気に入られたため、日本 に帰ることを許してもらえませんでした。 唐にいて望郷の思いがつのる仲麿でしたが、30年を経てようやく 帰国を許され、明州(現在の寧波(ニンポー)市)で送別の宴が催 された時に詠まれたのが、この歌でした。 あの月は、遠い昔、遣唐使に 出かける時に祈りを捧げた春日大社のある三笠山に昇っているのと 同じ月なのだ。 ようやく帰れるのだなあ。 仲麿の思いもかくやですが、残念ながら 船は難破し、結局戻った中国で54年暮らして、72歳でその生涯を閉 じます。 仲麿が逝去した時は、あの中国の大詩人・李白も悲しみ、 「晁卿衡(ちょうけいこう。 仲麿のこと)を哭す」という詩を作っ ています。 奈良駅から表参道を上り、興福寺や東大寺大仏殿など、数 多くの観光スポットをたどりながら歩くと到着するのが、春日大社 です。 三笠山は春日大社の後方にある標高283mの山。 万葉の舞台と なった古(いにしえ)の名勝です。 お正月の初詣に、一度は訪れてみたい場所ではないでしょうか。

次の

薄田泣菫 無学なお月様

天 の 原 ふり さけ 見れ ば 春日 なる 三笠 の 山 に 出 で し 月 かも

【2001年1月10日配信】[No. 本年も弊社をよろしくお引 き立てのほど、お願い申し上げます。 取り札には下の句しか書かれていないので、 運動神経の良い子供さんより、歌に慣れ親しんでいるおばあさん の方が取る数が多いなどということもしばしば。 老若男女みんな に好まれるのも頷けますね。 中でも安倍仲麿のこの歌は、歴史の教科書にもよく引用され、 子供でもよく知っている有名な歌です。 あの月は 奈良の春日にある、三笠山に昇っていたのと同じ月なのだなあ。 「原」は、「海原」と同じく、大きく広がってい る様子を表す時に使われます。 【ふりさけ見れば】 遠くを眺めれば、という意味。 「ふりさけ見る」の已然形に、確 定条件を表す接続助詞「ば」がついたものです。 【春日なる】 現在の奈良市春日野町あたりの土地で、奈良公園から春日大社ま での土地。 遣唐使の出発に際しては、春日神社で旅の無事を祈った といわれます。 【三笠の山】 春日大社後方、春日山原始林の手前にある山。 若草山と高円(た かまど)山の間にあります。 御笠山とも御蓋山とも書きます。 【出(い)でし月かも】 「かも」は奈良時代に使われた詠嘆の終助詞です。 かつて見た三 笠山の上に昇る月を表しながら、唐の地で今見ている月を重ねてい ます。 698〜770) 19歳の頃、遣唐使として中国の唐へ渡った留学生の一人。 時の玄 宗皇帝に気に入られ、中国名「朝衡(ちょうこう)」として50年以 上仕えた。 一度帰国を許されたが、途中で船が難破して引き返し、 結局帰れぬまま唐の地で没す。 盛唐の大詩人である李白や王維とも 親交があった。 しかし、あまりに気に入られたため、日本 に帰ることを許してもらえませんでした。 唐にいて望郷の思いがつのる仲麿でしたが、30年を経てようやく 帰国を許され、明州(現在の寧波(ニンポー)市)で送別の宴が催 された時に詠まれたのが、この歌でした。 あの月は、遠い昔、遣唐使に 出かける時に祈りを捧げた春日大社のある三笠山に昇っているのと 同じ月なのだ。 ようやく帰れるのだなあ。 仲麿の思いもかくやですが、残念ながら 船は難破し、結局戻った中国で54年暮らして、72歳でその生涯を閉 じます。 仲麿が逝去した時は、あの中国の大詩人・李白も悲しみ、 「晁卿衡(ちょうけいこう。 仲麿のこと)を哭す」という詩を作っ ています。 奈良駅から表参道を上り、興福寺や東大寺大仏殿など、数 多くの観光スポットをたどりながら歩くと到着するのが、春日大社 です。 三笠山は春日大社の後方にある標高283mの山。 万葉の舞台と なった古(いにしえ)の名勝です。 お正月の初詣に、一度は訪れてみたい場所ではないでしょうか。

次の