家族 の 絆 エッセイ。 家族写真の魔法|WAVE出版

親子で話そう!家族のきずな・我が家のルール~三行詩優秀作品発表

家族 の 絆 エッセイ

> > >名エッセイの書き出しには、5つのパターンがあった 名エッセイの書き出しには、 5つのパターンがあった エッセイは基本的にはどんな書き出しでもかまわないのですが、読み手の関心を引き寄せるにはいくつかのパターンがあります。 マンネリにならないためにも、それらを知っておくのは無駄なことではありません。 自分の体験の実写 まずは具体的なエピソードから入るもので、最も書きやすくポピュラーな方法です。 先日、だれだれと会ったとか、昔こういうことがあった、というようなことで、読み手もすんなりと内容に入りやすいでしょう。 ただし、ただ事実をそのまま書けばよいというわけではありません。 ミステリー小説の冒頭と同じように、読者に、「何のことだろう」、「おもしろそうだ」、「その先が知りたい」というような気持ちを抱かせるように、表現を工夫したいのです。 次に紹介するエッセイの一行目は、過去の具体的な体験を述べながらも謎を残しています。 むかし、フランスに留学している頃、わかりもしないのに美術館によく行った。 (聡明なだけの女はすぐあきられる/遠藤周作「一人を愛し続ける本」より) ほんとうに、どうしてこんなヘマをやったのだろう。 おかしいのだが笑えない失敗をしてしまった。 自分で自分を閉め出してしまったのだ。 (急場のとき、頼りになるのはご近所、吉沢久子「私の気ままな老いじたく」より) コーヒーが終わり、ブランディの香りを楽しんでいる時、ウェイターが伝票を置きに来た。 彼は一瞬、男と女を見比べ、わずかに躊躇の気配を見せた後、それをそっと二人のちょうど中間のあたりに置いて立ち去った。 (マダムとジゴロ/森瑤子「恋の放浪者」より) 会話体 実体験を述べるのに、いきなり会話(直接話法)から入る書き方です。 小学生の作文ではこの手法が奨励されているらしく、小中学校作文コンクールの優秀作品に選ばれたものにかなり多く見られます。 会話体は親しみやすく、生き生きとした状況が伝わります。 何のことだろうと興味を持たせる効果もあります。 そのため、小説やエッセイでは、直接話法で始まるものもそう珍しくはありません。 「わたしはね、人魚なのよ」彼女はそういった。 (「トマト」藤原伊織) 「サテ、と、あなたなに飲む?」 「そうね、あたしジュースかコーラいただくわ」 (女連れ/伊丹十三「女たちよ!」より) 自分の考えや感想 日常生活で思っていることや、過去にあったことへの自分の気持ちなどから入る方法です。 読み手に何のことだろうと思わせれば成功で、そのあとに具体的な事実や体験を述べることになります。 自分の過去をふりかえると、私は母をふくめていい女性に恵まれたものだと思う。 (男は淑女なんか求めていない/遠藤周作「一人を愛し続ける本」より) お料理学校というのは、私にはどうも納得のいかない存在である。 (無駄なことです/伊丹十三「女たちよ!」より) 個人的な感情を述べるところから入るパターンは、一人称で書かれる小説にもしばしば登場します。 小説ですからもちろんフィクションですが、物語の世界に入ってしまえば、その間だけは読者にとって「事実」になります。 この手法は、主人公に早い段階で感情移入させる効果があります。 私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う。 (「キッチン」吉本ばなな) 幼かったころ、私は自分が住んでいる街が、永久に変わらなければいい、と本気で願っていたことがあった。 「無伴奏」小池真理子) 引用、伝聞 冒頭で、偉人やその道の専門家などの言葉を引用したり、伝聞を述べたりする手法があります。 引用や伝聞が有名人の場合は、最初から読者をひきつける効果があります。 たとえていうなら、スポーツの試合前の歌手などによるイベントのようなものでしょうか。 まずは盛り上げておいて、その熱気をそのまま本題につなげていくのがねらいです。 最もオーソドックスな出だしは、次のようなパターンになります。 ジャクリーヌ・ケネディは、とても誉め上手だったという。 (鏡の中のあなたに/森瑤子「恋の放浪者」より) 朝日新聞の天声人語では、かなり頻繁に引用や伝聞が使われます。 「鬼」と聞けば恐ろしいものを想像する。 若者言葉に「鬼ダチ」というのがあるそうだ。 ダチは友達だから、怖い悪友のことかと思ったら、外れ。 とても仲のよい友達をさすらしい。 (天声人語、2007年10月27日 朝日新聞より) この文章では「鬼ダチ」という若者言葉から入っていますが、テーマはそこにあるのではなく、その後、一転して広辞苑の話題に移り、「言葉の寿命」に関することに発展していきます。 引用や伝聞は、あくまでメインディッシュの前のアピタイザーに過ぎないのです。 本題を導き出すための引用の例としては、次の例がわかりやすいでしょう。 エイブラハム・リンカンは「人民の、人民による、人民のための政治」ということをいった。 ルノー は、リンカン流にいうなら「フランス人の、フランス人による、フランス人のための車」ということになろうか。 どうにもこうにも、こんなにフランス的な車は見たことがない。 (勇気/伊丹十三「女たちよ!」より) リンカンの言葉は、それをもじるためだけに引用されています。 本題は「フランス人の車に対する考え方」であり、そのテーマに沿ってルノー というものを作った「勇気」です。 引用や伝聞は、気の利いた言葉を選べばしゃれたエッセイになります。 しかし、あまり多用するのは考えものです。 使い方しだいでは、いやみにもなりかねないからです。 特に、権威ある言葉を引用して、自分を高めようという魂胆がその背後に見え隠れするとき、その文章は魅力を失うことでしょう。 そのほかのパターン 一行目の主なパターンを見てきましたが、もちろん、そこから外れたものもあります。 あまりおすすめできないものも含めて、ひとまとめにしました。 ・うんちく法 エッセイでもたまに見かけるのが、読者があまり詳しくは知らないだろうと思われる客観的事象を述べることです。 「あ、そうなんだ」と感心させて、話題に引きずりこめたら成功です。 次の文は、「うんちく法」がさりげなく使われている例です。 イタリー料理の一番典型的なオードヴルはなにかというと、これはほとんど日本に知られていないが、プロシュート・クルードというものである。 (待つこと久し!/伊丹十三「女たちよ!」より) うんちくで始まる書き方は、積極的にはおすすめできません。 上の文では、作者が有名な俳優(のちに映画監督)で、料理通であることも知れ渡っていましたから、ほんの少しうんちくを傾けても許されます。 しかし、それも度が過ぎると、「知ったかぶり」が鼻につき、喜ばれません。 かといって、だれでも知っている程度のことでは新鮮味がない。 そのへんの兼ね合いが実に難しいのです。 ボランティアは奉仕活動とは似て非なるものである。 手元の国語辞典によれば、「奉仕」とは「国家、社会や他人のために献身的に働くこと」とある。 と、まあ、こんな調子の文章ですね。 一見、気が利いているように見えますが、辞書という権威に寄りかかっている上に、衒学趣味を感じさせます。 言葉の定義が必要なのは、一般的に使われている意味と異なる場合においてであり、この場合は必要性を感じません。 このように手垢のついた手法は、極力避けましょう。 ・オウム返しの術 題目が与えられている場合などに、その言葉を反射的に使ってしまう場合です。 たとえば、「友情」という題で書き始めたとしましょう。 すると不思議なことに、何パーセントかの人は必ず、本文の始まりでその題目を反復します。 友情といえば、私が真っ先に思い出すのは、小学五年の頃、放課後いつもいっしょにオルガンを弾いたクラスメートのことである。 友情という題目のあとに、「友情といえば、私が真っ先に思い出すのは」と前置きを述べるのは蛇足です。 だいいち、これではいかにも人から題を与えられたようで、主体性が感じられません。 次のようにさらりと流しましょう。 小学五年の頃に、放課後いつもいっしょにオルガンを弾いたクラスメートがいた。

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幸せの絵本 家族の絆編|SBクリエイティブ

家族 の 絆 エッセイ

作文の重要なポイント! それは・・・ 『論理的にかつ感情的・人情的に感じたことを吟味すること』 大切なプロセスなのですね。 世の中悪いニュース、景気悪化・無差別凶悪犯罪・詐欺・・・・・ばかりなので、少しは温まるようなものはないかと探してみました。 文書で回答する場合には、作文が必要です。 で、ライフプランのお話しでは、家族というものが必ずつきまといます。 つきまとうと言うよりも、核だと言ってもいいでしょう。 しかしながら、時折、 「嫁さんの給料知らないんだ〜」 「ローンと光熱費は俺、食費関係は奥さん、いくら使っているか全然知らない」 このような方も多々いらっしゃいます。 「教育ローンのシミュレーションしてもらえませんか?」 「習い事、止めさせる良い方法ってありますか?」 こんな質問もあったり。 8月追記】 3年前に書いた文章なのに、毎年夏休みに入ると意外とアクセスが多い。 なので、大サービス(最近の皆さんはネット検索して作文するの?) 例えばね・・・こういうことを作文にすればどうかいな? 家族の絆という題ですから、登場人物は最低2人。 で、絆ですから、繋げるものが必要です。 ===== 序文編(始まり〜始まり〜) (1)誰が? {爺ちゃん,婆ちゃん,お父さん,お母さん}が入院した。 (2)どんな時に? {仕事中,車を運転中,通勤途中,畑仕事をしていて,テレビを見ている時}に (3)どうなった? {倒れた,血を吐いた,胸が苦しいと呻いた,入院した。 } ===== 自分のこと (4)どう思った、何をした、生活の何が変わった それに対して、(1)のレスポンス(反応)はどうだった? 例; 毎日、僕が、植木に水やりをすることになった。 植木を通して、爺ちゃんと繋がっている、、、、とか ===== 家族の絆という題ですから、登場人物は最低2人。 A(爺ちゃん)とB(私)。 で、絆ですから、繋げるものが必要でこれが「植木」とか「水やり」とか。 で作文で大事なのが、気づいたこと・感じたこと(上の(5))。 これがないと、単なる報告・ニュースになってしまいます。 この部分は目一杯膨らませて下さい。 『論理的にかつ感情的・人情的に感じたことを吟味すること』が作文では大切なプロセスであります。 家族というのは、空気と同じように「あって当たり前」。 これが無くなった時に、その有り難さが分かるというもの。 でもそれが無くなった時(入院したとか)、それを補えあえるのが絆。 逆に「無くて当たり前」の例。 子どもが夏休みで毎日家にいる。 だから、(爺ちゃんに代わって)水やりする。 こんなのもアリ。

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バイブル・エッセイ(164)家族の絆

家族 の 絆 エッセイ

「お父さん、お母さん、わたしカナダにホームステイしたい」 突然娘が切り出したのは、忘れもしない三年前の夏、一学期の終業式の日だった。 当時娘は小学生。 塾はおろか、授業で英語など本格的に習ってもいない十一歳の子供にそんな事が出来る訳がない。 妻と私はそう決め込み、「何を寝ぼけた事を言ってるんだ」と言わんばかりに軽くあしらおうとした。 何せまだ小学生である。 大人なら幾らか片言の単語ぐらい理解している。 けれど娘は日曜日がサンデーと言う事さえ知らない。 しかし、そう我々夫婦がいくら説得しても、娘はパンフットを手放す事なく必死に訴え続けた。 一時の子供の気の迷いと思い込んでいた私達も、彼女の真剣な眼差しに次第に本気で向き合い話すうちに概略が判ってきた。 彼女が手にしたパンフレットは学校の掲示板に張ってあったもので、毎日気になり、終業式の日に先生に頼み込んで貰って来たらしい。 けれど確かに対象年齢は小学生高学年からと記載はあるものの、全くの個人ホームステイで夏休み期間中、ステイ先の学校にさえ自らで通わなければならず、山間の過疎地の山村集落で今まで過ごしてきた彼女が、とてもこんな過酷な海外生活に対応出来るとは思えなかった。 しかし彼女は諦めなかった。 何とか思いとどまらせようとする我々を尻目に、彼女は着々と申込み準備を開始し、とうとう我々親子は都市部で開催される説明会に赴く事となった。 「本当にこんな小さな田舎育ちの子が大丈夫でしょうか」 開催事務局の方に尋ねると、「確かに今回の中では最年少ですが、後は本人の頑張り次第です」との答えが返ってきた。 そしてそこで我々夫婦は初めて彼女が海外渡航を望んだ理由を知った。 『赤毛のアン』。 もう随分前どころか、私が子供時分に買って貰った伝記を彼女は毎晩の就寝時に読み、空想を膨らませ、いつかこのアンの生地である北アメリカへ旅立ちたいと願うようになったそうだ。 胸を張り、凛としてそう事務局の方の質問に答える彼女が親として初めて眩 まぶ しく感じた。 この光景を目の当たりにした我々夫婦は、彼女のホームステイを許可することとした。 こうして短期間の間に彼女のホームステイの準備が始まった。 いくら本人がやる気でも何せ十一歳の少女である。 先方家族への不安やそれ以前に、無事にカナダまで辿り着けるかさえ親としては気が気でなかった。 サンデーとマンデーの違いも解らぬ子だ。 辞書も必要との事であったので、遠方の町の大型書店まで出向き、小学生向けの分厚い辞書を購入した。 挿絵描写もふんだんに取り入れられた、いかにも子供向けの辞書だったが、少しでも本人の手助けになればと、夫婦で何時間も悩み選んだものだった。 「良いかい。 向こうのお母さんたちが言っている事が解らなかったら、すぐにこれを見せて指で示して貰うんだよ。 分かったね」 そんな風に辞書の扱い方まで教える家族の不安を知ってか知らずか、本人がいかにも気楽に構えて淡々と準備を進めていく様に親として子の成長も感じた。 出発日前日、荷物の最終確認を行うためスーツケースを開けると、我々が準備したいろいろな物の奥に、『赤毛のアン』とあの「分厚い辞書」が入っていた。 こうして彼女はにこやかに手を振り空港から旅立って行った。 親の毎日の心配をよそにステイ期間中の数週間、彼女から一切の連絡は無かった。 頼りの無いのは無事な証拠と言ったものだが、毎日が生きた心地がしなかった。 そして帰国日、彼女は日焼けした顔に白い歯を見せて元気に戻って来た。 そしてあれこれいろいろなみやげ話を聞かせてくれた。 後日判った事だが、今日のご時世である。 現地で何人かのホームステイをしている中学・高校生と知り合ったが、全員が自動翻訳機能付きの電子辞書でコミュニケーションを取っていて、こんな分厚い紙の辞書を持っている子なんて自分一人しかいなかったらしい。 けれど「プリーズ」と言って辞書を広げると、ステイ先の家族は懇切丁寧に指をさし、意思疎通を図ってくれたそうだ。 そして日本語版の『赤毛のアン』を見せたらとても喜んでくれたと、妻に語ったとの事だった。 「お父さんには辞書の事は言わなくていいよ」と妻に彼女は語ったそうだが、彼女なりに田舎者の両親が町まで出かけて辞書を買う様子を見て、電子辞書の件は気を使ってくれたと思うと、恥ずかしい気持ちの反面、正直嬉しく涙が出た。 あれから三年、現在中学生の彼女は、将来海外で人の役に立つ仕事に就く事を夢見て、独学で英語の勉強をしている。 しかしその間、電子辞書を買って欲しいとは決して言わない。 彼女の手元に今でもいつも、あの「分厚い辞書」と『赤毛のアン』が置かれている。 電子化による利便性が向上する中、それに替えられない大切な何かがある事を、私達家族は今回この二冊の書籍に思い知らされた気がした。

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